【演奏会 感想】メネゼス&ピリス デュオ・リサイタル (2013.03.18 すみだトリフォニーホール)

2013.03.19 Tuesday

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    ・メネゼス&ピリス デュオ・リサイタル
     (2013.03.18 すみだトリフォニーホール)










    <<曲目>>
    ・ベートーヴェン:チェロ・ソナタ 第2番 ト短調 Op.5-2
    ・シューベルト:3つの小品D.946
    ・J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調 BWV.1007
    ・ベートーヴェン:チェロ・ソナタ 第3番 イ長調 Op.69
    (アンコール)
    ・J.S.バッハ/パストラールBWV590
    ・カタロニア民謡/鳥の歌

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      春の嵐が吹き荒れる今日は、アントニオ・メネゼスとマリア・ジョアン・ピリスのデュオ・リサイタルを聴いて来ました。場所はすみだトリフォニー・ホール、曲はベートーヴェンのチェロ・ソナタ第2番と第3番を最初と最後に配し、ピリスの弾くシューベルトの3つの小品と、メネゼスの弾くバッハの無伴奏チェロ組曲第1番と、デュオとソロの両方を楽しめるという魅力的なプログラム。

     今日の演奏会を聴いて私が得たものを端的に言うなら、「人は何のために音楽するか?」ということの答え。

     音楽をやるのは、聴く人からの喝采と賞賛を得るため?そのために、大きな音を出して圧倒したり、細かいパッセージをアクロバット的に目も止まらぬ早さで弾いて驚かせたり、いかにもというような甘い音を出して蠱惑したりという手練手管を尽くすのか?

     違う。いや、違わないけれど、決してそれが最終目的じゃない。

     音楽するのは、音楽を書いた人、そして、音楽を聴く人とコミュニケートするため。対話をするため。

     人と対話するには大言壮語は必要ない。大げさな身振りもいらない。音楽の内容を伝えるのに必要十分な音の大きさや早さがあり、音楽にふさわしい音色やリズムがある。そこから逸脱してしまえば、演奏する楽曲を通したコミュニケーションは成立しない。

     音楽における「自己実現」とは、音楽を征服して自分の色に染め上げる行為を指すのではない。華麗なテクニックを駆使し、美しい音で綺麗に飾り付けられた音楽は、もはや本来の音楽とはまったく別のもの。聴衆と一体となって、音楽が語りかけるものに耳を澄まし、自分たちの中でどんな変化が起こるのかを感じ取る場を作る、それこそが音楽家にとっての最高の「自己実現」なのだ。

     メネゼスとピリスの演奏からは、そんな音楽への「あり方」を痛切に感じることができました。二人の演奏は、そう、デュオにしても、ソロにしても、人から喝采を浴びようとか、賞賛を得ようとか、そんな「我欲」とは無縁の高い境地にあるものだったのです。

     まず、メネゼス。この人の存在は、1980年代後半、晩年のカラヤンとの共演で知りました(今と風貌は別人みたいですが)。その当時は、正直なところ、カラヤンは音がきれいで技術も高く、そして、自分の言うことを聞く若手を起用したんだろうなどと思っていました。でも、今のメネゼスのチェロを聴いて、そんな考えは浅薄なものだったと知りました。

     カラヤンが70年代後半から亡くなるまでの間に目指した音楽は、きっと今日のメネゼスとピリスがやった音楽のようなものなのではないかと思うのです。つまり、晩年のカラヤンは、70年代前半に豊麗を極めたゴージャスな響きを身にまとった音楽から脱却し、もっと室内楽的で繊細な響きをもった音楽を手に入れたかった。指揮者がトップダウンで君臨して音楽を作るのではなく、個性の異なる音楽家たちが集まって自律的に生み出す音楽から指揮者の理念が浮かび上がってくる、そんな室内楽な営みから生まれてくる管弦楽の世界を作りたい。彼のそうした指向に合致する演奏家とは、カラヤンの晩年では、若い頃のメネゼスのような人だった。

     メネゼスは、カラヤン亡き後、ソリストとしてだけでなく、室内楽プレイヤーとしても豊かなキャリアを積んできた。プレスラーと一緒にボザール・トリオをやったり、オルティスやフレイレのような名手たちとも組んで演奏会を重ねたりするうち、ついに今日のピリスとの演奏会で聴かせてくれたような至高の境地にまで達した。そんな経緯を思えば、カラヤンという指揮者は単に若い才能を見つけるのがうまかったという以上に、将来の新しい音楽の流れを見越した上で、その潮流の先頭に立つべき人を見出す能力があった人だったということなのでしょうか。カラヤンの「先見の明」にはまったく恐れ入ります。

     でも本当のことを言うと、それ以上に、カラヤンという大きな存在の影響に潰されることなく、純粋に自分の理想を追い求め続け、自らの進むべき道をまっすぐに歩み続けてきたメネゼスという人にこそ私は心から敬服すると私は言いたい。声を大にして言いたい。きっと天国にいるカラヤンは、今日の演奏を聴いて「ああ、俺の理想の音楽はアントニオがやっている音楽だ。こんな音楽を手に入れたかったんだ。今こそ、彼と共演したいのに!」と地団駄を踏んでいるに違いない。メネゼスはカラヤンに見出され、カラヤンに勝った男、ということになるのかもしれません。

     ベートーヴェンの2曲のソナタも、バッハの無伴奏も、私自身、アマチュアのチェロ弾きとしてずっと練習してきた曲ですが、これほどまでに「真似する気の起こらない」演奏を聴くことは稀なことです。自分が全然弾けなくて苦労したパッセージを、メネゼスがさりげなく軽々と弾くのを聴いていると、ああ、これは俺が弾いちゃいけない音楽だったんだとまったく恥ずかしくなる。あるいは誰かスター演奏家の華麗な技を真似をしていたような箇所では、自分で考えて自分で感じて弾くことの大切さを突きつけられ、その自分の浅薄さを思い知らされてしまう。

     しかも、ほとんどノーミスの完璧な演奏でもある。普通、結構な大チェリストでも、ライヴでは「あ、やってもうた」的に音程が怪しくなる場面にはそこそこ遭遇するのですが、この人の場合、一度もなかった。特に半音の音程のとり方が絶妙なので、調性感、和声感がいつも明確で、音楽の焦点が絶対にブレない。針の穴を通すような正確な音程。でも、だからと言ってせせこましさとは無縁のおおらかな歌も聴こえてくる。そのへんのバランスが絶妙で、まさに名手の音楽でした。

     特にバッハ。彼の無伴奏は再録音の方のCDを持っていて、とても気に入っていますが、あれよりもさらに味わい深い演奏になっていました。常に平明で穏やかな語り口でしみじみと語りかけてくる音楽。熟慮された末に生まれてくるピュアな響き。前述のように、半音(特にシャープ系)のとり方が明るめなので、音楽が必要以上に深刻になったり、哲学的になったりすることもない。聴き手の心に優しくあたたかく寄り添うような演奏に、たまらない至福を感じました。

     そして、ピリスのピアノも、言葉がないくらいに素晴らしい。メネゼスとのベートーヴェンは、ピアノとチェロのどちらが主役とか、どちらがリードするとかいう次元は遥かに超え、プログラムノートで萩谷由喜子さんが書かれていたように、チェロとピアノが「一人で弾いている」かのような稀有な一体感を感じさせるような演奏ぶり。これこそ本当の意味での室内楽なんじゃないかというほどに音楽する喜びにあふれた演奏でした。そして特に印象的だったのは、曲の途中でふと調性が変わったり、曲想が変わったりする場面で、ピリスのピアノがふっと世界を変えてしまうあたりの鮮やかさ。音楽の中にある風景をとことんまで楽しみ味わうことのできる素晴らしい瞬間の連続。

     そしてシューベルト!先日聴いた16,21番のソナタのCDと同じように、もうただただこれを聴いているだけで幸せというほかない、私にとっての「これぞシューベルト!」と涙を流しながら叫びたくなるような演奏でした。彼女の弾く弱音の美しさ、そしてその美の裏にある真実の厳しさ、苦さ。聴いていて幸せすぎて哀しく不安になってしまう。私の求めるシューベルトの音楽の特質を余すところなく差し出してくれる。特に私が偏愛する第2曲の深々とした情感は、これまで聴いてきたシューベルトの実演の中でも一際強く印象に残るものでした。また、第1曲ではシューベルトの死後、出版にあたってブラームスが編纂してカットした部分も復活させてくれましたが、そこが素晴らしい音楽でした。本当にかけがえのない「私のシューベルティアーデ」の時間を過ごすことができました。

     ベートーヴェンのソナタ第3番の後、会場からのあたたかい拍手に応えてアンコールとして演奏されたのは、バッハのパストラール。先日発売されたウィグモア・ホールでのライヴCD(これも素晴らしい演奏でした!)にも収録されているのですが、私にとってはこの曲はカザルスの曲。彼の1950年代のプエルトリコでの録音が私の宝物のような演奏で、自分でこの曲を演奏(チェロ・アンサンブルに編曲)するときにもカザルスの演奏を参考にしたものです。決して深刻にならず、あたたかで真摯な祈りにも満ちた語り口には胸をかきむしられる思い。きっとこの曲を今日も演奏してくれるだろうと期待していただけに、本当に嬉しかった。素晴らしい。

     そしてアンコールはもう一曲。これもカザルスの曲と言ってよいもので、カタロニア民謡の「鳥の歌」。何にも変わったことはしない(ちょっとした装飾音はありましたが)淡々とした演奏の中に、メネゼスとピリスの音楽への思いが詰まっていて、こちらもこみ上げてくるものをこらえるのに必死になるくらいでした。

     19時開演で終演が21時30分と盛りだくさんな演奏会でしたが、それ以上に内容の濃い、そして深い体験を与えてくれる演奏会でした。音楽って何て素晴らしいのだろう、音楽のある人生って何て豊かなのだろう、という幸せを噛み締めながら感想を書きました。メネゼスとピリスの二人に心からの感謝を。そして、是非また一緒に来日して、素晴らしい音楽を分かちあわせてくださいとお願いしたいです。また、それぞれのソロも勿論また聴きたい。ピリスの弾くモーツァルトやシューベルトのソナタを聴きたいし、メネゼスの弾くバッハを全曲聴きたい。ヴィラ=ロボスやミニョーネら南米の作曲家の作品もたくさん聴きたい。招聘元には、是非、是非、お願いしたい。

     ところで、アンコール二曲目の「鳥の歌」を演奏する際、ピリスが舞台袖からメネゼスと出てきた時、「あ、楽譜を忘れてきちゃった」と引き返す場面がありました。まさに「テヘペロ」の微笑ましい失敗なのですが、ああ、このピリスという人、結構サザエさんなのかなと思ったりしました。そんなところをも人間的な魅力と感じさせるピリス、本当に素敵な女性です。(以前ネットで出回った有名な動画を想起しています)

     それから、メネゼスという表記、パンフレットなどではメネセスと書いてありますが、彼の奥様(日本人)からうかがったところ、ブラジルでは「メネゼス」に近い発音(ネにアクセント)とのことで、彼が住むスイスのドイツ語圏でもやはりメネゼスと発音する由。ややこしくなった理由は、彼の血縁関係の人たちはみな"MENEZES"なのに、役所の出生係がどういう訳か"MENESES"として登録してしまったからだそうで、ラテン的な大らかさだなあと思いますが、この際、めんどくさいので、日本では親しみをこめて「おさーん」という名前に改名してしまえばどうかと。だって、奥様のツイートに登場する「おさーん」は、とっても人間的で、とっても気さくで、奥様じゃなくてもみんなが好きになってしまうような魅力的な人だからです。アントニオ・メネゼス改めアントニオ・オサーン。いや、冗談です。失礼しました。

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    2020.05.19 Tuesday

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      コメント
      私も聴きに行きました。ビレシュがシューベルト、3つのピアノ曲、D.946、第1曲でシューベルトが削除した部分を含めて演奏していました。これも1つの解釈だと感じています。
      • by 畑山千恵子
      • 2013/03/19 5:32 PM
      はじめまして。

      私も昨夜とても幸せを感じまして、思わずコメントさせていただきました。

      お書きになってることいちいちうなずいてしまいます。

      こけおどしもひけらかしも大言壮語もない、ただただ流麗な音にすっかり心洗われました。

      私も少し落ち着いたら言葉で残しておこうと思います。

      お邪魔致しました。
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