【自己批判】私が言いたかったこと

2013.03.22 Friday

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    ・考え中のレナード・バーンスタイン
     (本文とは関係ありません)
     
     「客席ガラガラの演奏会に思うこと」という記事に引き続き、また、以前書いたエントリーのアクセス数が急上昇しました。11月に書いた「文楽いじめとヒンデミット事件」がそれで、Facebookのシェア回数のカウンタも急増。一体、何があったのかちょっと調べてみたところ、どうやら昨日の朝日新聞の朝刊に載ったドナルド・キーン氏のインタビューがネットでも話題になり、文楽への補助金にも言及されていたことから、私のブログの記事にたどりついた人が多かったということらしい。Facebook経由のアクセスがほとんど。

     私の記事に共感してくださる方がいるのはとても嬉しいことです。読んで下さった方、いいね!して下さった方には、ひたすら感謝するしかありません。ですが、反面、アクセスが増えたために、否定的なコメントが来たり、RTされたTwitterでちょっと叩かれたりもしている。「文楽いじめとヒンデミット事件」というエントリーは「これは流石にひどい」とも書かれています(何がどうひどいかは明確ではありませんが)。私は、子供の頃から、褒められて伸びるタイプで、打たれ弱く、喧嘩も弱い人間なので、ちょっと言われると非常に凹んでしまいます。とは言え、ネットで公的な発言をしたからには、そうしたご批判を頂くのは覚悟の上のこと。反論というより、自己批判として思うところを書いておこうと思います。

     さて、「文楽いじめとヒンデミット事件」に対して頂いたコメントは、「お前、そういうこと書くからには文楽に足を運んでるんだろうな?」というものでした。そのエントリーの本文で私は「かく言う私も是非観に行きたいと思っていますが、まだ実現できていなくて悔しい」と、まだ文楽を観たことがないことを正直に書いていて、きっとそれをお読みになった上で書かれたコメントだと思いますので、「11月以降、文楽見に行ったんだよな?」というコメントだったと理解して回答します。

     いや、それが大変残念ながらまだ行けていないのです。コメントを下さった方が私に対して言いたかったことは、「文楽がなくなったら大変だと言った割には見に行っていないのなら、そもそもお前にそんなことを言う資格はない、黙ってろ。」ということだと認識していますが、「まったくもって言行不一致でお恥ずかしい、5月には行きたいと思っているので許してください。」というのが私の偽らざる答えです。言い訳をしておくと、そもそも大阪まで文楽を見に行くことは時間的・経済的に無理、東京での公演は、前回の12月は行けませんでした。クラシックの演奏会の予定を(私にしては)多く入れていたので、文楽にまで手が回らなかったから(東京の文楽はいつもチケットは争奪戦なので、行ける状況だったとしても、チケット自体がとれなかったかもしれないですが)。ですので、次に行われる予定の5月の公演こそ行きたいと狙っているところです。何といっても、近松生誕360年で「心中天網島」「曾根崎心中」という演目ですし。

     でも、私がブログで言いたかったことは、「俺は文楽見に行くぞ、文化大事だ大事だと言っておきながら何にもしないヤツとは違うぞ」という意思表明ではありません。当然「俺はこんなに文楽に貢献してるぞ」というアピールでもない。「補助金をなくすのは何が何でも反対」と、橋下市長へのネガティブキャンペーンをやろうとしている訳でもありません。ましてや、自己の優越感や全能感の誇示を目的とした、他者攻撃でもない。でも、私の文章力欠如のせいで、そもそも私が本当に言いたいことはちゃんと書けていなかった。人に伝えたいと思った考えは伝わらなかった。

     では、先のブログで結局のところは何が言いたかったのか?要するに何だ?という自問に自答しようと思います。

     橋下市長の登場で身にしみて私が実感したことは、なかなか商業ベースにはのりにくい伝統芸能や芸術は、無理解で粗野な為政者の手によって簡単に潰されてしまう可能性があるということです。しかもそういうリスクを発症させる要因が、為政者に対する市民からの多大な支持であるというケースもあり得る。その場合は、世の中の多くの人たちが、文楽への補助金として税金を使うことに同意していないのだ、これは民意だということが為政者にとっての大きな「根拠」となる訳です。なるほど、これだけ経済的に厳しい状況の続く世の中ではそれも仕方がないのかもしれない。芸術、伝統芸能なんて、別になくたって生きていける。優先順位なんて全然高くない。補助金がなくなって潰れるくらいなら、それは「私たち」の社会にとっては「不要」だったということ。無駄にカネを食う悪弊を消すことができたのだから、むしろ歓迎すべきことではないか。

     もちろん、私はそういう風には思えません。これまで何百年も続いてきたもの、私自身が大切に思っているものを、そんな簡単な原理で、そして近視眼的な考え方で切り捨ててしまうなんていうことは、ご先祖さまにも、次の世代の人たちにも申し訳なくてできない。
     
     だったら、文化芸術、伝統芸能を守りたい、保護したいと思っている人たちが、知恵とカネを集めて、何とか公的な補助金に代わるものを生み出さないといけないんじゃないのかな?と思っているのです。日本ではなかなか根付かないという話もありますが、ファンから広く寄付を募ったり、あるいはNPO法人なりファンドを立ち上げて助成したり、あるいはもっと新しい手法を考えたりして、市民が支えていくしか、もう方法は残されていないんじゃないか?ということ。これは、文楽に限らず、オーケストラや、美術館、落語、今、国なり自治体から補助金を受けている団体すべてについて言えることではないかと思うのです。公的な補助を前提とせず、広くお金を集めて団体の活動を充実させ、長く存続させていく手段をいくつも作っておいた方がいいんじゃないかと。

     なるほど私は文楽は見に行ったことはありません。金銭的には何の貢献もしていない。これからも行けるかどうかわかりません。見に行ったからといってすぐに理解できるものでもない。ドナルド・キーン氏が言っていたように「人形遣いが見えなくなる」境地に達するには時間がかかるでしょう。でも、文楽は存続させるべき、小さなことでも何か支えになることをしたいと願っています。自分がいつか見に行けるために、あるいは、次の世代の人たちのために。そのためには、実際に見に行かなくても、お金は出せるということがあってもいいんじゃないか。クラシックの来日アーティストのチケット代を安くする方法を考えたのと本質的にはまったく同じことを考えているのです。

     私自身はクラシックのファンですから、例えば、オーケストラのことを考えてみます。

     今、私は、名古屋フィルの活動に非常に興味があります。なぜなら、一般的に知名度は低いかもしれませんが、海外マイナーレーベルのCDを聴くのが好きな人なら知らない人はいないという名匠マーティン・ブラビンズが首席指揮者に就任し、とてもユニークなプログラムを組んでいるからです。私だけでなく全国のファンの間でも既に大きな話題になっています。でも、私は横浜に住んでいるので、そうおいそれと名古屋まで聴きに行くことはできない。新幹線代、へたすると宿泊代、そしてチケット代込みで結構な出費になるから。しかも家族はろくすっぽ旅行に連れて行かないのに、自分だけ名古屋へ遊びに行くというようなことはなかなかきつい。

     ならば、私は「リアル会員、エア聴衆」になって名古屋フィルを支援できるようにできないか。「リアル会員、エア聴衆」の私は、名古屋フィル、または支援団体に対して、年間会員費を払います。別に団員さんとの懇談会やパーティーに参加できなくてもいい、パンフレットに名前が載らなくてもいいから、その代わり、定期演奏会のネット配信のチケットがもらえたり、市販のCDが割引で買えたりするというようなささやかな特典がある。勿論、実際に名古屋に聴きに行ける場合は、チケット代の割引や優先販売があると嬉しい。何かの機会ごとに、会員からのいろんなフィードバックもオケには伝わっていくのもいい。そうやって「リアル会員、エア聴衆」が全国、いや世界から集まって、国や自治体からの補助金がなくとも、チケット売上と、会員費で経営が成り立つようにできないか。

     そして、そうした仕組みが、文楽でも、オーケストラでも、オペラでも、バレエでも、あるいは落語でもできないかなあと思っています。本当なら私自身がこの考えをブレイクダウンして、実際のビジネスに展開できるようならば良いのですが、一介の凡庸なサラリーマンに過ぎない私はいかんせんビジネスセンスもないし、アートマネジメントなんて全然知らないので、ただの妄想として言うしか能がない。もしこのブログを読んだ人の中で、「よっしゃ、そんなことだったら私に任せなさい。形にしてみせるよ。」という素晴らしい人がいないだろうかと、他力本願で控えめな呼びかけをしたい。私が先のブログで言いたかったことというのは、その一点なのです。いや、お前の文章をどこからどう読んでもそういう風には読めなかったぞ、読めないぞという声が聞こえてきそうですが、「現状のままじゃ困るよね、何とかしたいんだけど、何かいい知恵ないですかね?」という問いかけに集約されるのです。

     言うだけなら誰だってできるよと言われればそれまで。とても情けない。私が文楽を見に行ったことのない言行不一致のふざけたヤツという御指摘も甘んじて受けます。偉そうな口叩きやがって、お前は文楽はおろか、音楽だ芸術だなんて何にも分かっちゃいない凡人だろうが!というご批判もごもっともだと思います。私のブログを音楽の専門家に読ませてご覧なさい、「あ、この人、音楽のことわかってないよ」という言葉が帰ってくるでしょうから。それに、政治のことだって何にも知らんじゃないか、お前はアホだと言わればそれまでです。でも、だからと言って、「黙ってろ」と言われることには納得がいきません。

     私が妄想するような仕組みができて、もしもうまくいくとするならば、「文楽なんて要らん」「富裕層向けの文化など潰してしまえ」という橋下市長に近い考え方をする人に対して、「補助金に頼らず、好きなもんだけが集まってカネと人を出して保護している、文句あっか?」と言うことができる。そして、「要らないとおっしゃいますが、こちらはいつでも門戸を解放していますよ、気が向いたらどうぞ」とオープンになれる。

     私は、日本は「文化を愛し、大切にする国」であってほしいと思っています。ちょっと足を伸ばし、時間をつくり、ほんのちょっとお金を出せば、いつでも何かしら「文化」に接することができる国。それが日本古来のものであれ、海外からきたものであれ、まったく新しい発想から生まれたものであれ、「文化」と、その担い手に対して愛情と敬意をもつ人たちが集まった国。文化を「富の再分配の方法」の一つとして捉えるのではなく、自分たちの創造的な営みの総和として自分たちで新しい価値を作っていくものとして大切にできる国。そんな理想を実現するための強力な仕組みを、行政に頼らず、市民の活動の中から生まれるようにしたい。それができる市民、国民でありたいのです。自分が分からないもの、理解できないものは世の中にとっても不要である、というような短絡がはびこる社会というのは、第一人称でしかものが考えられない、想像力の欠如した人たちの作る社会。そんな社会には残念ながら未来はないと思います。AKBでも、アニメでも、文楽でも、クラシック音楽でも、モダンアートでも、それらの「文化」を求め、愛している人がいる限り、すべての人が敬意をもって大切にする社会がいい。

     言うまでもなく、既得権益にしがみつき、権威をふりかざし、頑なに新しいものを拒むような当事者たちがいるならば、その人たちは排除すべきです。でも、だからといって、その人たちをスケープゴートにして引きずり下ろすばかりか、その文化自体に対してもネガティブキャンペーンを張って存在を否定し、その文化の息の根を止めてしまうような愚だけは犯したくないです。後世の人たちからこれ以上「馬鹿なご先祖さま」と呼ばれないためにも。

     と、こんなふうに私が理想を述べ、「何か知恵はないでしょうか?」という問いかけるくらいは、せめてネット空間で許されるんじゃないでしょうか。ダメでしょうか。やっぱり黙ってろということになるのでしょうか?

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    2020.05.19 Tuesday

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      コメント
      初めまして。

      ちなみに私は音楽非専門家であり、楽器も弾けない素人のクラシック音楽好きです。

      ネットじゃなくても、理想を述べたり、何か知恵がありませんかと問いかけするくらいは、今の日本では自由だと思いますよ。

      それはともかく気になったこがあったのでコメントしました。

      音楽がわかるというのは、一体どういうことなのでしょうか?

      >「あ、この人、音楽のことわかってないよ」

      こんな発言をする人がいるというのは思い込みでは?
      • by atsushi
      • 2013/03/23 4:08 PM
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