【演奏会 感想】ジョルディ・サヴァール 無伴奏の夕べ ー人間の声−
2013.09.14 Saturday
<<曲目>>
●祈り
K.F.アーベル:前奏曲
J.S.バッハ:アルマンド(無伴奏チェロ組曲第5番ハ短調BWV1011より)
J.シェンク:アリア・ブルレスカ
●哀惜
サント=コロンブ2世:ロンドー形式によるファンテジー
サント=コロンブ:涙
作者不詳(フランスのブルターニュ地方):哀歌「ああ、思い出して」に基づく変奏と即興
J.S.バッハ:ブーレ(無伴奏チェロ組曲第4番 変ホ長調 BWV1010より)
●人間の声
ドゥマシ:前奏曲 ニ長調
M.マレ:人間の声、ミュゼットI-II、跳躍
********** 休憩 **********
●「音楽の諧謔」
トバイアス・ヒューム:戦士の行進 / ヒューム大佐のパヴァーヌ&ガリアルド / 聞け、聞け / 戦士の決意
●「リラ・ヴァイオルのためのレッスン集」
A.フェラボスコ:コラント
T.フォード:ここでいいじゃないか
J.プレイフォード:鐘、サラバンド へ長調
●作者不詳(1580年頃):バグパイプ・チューニング
ポイントあるいは前奏曲 / ランカシャー・パイプス / ラムゼイの豚
一杯のお茶 / バーディーのケイト / おもちゃ
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今日、王子ホールでジョルディ・サヴァールの弾くヴィオラ・ダ・ガンバを聴きながら、私はこんなことを考えました。
この地球にはたくさんの国や地方があって、そこには無数の音楽が存在している。国、地方、民族、そして作られた時代によって、それらは互いに全然違うものに聴こえるし、実際に違う。でも、地球を、宇宙の遥か彼方の地点に存在する「観測者」の視点から見ると、それらはすべて、ちっぽけな小惑星の上で、知的生命体が生存することのできるごくごく一瞬の間に生み出された、たった一つのもの。イギリスの音楽だろうが、フランスの音楽だろうが、ルネッサンス期の音楽だろうが、みんな一緒。同じ音楽なのだ。
そんな馬鹿なと言われるに違いありません。バッハの音楽とマレの音楽というのならまだしも、それらと、今のポップ・ミュージックやJ-POPも煎じ詰めれば皆同じ音楽なのだ、音楽は国境も時代も超えるのだ、音楽は世界共通の言語なのだ、などと口にしようものなら、「お前はアホか」「どんだけお花畑なんだ」と言われてしまうかもしれません。いや、私だって普段はそんなことを考えている訳ではありません。音楽に国境はあると思っているし、例えば、音の記録の残っていない古い時代の音楽を理解するためにはある程度の耳の訓練が必要だと思っています。
でも、今日、サヴァールの実演を聴いた人の多くは、少なくとも客席で音楽を聴いている役2時間は、音楽は時代も国境も超える、音楽は人間の共通言語なのだと思わずにはいられなかったのではないだろうかと思います。なぜなら、サヴァールの奏でる16〜17世紀のヨーロッパの古楽、つまり私の生まれ育った環境とは見事なくらいに関連性のない音楽たちのどれもが、まるで私に何かを語りかけるかのように私の耳にすっと入ってきて、私という人間の最も根っこの部分に根ざした部分を強く刺激したからです。そして、彼が弾いた曲が全部ひっくるめて一つの大きな「音楽」であるかのように思えてきました。
一体、どうしてこんなことが可能なのだろうと思います。いくらサヴァールが才能豊かな音楽家であり、研究者でもあるとしても、これだけ多彩なプログラムで、作曲家固有の語法をきちんと踏まえて音楽の持つ「生命」を掴み取り、それぞれに相応しいスタイルの演奏を成し遂げるだけでも凄いのに、それらの音楽の背後に全ての音楽をひっくるめて包括してしまうような存在を感じさせるという点だけで、もうそれは感動的としか言いようがありません。
では、その「存在」とは何か。神?宇宙のはるか彼方から、すべての時代を超越し、人間のあらゆる行動を見つめている存在?
いや、そうではない。それはやっぱり「人間」なのです。
そもそもリサイタルのタイトルが「人間の声」。マレの作曲した曲のタイトルにちなんだものであり、前半にそれを含む1998年リリースの同名のアルバムからいくつかの曲を抜き出して演奏し(「祈り」「哀惜」「人間の声」と呼ぶパートに分けられた)、さらに後半にイギリスのガンバ作品を集中したもので、まさに「人間の声」を、そして「人間」の存在を感じずにはいられなかった。自らを神に見立て、神の視点から人間の営みを見るというような尊大なスタンスで音楽を捉えるのではなく、あくまで地上の人間の立場から、てんでバラバラの音楽たちを、ある「横串」を通して見つめて演奏し、そこから何かを聴き取ろうというような姿勢を感じるのです。
その横串とは何か。人間という存在が善きものである、あるいは善きものになる可能性がある、存在を肯定する価値のあるものである、という強固な信念でしょうか。それは決して能天気で無邪気な願望などではなくて、揺ぎのない確信に満ちたもののように思えます。ニコニコせずにはいられないようなユーモア、しみじみと聴き入るしかない荘重な歌、書かれた時代や国の文化の特徴を色濃く反映した語法というような、一見まったく関連性のなさそうに思えるものであっても、その向こう側にあるものを突き詰めていけば、そこにはいつも「人間」の存在がある。こんなに素晴らしい音楽を書く人間というのはやはり素晴らしいのだ、価値があるのだ。サヴァールの音楽を幸福感いっぱいになって聴きながら、私はそんなことを思わずにいられませんでした。
要するに、音楽をする、音楽を聴くということは、その「人間」をよく知り、理解を深めていくこと、愛を深めていくこと。人間の持つ感情を知り、味わい尽くすこと。時には愉しく踊り、歌い、時には深い哀しみに身を浸し、限られた生を味わい尽くすこと。人間というものの特性、善きものと哀しいものすべてについて思いを致すこと。そして、人間というちっぽけで儚い存在のかけがえのなさを知ること。
耳をすまさなければいけないような小さな音しか出ないヴィオラ・ダ・ガンバ一台から、私はどれほど大きくて豊かであたたかいものを受け取ったことでしょうか。まさに至福のひとときというしかない時間を過ごしながら、私はシリアで起こっている哀しい現実について思いを馳せずにいられませんでした。ちっぽけな地球でのほんの一瞬をしか生きることのできない私たちは、無意味な殺戮や疑心暗鬼のために、どれほど貴重な時間を、かけがえのない生命を失わなければならないのかと。
そして、つい最近読んだレナード・バーンスタインの最後のロング・インタビューの言葉を思い出さずにはいられませんでした。
同じ地球に住んでいる人間が、同じ和音の法則や二本足などなどを前提としていても、 お互い音楽について本当に語れないということがあり得るのか?新しい音楽に自分をさらしたり、さらされたりの問題であり、それを、音楽を全く知らない敵と してではなく、"異邦人"としてでもなく、同じこの惑星に住む友好的な共存者として接する問題であると、僕は理解した。自分とは少し違う誰かと知り合うの は素晴らしいことではないかね?(レナード・バーンスタイン ザ・ラスト・ロング・インタビューより)
レニーの言葉に思い当たって、最初のこっ恥ずかしくなるような言葉に戻ってしまったのですが、人間は音楽を通して一つになれるはず、たとえ国や民族が異なっても、私たちは互いの存在を認め合い、「人間」として一つに融け合えるはず、いや、そうしなければならないのだと思わずにいられませんでした。人間を信じて、人間の良心を信じて、困難な道を歩んでいかなければんらないのだと。サヴァールの紡ぎ出したただただ美しく、楽しく、哀しい響きの余韻に浸りつつ銀座の街を帰宅の途に着きつつ、そんなことを考えました。
今年これまで聴いてきた演奏会の中でも特に印象に残るであろうと同時に、一生忘れることのできないような啓示的な演奏会を聴くことができました。またサヴァールのヴィオラ・ダ・ガンバやヴィオールを聴きたいし、今度はまたエスペリオンXXで来日して私に啓示を与えてほしいです。
こちらの感想に激しく同意します。“スペイン黄金時代の舞曲”と題されていたプログラムの中に作者不詳の“カナリオ”という曲があり、サヴァールの弾くヴィオールの小鳥の囀りにも似た高音が最弱音と共に消え去り、全ては自然に還っていく、と語ってるかの様でした。