薬師丸ひろ子に思う
2013.09.26 Thursday
この間、我が家のラックからはみ出したCDを眺めていた小学生の次女が、薬師丸ひろ子のCDを見つけ、驚いたように私にこう言いました。
「じぇじぇ、鈴鹿ひろ美ってCDなんか出してたの?」
「そうだよ、パパは昔っから薬師丸ひろ子の大ファンだから、CDも大体持ってるよ」
「うっそー、あの人、音痴なんじゃなかったの?」
「それはドラマの中の話。歌はとっても上手だし、CDもたくさん売れたんだよ」
「へえー、知らなかったぁ!」
今日の朝の連続テレビ小説「あまちゃん」を見た子供たちの多くは、私の娘と同じような質問をお父さんやお母さんにしたのではないでしょうか。しかも、「潮騒のメモリー」をしっとりと、そして見事に歌い上げた彼女の姿に驚愕したに違いありません。ツイッターでも、朝は放送を見られなかった私のタイムラインに、ご親切にも今日は薬師丸ひろ子が歌ったというツイートで溢れかえっていたのですが、その中には彼女の歌手としての活動を知らない人たちが、なんときれいな声、透明な声なんだ!と興奮気味にレポートするものがたくさんありました。
無理もありません。薬師丸ひろ子の活動は最近はもっぱら女優業に重きが置かれていて、歌の方は時折NHKのSONGSに出演するくらいですし、CDも2年ほど前に久しぶりに映画の主題歌のシングルが出た程度。アルバムなんて、98年2月にリリースされた「-恋文-LOVE LETTER」以来、15年も出ていません。若い人たち、子供たちが彼女の歌に接する機会というのはなかなかない。
もったいない。実にもったいない。悔しいくらいにもったいない。
二つの意味でもったいない。
まず、彼女の歌手としての足あとがあまり省みられなくなってしまっていること。最近、映画のサントラはいくつか再発売されているようですが、ファーストアルバム「古今集」以外は廃盤。「セーラー服と機関銃」「探偵物語」「メインテーマ」「Wの悲劇」あたりは懐メロ特集のCDに組み込まれることはあっても、それ以外の曲はほとんど聴かれない。ああ、ほんとにもったいない。
彼女の大ファンの私の言うことなので話半分にしか受け止められないかもしれませんが、でも、彼女の歌った曲には本当にいい曲が多いのです。しかも、ヒットチャートにのらなかったような曲にこそ何度聴いても心を揺さぶられるような歌がいっぱいある。
作家陣の豪華さを挙げれば、それらがどれほどの宝の山かは伝わるでしょうか。やってみましょう。
来生姉弟コンビ、南佳孝、松任谷由実、宇崎竜童/阿木耀子、井上陽水、大滝詠一、坂本龍一、矢野顕子、上田知華、中島みゆき、大江千里、KAN、玉置浩二、阿久悠、竹内まりや、吉田美奈子、平松愛理、筒美京平、康珍化、尾崎亜美、飛鳥涼、松本隆、細野晴臣、大貫妙子、伊集院静、高見沢俊彦、売野雅勇・・・。
どうですか。80〜90年代を代表する錚々たる作家たちがこぞって彼女のために曲を書き下ろしているのです。我々クラシックファンとしては、彼女が中田喜直から曲を贈られていることも忘れられません。アルバムに2曲収録されている他、コンサートのために書き下ろした曲もある。そして、そのどれもが、作られてから20年以上経った今でも、楽曲としての良さを十分に感じさせてくれる。(アレンジばかりは確かに古いなあという気がする曲がありますが)
また、今からは考えられないくらいに手間のかかったアコースティックなサウンドを聴かせてくれるような音楽も結構ある。古き良き時代の懐かしい音楽として埋もれさせてしまうにはもったいない音楽がたくさんあるのです。松田聖子や小泉今日子といったトップアイドルに勝るとも劣らないくらいに素晴らしいクオリティの高い歌、歌い継がれる価値のあるような曲がたくさん彼女の持ち歌としてあるのです。これを眠らせてしまうなんて、ほんとにもったいない。
それからもう一つ。これほど魅力的な歌手の歌を聴く機会が少ないこと。彼女が女優業を優先しているのでしょうから仕方がないことかもしれませんが、でも、今日の「あまちゃん」での歌が多くの人の心を奪ってしまった状況を考えると、彼女の歌を求める人はきっとたくさんいるはず。それも私たちのような昔からの彼女のファンや、我々の世代のおじさんおばさんが懐かしく聴くだけでなく、アキちゃん、ユイちゃんの世代の人たちもが「いい歌だなあ」と心清められる思いで彼女の歌を聴くのではないでしょうか。
贔屓のし倒しもいい加減にしろと言われるかもしれませんが、でも、今日のタイムラインの盛り上がり具合を見ると、もちろん、多くの人が「あまちゃん」最終週で「あまロス症候群」発症をあと数日後に控えている中での異様な現象かもしれませんが、でも、やっぱり薬師丸ひろ子の歌、それも今の彼女の歌を聴きたいというニーズはとってもあるんじゃないかと思います。
彼女の歌は、何と言ってもその透明な声が魅力的。そして、折り目正しくて、一言一言、言葉をとても大切に歌う姿勢がいい。でも、私にとって彼女の歌の魅力は、彼女がただ歌うだけで、その歌のもつドラマなり情景なりを思い起こさせるところです。
特に90年前後からの歌はどれもまさに「女優さんの歌」であって、歌詞とメロディから濃密なドラマが立ち昇る。中島みゆきの「未完成」、竹内まりやの「終楽章」、玉置浩二の「胸の振子」、上田知華の「風に乗って」あたりが好例で、もう短編映画を見るような体験をすることができます。特に「終楽章」の、自分を棄てて別の男のもとへと旅立つことを告げる女(男の立場からするとかなり身勝手な女に思える)の「許して」という言葉に万感の思いをこめて歌うあたり、普通の歌手とは全然違う景色があります。これなんか、今の彼女が歌うのをまた聴いてみたい気がします。
そして、彼女の歌のいいところ、もう一つ挙げるならば、とてもいい意味で一所懸命さを感じさせること。一所懸命さを真面目さと言ってもいいかもしれませんが、とにかく、常に自分の100%以上を出そうとする懸命さ、けなげさに私は胸を打たれます。歌だとか芝居だとかいう芸能において、懸命さはむしろ痛々しさや滑稽さへと変質してしまうことが多いのに、彼女のこの懸命さは胸にしみます。
そう、その特質は彼女の歌手デビューである「セーラー服と機関銃」からずっと顕著だったのですが、今や彼女の懸命さはもう私たちの社会にあっては貴重なものかもしれません。今日の「あまちゃん」で彼女が歌う姿の凛とした懸命さはもはや気高さえ感じさせるものでした。会社から帰宅して録画を見たのが家族が寝静まった後で良かったと心から思いました。とても家族には見せられないヨレヨレの状態でしたから。
こんなにいい歌手なのだからもっと聴きたいと思うのですが、現実は、彼女の歌が、今の音楽シーンで然るべき居場所がないように思えるのは、実は私たち自身の問題なのではないでしょうか。居場所がないんじゃなくて、居場所を作れていないということ。ポップソングは短い周期で現れては消え消費されて当たり前、昔の歌や、じっくりと自分の道を歩いてきている人の歌を私たちが顧みなくなっているのかもしれない。また、自分たちが青春時代に大切にしていた音楽を、次の世代に大切に伝えきれていないのかもしれない。どうせ君たちにはわからないだろうとか、君たちの好きな音楽はわからないと決め付けて壁を作ってしまってコミュニケーションをサボっているうち、私たち自身が、昔からの歌の居場所をなくしてしまっているのではないかと。
今の彼女なら、昔以上に複雑な味わいをもったドラマ性豊かな歌を本当に魅力的に歌ってくれるような気がします。中島みゆきや竹内まりやでも、若い才能あるライターでもいいでしょうから、超一流の作家の書くドラマチックな作品を彼女に歌ってほしい。あるいは、唱歌とか、エバーグリーンとされるような歌を歌うのもいいかもしれません。
例えば、彼女の歌う「ふるさと」だとか「翼をください」だなんていいかもしれないし、以前、NHKのドラマでアカペラで感動的な歌を聴かせてくれた「見上げてごらん夜の星を」もまた聴きたい。中田喜直さんの歌もいい。武満徹の歌もいいかもしれない。「三月のうた」なんて彼女向きじゃないだろうか。と妄想がどんどん膨らみます。
今回、「あまちゃん」の空前の大ブームで分かったことは、80年代の今や恥ずかしくさえも見えてしまう流行だとか文化みたいなものも、家族や友人、職場で話題にしても全然構わないということ。恥ずかしがったり、どうせと捨て去らずに「いいものはいい、面白いものは面白い」とまっすぐに伝えていけば、次の世代の人たちも、ちゃんと自分たちのものとして受け止めてくれるものがあるのではないかと。それこそが、受け継ぐ、語りつぐということではないかと。
宮藤官九郎という優れた脚本家は、そんな文化を語り継ぐシンボルとして、薬師丸ひろ子、あるいは、小泉今日子といった、今もキラキラと輝いている人たちをドラマのほとんど中心に置き、それを能年玲奈や橋本愛という今の人たちへとバトンタッチさせようとしたのではないかと思います。私たち世代のおじさんたちは「よくやった!」と快哉を叫びたくなるような素晴らしい狙い。
あと2週間ほどすると、私は薬師丸ひろ子の23年ぶりの単独コンサートを聴きに行きます。私自身は87年の「星紀行」ツアーを大阪で聴いて以来ですから、26年ぶり。どんな歌が聴けるか楽しみでなりません。「潮騒のメモリー」は歌ってくれるのでしょうか。どうか、これを機会に、今の彼女の歌がもっとたくさん聴けますように。
■胸の振子
■未完成
■終楽章