【演劇 感想】ハルナガニ(薬師丸ひろ子、渡辺いっけい、細田善彦ほか)(2014.04.11 シアタートラム) 

2014.04.12 Saturday

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    ・ハルナガニ
     出演:薬師丸ひろ子 細田善彦 菊池亜希子 菅原大吉/渡辺いっけい
     脚本:木皿泉 演出:内容裕敬
     (2014.04.11 シアタートラム)








     百人一首に「しのぶれど 色に出でにけり わが恋(こひ)は ものや思ふと 人の問ふまで」というのがあります。そう、平兼盛の歌です。

     これ、まさに私のことです。

     つまり、思いを寄せている女性が近くに来ただけで緊張してしまい、顔は紅潮、心臓はドキドキ、口もきけなくなってドギマギしてしまうからです。歩こうとしても、右手と右足、左手と左足が一緒に動いてしまうとか挙動不審な人になってしまうはず。誰が見ても、「ああ、こいつはこの人のこと好きなんだな」とお見通しでしょう。しかも、思いを寄せている女性でなくとも、あ、この人きれいだな、とか、いい人だな、とか、好意を少しでも持った女性を前にするとやはり色に出てしまうのです。硬直してしまうのです。何を年甲斐もないこと言ってんだ、ウソつくな!と言われそうですが、本当なんです。

     ですから、ある女性に完全にハートを射抜かれてしまって、その人のことを一日中でも考えてしまいそうなくらいに気持ちが盛り上がっている、つまり恋愛感情が盛り上がっているような状況で、その女性が私の目の前に現れたら、それはそれはもう大パニックになってしまいます。緊張して血圧が上がり、卒倒してしまいそうになります。すると、そこで大失態するくらいなら、その人が私の視界に入ったら、星飛雄馬のお姉さんのようにすぐに物陰に隠れ、その人を遠くから見ている方がいいと完全は防御態勢に入ってしまいます。

     そんなダメダメな男ですから、私の一方的な片思いは幾人もの女性にいとも簡単に見抜かれ、「うわっ、キモっ。無視」とか、「あんた何様のつもり?あたしに惚れるなんざぁ一億年早いわよ」というような嫌悪感を抱かせていたに違いありません。その女性たちが今このブログを読んでいる確率はほとんどゼロなのですが、この場を借りて、不快な思いをさせたことを心よりお詫び申し上げます。もっとも、私は今、結婚して子供もいて、さすがに「恋」なんぞというものには縁がないので、もう時効になっていると思いますが・・・。

     なんてことはともかく、今日は、三軒茶屋のシアタートラムという小劇場でおこなわれた演劇「ハルナガニ」を見て来ました。藤野千夜の小説「君のいた日々」を舞台化したもので、話題の夫婦脚本家、木皿和泉の脚本、内藤裕敬の演出によるユニット。主演は、薬師丸ひろ子と渡辺いっけいが夫婦役、細田善彦がその息子(高校生)、菊池亜希子、菅原大吉が出演。

     私は演劇というものをこれまで見たことがありませんでした。いや私の長女が中学校の演劇部に所属しているので、地区の演劇コンクールを見に行ったことはあるのですが、プロの、しかも誰もが知っているような有名な人たちが出るような本格的なものは初めて見ました。

     しかも、です。薬師丸ひろ子が主演。

     さあ、どうしましょう。私がもう30年近く、熱烈な思いを寄せている女性、私にとってはほとんど女神さまのような存在である女性が演技をするのを間近で見られるのです。これまで彼女をナマで見たのはコンサートで、巨大な空間の中で米粒見たいにしか見えない遠い女神さまを拝むだけでしたから、気持ちが盛り上がらない訳がありません。今日も、会社の仕事を途中でぶっちぎって三軒茶屋に向かう時も嬉しくてワクワクしていました。電車に乗っている私は相当にニヤニヤしていたはずです。

     でも、シアタートラムの客席へと足を踏み入れた時、私はたじろいでしまいました。

     狭い。想定外に狭い。こんなに狭いのか。ああ、これが小劇場なのか。しかも、私は前から3列目。

     ということは、ああ、どうしよう。私の女神さまが、薬師丸ひろ子が、憧れの人が、私のすぐ目の前に立つのです。もしかしたら私に彼女のツバが飛んでくるかもしれないというくらいの距離で。

     ならば、彼女が舞台に登場した瞬間、私は一体どうなってしまうんだろうか。「色に出でにけり」どころではなくて、血管がプチッと切れて、救急車騒ぎになるんではなかろうか。いや待て、今日、この舞台を見ることは家族には内緒だったな、そうなると結構厄介だぞ、どうしよう。

     ・・・などと考えていたら、脂汗が出て来ました。そして、体中から何だかイヤな汁が出て来そうな思いでした。

     そんな思いに悶えているうちに、会場にはドヴォルザークの「家路」のメロディーが流れ、開演を告げるアナウンスがあった後、暗転してとうとう開演してしまいました。

     妻・久里子(薬師丸ひろ子)を亡くして一年、妻を失った哀しみから立ち直れない「泣きじじぃ」春生(渡辺いっけい)と、その息子の亜土夢(細田善彦)が住むマンションの一室。亡妻への思い出に生きて閉じ篭る父と、そんな父の姿に嫌悪を抱く息子が、ちょっとユーモラスな絶妙の掛け合いをしている時、死んだはずの久里子が会社から帰って来ます。

     とうとう私の目の前に、あの人が現れました。見慣れた横顔が見え、いつも私を魅了してやまない「あの声」が聞こえて来ました。

     さあ、どうする、どうする。薬師丸ひろ子が私のほんの数メートル先にいるのだ!

     でも、意外なことに、あのいつものドギマギはありませんでした。

     む、薬師丸ひろ子の大ファンを自認し、Google検索でも「薬師丸ひろ子」と入れると自分のブログの記事が検索の上位に来ることを誇らしく思っているはずのこの私が、ご本尊を目の前にしても何も感じないのか?いや、感じない。肩透かしを食らった気がしました。ああ、私の彼女への思いは醒めてしまったんだろうか?とちょっとばかりショックを受けてしまいました。

     でも、それはほんの一瞬のことでした。私は、この現実と虚構の世界が入り乱れた不思議な不思議な空間が、彼女が加わったことによって、より訳の分からないへんてこりんな状況になっていることの方に関心が向き、どんどん芝居の展開にのめり込んでいきました。

     そう、私の目の前に現れたのは、薬師丸ひろ子さんではなくて、久里子さんだったのでしょう。だから、ドギマギするというよりも、その役柄の言動の方に関心が行ってしまった。そして、それ以上に、舞台にいる人たちのおりなすアンサンブル・ドラマにのめり込んでしまいました。

     愛する人、自分が大切だと思うものを失ってしまった時、自分が自分たらしめてくれている存在が自分の目の前から姿を消した時、人は一体何を思い、どうやって生きていくのだろうか。濃密で幸福な思い出はどこにしまっておくのか。それともいつか忘れてしまうのか?そして何事もなかったかのようにただ一人で面白おかしく生きていくのか?
     
     そんな不安を感じている私たちは一体生きているのか?本当に自分はこの世の中に存在しているのか?世界は幻なのか?なんていう古今の哲学者たちが考えて来たような「答えのない問い」について考えずにはいられなくなります。「われ思う、ゆえにわれあり」なのか?今自分の目の前にあるものはすべては幻ではないと証明できるのか?

     自分も覚えていない、そして誰も覚えていない存在なんて、もともとなかったのと同じこと。恋人たちも夫婦も、いずれ死んでしまって誰の記憶からも消えてなくなってしまうのなら、出会わなかったのと同じなのではないのか?いや、親子だって、本当に「愛の証」と言えるのか?そして、「私」とは一体何なのか?存在するのか?

     そんな深刻なテーマを背後に抱えつつ、実際には、笑いあり、涙ありの生き生きしたドラマが繰り広げられました。現在と過去が交錯し、生者と死者が同じ空間で触れ合う絶対に現実では起こり得ないようなファンタジーなのですが、でも、それは、どこにでもある誰もが体験する日常を切り取ったありふれた風景の中ですべてが微妙に絡み合いながら、ラストシーンの安らぎにも満ちた結末へと収斂する。

     ただ、そこに至るロジックを辻褄の合うように考えると、余りにも綻び(意図的なもの)が多すぎて繋がらないのです。舞台上の役柄のいったい誰が「虚」で「実」なのか、彼らも私たちもさっぱり分からなくなる。目の前で喋り、動き回り、笑い、涙している人たちは、一体何なのだ?とても不思議な時間と空間・・・。

     そんな風に劇にのめり込むのに忙しくて、私は、目の前に薬師丸ひろ子という女神さまがいるということをすっかり忘れてしまっていたのでした。

     劇が終わって、カーテンコールになり、そこには紛れもない薬師丸ひろ子がいるのですが、それでも私は彼女を「久里子さん」だとしか思えなくて、憧れの人を目の前にした興奮は感じられませんでした。でも、この劇が投げかけてくれた問いは、勿論私自身もずっと抱えてきて、不惑の歳を迎えた後もまだまだ答えなど見つけられずにいるものですし、劇の後半の回想シーンの「親になるということは何か?」という問いに激しく心を揺さぶられるほどに共感しましたから、それはそれは懸命に拍手しました。手が痛くなるほどに。

     ようやく我に返ったのは、満ち足りた気持ちで帰途につき、パンフレットを見ながら劇のことを思い出していた時でした。ああ、私は薬師丸ひろ子という人と、同じ時間、同じ空間を過ごし、そして、確かにごく至近距離で彼女と確かに「触れ合った」のだという実感が一気に湧き起こり、胸が熱くなるような思いがこみ上げて来ました。

     その思いは静かで大きな満足感へと変わったのですが、でも、それはほんの一瞬のことでした。今度は、一抹の寂しさがこみ上げて来ました。ああ、楽しみにしていた演劇も、終わってしまったのだという、祭りの後の静けさにも似た脱力感が私を支配しました。またこの劇を観たい、そして、何より、また舞台でまったく別の人格になってしまう薬師丸ひろ子に会いたいと切実に思いました。

     そんな私の心は、勿論、「恋」などというものではありません。だって、何と言っても相手は「大女優」、私はただの一ファンなのですから。それはそれで当然だし、全然それで良い。ただただ、私は薬師丸ひろ子のファンで良かったと思うし、これからもずっと薬師丸ひろ子のファンでいようと思ったのでした。

     いい歳こいたおっさんが一体何を書いているのか。読み返すと恥ずかしくなるので、一切推敲せず、このまま記事をアップロードすることにします。

     え?薬師丸ひろ子の演技がどうだったかって?わかりません。でも、舞台の上にいる薬師丸ひろ子という生身の女性の存在を忘れてしまったということは、もうそれだけで舞台俳優がやらなければならないこと、やるべきことを完璧にこなしていたということなのではないでしょうか。彼女は私にとっては「銀幕スター」であり、「歌手」なのですが、「舞台俳優」としても超一流の人なのではないだろうかと思うのですが、それはファンゆえの無防備な贔屓でしょうか?いや、きっとそうではなくて、舞台を見た満員のお客さんの中でも、多くの人たちが、私と同じように彼女への賛美を惜しまないであろうと信じます。

     そうだ、他の出演者も皆素晴らしかった。
     
     春生役の渡辺いっけいという俳優さん、私はもともととても好き(最近では「ガリレオ」)なのですが、「これぞ役者!」としか言いようのない役になりきる姿に深い感銘を受けました。汗だくだくになりながら、そして見ている方が気持ち悪くなるくらいに大量のマシュマロを食べながら、実存と虚構の狭間に落ち込みどんどん狂気の渦へと巻き込まれる治彦という男の心理を見事に描き切っていたと思います。

     亜土夢という難しい役を演じた細田善彦も、もうこれ以上は考えられないというくらいの適役ぶり。クールないまどきの高校生だけど、不思議な展開に巻き込まれて自我がバラバラに解体しそうになる心理をうまく感じさせてくれました。

     「あまちゃん」でブティック今野の旦那を演じていた菅原大吉のいぶし銀ともいうべき飄々とした、でも、確かな存在感も良かった。

     そして、モデルでもある菊池亜希子は、ほれぼれするくらいにスタイルが美しくてきれいな女性。一体何を考えているかよく分からないキャラクターなのだけれど、昔、夜明け頃の時間、舞台となっているマンションの前を通りかかった時に、男女(渡辺と薬師丸の夫婦)の姿を見て、「これは星だと思った、それ以来、ここに住みたいとずっと思っている」と訴えるあたり、胸に迫るものがありました。

     テンポの良い展開はきっと演出の良さなのでしょうか。ともかく、ベテランと若手のタッグで、とてもいい時間を過ごさせてもらいました。

     すべての関係者各位に感謝したいのですが、やはり、こう言いたい。

     薬師丸ひろ子さん、どうもありがとう。

    (2014.04.26 一部加筆・修正しました)






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