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【ディスク 感想】ショスタコーヴィチ/交響曲第13番「バビ・ヤール」 〜 ヴァシリー・ペトレンコ指揮ロイヤル・リヴァプール・フィル

・ショスタコーヴィチ/交響曲第13番「バビ・ヤール」
 ヴァシリー・ペトレンコ指揮ロイヤル・リヴァプール・フィル
 アレクサンダー・ヴィノグラードフ(Bs)ほか(Naxos)

 →詳細はコチラ(Tower/HMV)


 ナクソスからリリースされてきた、ヴァシリー・ペトレンコ指揮ロイヤル・リヴァプール・フィルによるショスタコーヴィチの交響曲チクルスが、先日発売された第13番「バビ・ヤール」をもって完結しました。私自身、第1作となった第11番からずっとリリースを楽しみに聴いてきましたので、当然聴かない訳にはいきません。

 2013年9月にリヴァプールで録音されたこの新盤を聴いて思ったのは、私はまだこのショスタコーヴィチという作曲家については何も知らないに等しいということでした。つい先ごろ出たレコ芸2014年12月号の特集「『読む!』クラシック」で、ヴォルコフの「ショスタコーヴィチの証言」についての増田良介さんの記事にも書かれていましたが、あの「偽書」(それにしては余りにも面白すぎる本です)のせいで、我々音楽ファンのみならず、演奏家の側でも、ショスタコーヴィチという作曲家の遺した音楽の「本質」を、かなりおかしな視点から見てしまっていたということを痛感せずにいられませんでした。つまり、彼の書いた音楽の意味ありげなモチーフにいろいろな意味を聴きとろうとする余り、一体その音楽が何を私たち聴き手に伝えようとしているのか、もしかすると根本的なところで大きく誤解をしてしまっているのかもしれないということです。

 交響曲第13番「バビ・ヤール」は、1962年、フルシチョフ体制下の「雪どけ」ムードの中、ソ連で頭角を現した詩人エフトゥシェンコの反体制的な詩、特に「バビ・ヤール」というソ連社会ではタブーとなっていたテーマを扱った詩などをテキストに用いた音楽であり、初演時には歌詞が政府の圧力によって変更されたという事件もあって、我々西側陣営の人間にとってはこれはまさに「プロテスト」の音楽であるという捉え方をしていました。そして、ショスタコーヴィチ=反体制の音楽家=英雄であると、「証言」が偽書であると証明された後も、そう見なしてきました。

 しかし、このペトレンコの指揮する「バビ・ヤール」を聴いていると、確かにそこにはひりつくような辛辣な皮肉や、胸に突き刺さるような激しい怒りを感じさせるような表現は多くあるにせよ、これまでの彼の演奏と同様、社会の矛盾を告発するような「反体制」的な音楽としての響きがほとんど感じられません。
 
 第1楽章は、「えっ?」と驚くほどにテンポが早く感じました。しかし、タイムを見てみると、コンドラシンの新盤よりも1分半近くも長く、インバルよりも1分ほど長い。これは第1主題のテンポ(指定はアダージョ)と、「ベロストークの少年」の虐殺シーンとなる第2主題(ファシストの主題)のテンポの差が大きく、後者で急発進に近い印象を与えていることに起因しています。これまで聴いてきた演奏でここまで第2主題が早い演奏は記憶がありません。第2楽章も早い早い(インバルとほぼ同じというのは意外でしたが)。切れ味の鋭い表現もあって、あっという間に終わってしまう。一方で、アタッカで演奏される第3〜5楽章はむしろ遅めのテンポで進めるのですが、音楽の運びは滑らかで引っかかりがなく、むしろ淡々と展開していきます。一時期、このコンビが聴かせてくれて驚いた(第8,10番あたり)ささくれ立ったような激しい表現はあまりなく、歌詞の内容を強調するような重々しさからも縁遠いシャープで洗練された音楽が聴こえてくる。第5楽章の「出世」など、コーダに至っては夢見るような美しい音が聴こえてくる。そこには、この交響曲を聴く時に私が聴きとろうとしている、ソ連という社会の病巣を嘆き、哀しみ、虐げられた国民の将来を憂うというような絶望感とはちょっと違った質感をもった響きがあります。当然、それはイギリスのオーケストラ、合唱団という演奏者の特質、ソ連という国家を実体験として余り持たない若い指揮者のジェネレーションに起因するものかもしれません。

 しかし、もしかしたら、聴いている私自身のこの曲への視点が変わってしまったのかもしれないという気もします。つまり、前述のように、私たちが強烈に植え込まれた「ショスタコーヴィチ=反体制作曲家」という単純な図式だけで、彼の音楽を聴くことに対してあまり関心がなくなってしまった。だから、この若い指揮者とイギリスの楽団の演奏する「バビ・ヤール」を聴くにあたり、政治的主張を聴きとることよりも、この音楽の中にある普遍的なものを聴きとること、ショスタコーヴィチという作曲家をもっと複眼的に捉えることに興味が移っている。

 考えてみれば、今や、私たちの住む世界で起こっていることは、右が左か、共産主義か資本主義か、東か西か、などという対立の図式では捉えられない。新しい冷戦という状況が叫ばれてはいるものの、イスラム国を考えれば、西側の国から志願して戦闘員になっている若者がいる訳で、かつて世界をわかりやすく隔てていたものは、あるような、ないような、まったく訳のわからないものへと変質してしまっている。

 エフトゥシェンコが告発した、バビ・ヤールでの悲劇にしてみても、事件から70年以上経った今、もはや私たちは「加害者はナチスかソ連か」ではなく、「ナチスもソ連も加害者」という歴史観から真実を見ようとします。また、この悲劇の被害者たるユダヤ人の犠牲への哀しみや、独ソの独裁政治体制への怒りとは別に、60年代以降イスラエルがパレスチナにおこなっている行為はどうなのか、アーレントが告発した戦時中のユダヤ人内部での「裏切り」行為はどうなのか、と、第二次世界大戦以降の歴史を、勧善懲悪、二項対立という視点から捉えることはとても難しくなってしまっています。私たちは、地球上でおこっていることすべての当事者なのではないかと考えずにはいられない。

 同様に、ショスタコーヴィチという作曲家についても、彼が当然スターリン体制に反感を持っていたであろうことは容易に想像がつくにせよ、しかし、彼はソ連から亡命せずに「御用音楽家」という顔を捨てずに一生を終えた訳ですし、あまりことを単純に捉える訳にはいかない。あの交響曲第5番のフィナーレが本当に「勝利」を意味するものなのか、やはり「強制された喜び」を表現したものなのか、いまだに本当のところは分からない。ソ連を代表する御用音楽家であると同時に、反体制の音楽家であったという両面性、多義性から彼の音楽を捉えないと、何か重大なものを見落としてしまうような気がする。彼の残した公式の発言や文面と、彼の家族や友人知人の証言からも窺い知ることのできない、もっと深い謎めいた精神のありようが彼の音楽にはあるような気がしてならない。ああ、訳が分からない。

 ペトレンコの演奏する「バビ・ヤール」は、そうしたショスタコーヴィチという作曲家の得体の知れなさ、複雑な人間性を如実に表現したものであり、そして、何もかも境界線が曖昧になって、複雑系を複雑系としてそのまま理解せざるを得ない世界観を体現したものなのかもしれないと思います。だから、反体制の響きなど聴こえてくるはずがない。無論、こうした演奏は彼だけのものではなく、最近聴いた演奏の多くが同じ線上にあるものなのは確かなのですが、ペトレンコほどに正体不明の演奏は聴いたことがありません。

 では、その訳の分からない演奏について私がどう感じたかというと、たぶん、とても共感しているのだと思います。たぶん、などと消極的な書き方をしているのは、まだ私がこの曲に対して抱いていたイメージ(何年も前に一度オーケストラで演奏したこともありますのでかなり固定的なイメージです)をあっさりと覆してしまった演奏なので、まだ私の中で何が起こっているのかをちゃんと把握し切れていないから。

 ただ、一つ確かなことは、「この演奏は、この曲の本質(の一面)に激しく迫ったものかもしれない」という思いがあることです。その思いの根拠は第5楽章にあります。この演奏はとにかくスマートで淡々と進み、途中のクライマックスはかなり激しい盛り上がりを見せます(たぶん意図的にだらしなく歌う合唱が印象的)が、コーダの不思議な美しさには、どこか希望のようなものが感じられるのです。結局のところ、ショスタコーヴィチの音楽は、たとえ表面的にはニヒルで絶望的な響きが聴こえるようであっても、その奥底の部分には「この暗黒の時代はいつか乗り越えられる、乗り越えてほしい」という切実な願いが込められているように思えるのです。これまでそんな風にこの曲を聴いたことがなかったのですが、ペトレンコの無表情なようでいて、どこかに甘美なあたたかさを感じさせる演奏を聴いて、感じ方が変わった気がします。そして、その血の通った肯定を感じさせる音楽に違和感はなく、むしろ魅力を感じたし、正当性を説明できるようにさえ思えます。ショスタコーヴィチという作曲家が、ソ連を離れなかった理由は、ソ連の聴衆、民衆から離れられなかったからであり、それは同胞への愛情と信頼があったからに他ならないと感じるからです。そして、その愛情と信頼は、ソ連国民のみならず、時代や地域を超えたすべての人々への思いだったに違いない。ペトレンコの演奏は、そう確信せずにはいられないようなものだったという訳です。

 しかし、これは今の私がそう思うことなのであって、もしかすると、これまで聴いて親しんできた演奏、例えばコンドラシンの最晩年のライヴ録音を聴き直せば、たちまち考えが変わってしまうかもしれません。それは私自身のブレであることは間違いありませんが、それはまたとりもなおさずショスタコーヴィチという作曲家の多面性、複雑性によるものなので、そのブレを体験することで、少しはショスタコーヴィチに近づけるような気もするので、あまり悪いことではないように思います。

 5年前から続いてきたチクルスの最後を飾るにふさわしい、問題提起を孕んだ「いい演奏」を聴けて良かったと思います。14番でも歌っていたヴィノグラードフの独唱も素晴らしい。男声合唱もスラヴ的な迫力は皆無ですが、よく歌っていると思います。

 ああ、これでリリースが終わってしまうのは淋しい。次はどうなるだろうかという楽しみがなくなってしまうのですから。しかも、先ごろのウィッグルスワースに続いて、注目してきたチクルスでしたから尚更のこと。ペトレンコはこれからオスロ・フィルとのマーラー・チクルスが始まる由。今後の活躍が期待されるところですが、ショスタコーヴィチの他の作品(協奏曲、声楽曲、オペラ)にも取り組んでほしいと思います。

 ところで、このアルバムの解説で、エフトゥシェンコは「ソ連のボブ・ディラン」であるという文章を見かけました。うーん。そうなんでしょうか。エフトゥシェンコを読んでからボブ・ディランの詩を思い起こすと、後者の方が随分と説教臭いものに感じるのですが・・・。

※これまでのCDへの感想を集めてみました。
■交響曲第11番
■交響曲第5、9番
■交響曲第8番
■交響曲第10番
■交響曲第1、3番
■交響曲第6、12番
■交響曲第2、15番
■交響曲第7番
■交響曲第4番
■交響曲第14番

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  • 2017.04.28 Friday
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