【演劇 感想】ファスビンダー作・戯曲「ゴミ、都市そして死」 緒川たまき ほか(2015.06.26 世田谷パブリックシアター)

2015.06.27 Saturday

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     ・ファスビンダー作・戯曲「ゴミ、都市そして死」
     緒川たまき主演 SWANNY公演
     (2015.06.26 世田谷パブリックシアター)

     →SWANNYのHPはコチラ






     世田谷パブリックシアターで、演劇グループSWANNY公演、ファスビンダー戯曲「ゴミ、都市、そして死」を見てきました。2013年に新宿の紀伊国屋ホールで演じられたものの再演。主演は緒川たまき、演出はSWANNYの主宰者、千木良悠子。音楽は、石橋英子 with ぎりぎり達によるライヴ演奏で、最近私がハマッているジム・オルークが参加しています。

     この戯曲のあらすじは、SWANNYのHPによるとこんなものです。

    舞台は冷戦下のドイツ・フランクフルト。都市でありながら同時に月面上、という幻想的な場所で展開されるのは、緒川たまき演じる美貌の娼婦ローマ・Bが、悲劇的な運命に翻弄されるさまを描いた、壮大な音楽劇です。

     ・・・と、これでは抽象的すぎるので補足。

     フランクフルトで体を売って生計を立てる娼婦ローマ・B(緒川)。繊細な心と研ぎ澄まされた知性の持ち主で、体が弱いのであまりお客もつかず、娼婦仲間からも浮いている。彼女のパートナーであるフランツはいわゆる「ヒモ」で、彼女の稼ぎを全部ギャンブルに注ぎ込む一方、彼女に対して日常的にひどい暴力をふるっている。そんな時、ローマ・Bはユダヤ人に見初められて愛人として囲われる。彼は大きなビルを建てるために地上げをやっていた。ユダヤ人に囲われたローマ・Bはあっという間に大金持ちになり、フランツは彼女の元を去る。

     ユダヤ人資産家の両親はナチスによって殺されており、強制収容所で働いていたローマ・Bの父親が殺害に関わっていた可能性が高い。資産家が彼の娘を囲ったのも、ある意味その復讐であったと考えられなくもない。

     ローマ・Bは富を手に入れた反面、フランツも、かつての娼婦仲間たちも彼女の元を去って行った。フランツは資産家の仲間によって凌辱されボロボロにされてしまう。彼女は絶望する。資産家に「愛しているなら殺してくれ」と懇願し、願いが叶えられる。その事態のすべてを見ていた資産家の手下が、警察に垂れ込むが相手にされない。いや、それどころか警察によって「消されて」しまう。そこにフランツが連れてこられ、ローマ・Bの殺戮の罪をなすりつけられたところで幕。

     めでたし、めでたし。いや、嘘だ。ちっともめでたくなんかない。

     都市の片隅のゴミ溜めのような場所で、ゴミのようなろくでなしの連中に囲まれて生きる娼婦ローマ・B。彼女の発する言葉には哲学がある。研ぎ澄まされた感性がある。でもそんなものは何の役にも立たない。客もつかない。愛する男からは果てしない暴力を受ける。たまたま資産家に囲われて富を手に入れるけれど、それがどうしたというのだ。彼は私を愛してなんかいない。彼女の父親への怒りと憎しみ、そして復讐のために、娘をカネで買っている。資産家の取り巻き連中はいつか自分が出し抜いてやろうとチャンスをうかがっている。ローマ・Bは、そんなクソみたいな社会にあっては生きている実感などは到底得られないと知る。ならば、死んだ方がずっとましだ。さあ、私を殺して!

     一体何なのだろうか、この演劇は?

     日頃、演劇を見慣れず、ファスビンダーの演劇も映画もまったく馴染みのない私にとっては、この「ゴミ、都市そして死」という戯曲は、正直、とても難しい演目でした。出てくる言葉も難しいし、ストーリーも現実離れしているような、いないような、何だかよく分からない展開。音楽劇というだけにいろいろな音楽が出て来て、歌も歌われるのだけれど、歌詞があんまりよく聴き取れなかったので意味を汲み取ることも難しい。音楽に合わせておこなわるダンスもほとんどが私には「?」。

     要するに、この演劇に対して、私なりに「腑に落ちる」立ち位置を見定めることができなかったので、これが私に何を語りかけようとしているのか、観ている私の中で何が起こっているのか、実際のところはあんまりよく分かりませんでした。ただ呆気にとられて、目まぐるしく移り変わる場面をポケーッと見ているしかなかった。

     しかし、この演劇が、見ている私という存在のど真ん中に激しく斬り込んでくる、とてつもない力をもっていることだけは分かりました。

     都会の場末で繰り広げられる、倫理とか、愛とか、正義とか、信頼とか、希望とか、そういったものをすべてゴミ溜めに捨て去ったようなクソのようなドラマの中で、まったく救いのないクソのような人生を歩みただ破滅へとひた走る人たちの姿を見ていて、それを自分とは関係のない話だなどとは思えなかった。

     このクソのような場面は、ドイツのフランクフルト、あるいは月面上の都市という架空の街なんかかなく、21世紀のリアルな東京でも繰り広げられているんじゃないか。勿論、まったく同じことが起きている訳ではないにせよ、本質的に突き詰めていくと何も変わらないのではないか。そんな風に思えた。

     富のほとんどが一部の富豪たちに集中し、社会のすべてを動かしている。おいしい汁を吸う力もなく、社会の中心からはじき出され、人間のどす黒い欲望の吹き溜まりで激しい格差の最下層の中で蠢めいている人たちに残された道は、廃人になるか、絶望して死ぬことしかあり得ない。一方の富豪たちには、そんなクソ野郎どもの死などどうでもいい。正義?どうでもいい。警察も金で買えるのだ。正義も札束と等価交換ができる。

     しかし、そんなクソみたいな状況を生み出したのは誰だ?ファスビンダーはそれを私に厳しく問うているように思えました。

     戯曲の表面を見れば、ユダヤ野郎だ!という反ユダヤの主張がまず見える。しかし、ファスビンダーはそんな単純なデモンストレーションはしていない気がします。ユダヤ人の資産家の行動が、結局はナチスへの復讐であるということを示唆しているから。つまり、この告発の刃先は、自分たちの「過去」に向かっているのです。反ユダヤを標榜するのはたやすいが、ちょっと待て、俺らの戦争中の行為が彼らの隆盛を呼んだんだ、自業自得じゃないのか?

     いや、反ユダヤは昔からあった、ナチスの犯罪があろうがなかろうが、奴らは巨大な資本を背景にさばるのだ。だからこそナチスが生まれたんだ。というようなことを言う人たちもいるでしょう。しかし、中世以来、ヨーロッパの人たちは、ユダヤ人をゲットーに押し込めていましたが、彼らを排斥しようとすればするほど、ユダヤ人は知恵を出して生き延びようとする。ごくごく当たり前のことです。

     こんな責任転嫁の無限ループ。考えただけで吐き気がします。

     こんなもの見せられたら、ドイツ人はもっと嫌悪を示すでしょう。痛いでしょう。反吐が出るでしょう。日本人の私が見てもそうなんですから。アドルノは「アウシュヴィッツの後には詩など無意味だ」と言いましたが、あり得るとすればこういう表現、あるいはB.A.ツィマーマンの音楽のようなものしかないんじゃないだろうかと思わずにいられませんでした。

     結局のところ、居心地も後味も悪く、何にも希望を持てないままに戯曲を見終えました。しかし、そうした胸糞悪さを感じたということは、恐らく、今回の公演の成功を意味するのだと思います。ファスビンダーが投げかけた痛い痛い問いに、ほとんど被虐の悦びに快楽さえ覚えながら、こうしたものを世に問うて自分たちにピストルの銃口をつきつけることのできるドイツ人に比べて、我々日本人は何をしてきただろうか、同じような表現をとらずとも、それくらいの緊張感をもって過去と向き合っているだろうかと考えずにいられませんでした。ファスビンダーという人への人気がいまだに衰えないのは、その問いの鋭さに多くの人が共感せずにいられないからじゃないかと思いました。

     主演の緒川たまきが何より素晴らしい。正直、この戯曲は、彼女見たさで行きました。90年代前半、彼女のデビュー後、何がきっかけだったかは覚えていないのですが、彼女のファンになりました。落ち着いた知的な雰囲気の中に、少女のような純粋なまなざしと、どこか人間の底を見抜いてしまうような哀しげな視線が混じり合っているアンバランスさにゾクゾクせずにはいられませんが、それより何より、私は彼女の「声」が好きなのです。いわゆる「演技者」としての演技よりも、彼女のなだらかな抑揚で発せられる声に猛烈に魅かれる。だから、彼女の声を聞きたくて、レギュラー出演していた「新日曜美術館」を見たりしていました。話の内容も面白くて、一般受けはしないかもしれないけれど、その尖った感性に惹かれてもいました。

     今回、彼女の実物を見るのは初めてでしたが、その私が偏愛する彼女の声はやはり魅力的。だからこそ、最下層のその最下層の世界から、ある日突然、富の世界へと引き上げられ、それでも絶望と不信から逃れられず「死」、それも「殺される」ということにしか愛を感じることのできなくなってしまったヒロインの「声」を代弁することができた。終盤、神に向かって、激しい嫌悪の言葉を投げかけるあたり、息を呑んで聴き入るしかなかった。最悪の状況は人を哲学者にするということを実地でおこなうような深遠なセリフ(他の娼婦たちも随分と難しい言葉を吐く)も真実味がある。それに、あの緒川たまきが、あろうことか、ちんちんだの、ファックだのというような下品な言葉を。ああ、何ということでしょう。

     それでも、彼女は美しい。信じられないくらいにスレンダーな肢体。女を買う男に「ガラス人形みたい」とセリフで言わせるのもうなづいてしまうほど。時折、ドレスからはみ出す脚線美にクラクラしてしまう。ただ若いだけの女性には、逆立ちしても、服脱いでも出せっこない官能が、彼女の存在から、そのしなやかな体から、立居振舞から、声から、匂い立つ。

     ああ、見に来て良かったと思いました。彼女以外の女優さんが演じたらどうなるかという想像はまったく働かないのですが、でも、彼女にしか演じることのできない難しい役を、彼女は演じ切っていたと思います。残念なのは、彼女自身のことではまったくなく、私の席が舞台から遠かった(3階席最後方)こと。彼女の表情や細かい演技がよく見えなかったこと。もっと至近距離で見たかった。

     他の俳優さんは知っている名前もないし、演技の良し悪しなどもまったく考える余裕はなかったのですが、どの役の俳優さんもいい具合に「クソ」な役柄の「クソ」さ加減を演じられていたように思います。特に、ローラ・Bのヒモで最後は悲惨な目に遭うフランツ役の仁科貴のダメ男っぷりと、資産家役の金子清文の厭味ったらしさは心に残りました。

     音楽は、「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲や、「椿姫」の第1幕のヴィオレッタとアルフレートの二重唱、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の第2楽章などが引用されたり、オペレッタや映画の音楽など多彩な曲目が、シンセとパーカッション、歌などで演奏されていました。お目当てのジム・オルークは私の席からはどこにいるのかよく分かりませんでしたが、彼が歌声はすぐにわかりました。最新作の「シンプル・ソング」で堪能した透明な声は心に響きました。そして使われた曲で一番ハッとしたのは、ナチス時代の軍歌に合わせて、登場人物がドイツ軍の行進のように統制のとれた足並みで機械のように歩くところ。このファシズムは、決して過去のものではなく、ただ形を変えて私たちの中にしっかりと偏在しているのだということを実感しました。とても効果的で、とても胸糞の悪いシーンでした。サントラがこちらから購入可能です。

     ファスビンダーの映画や戯曲に興味が出てきました。同時上演の「猫の首に血」も行きたいところですが生憎行けず。何か機会を見つけて触れてみたいと思いました。今回の戯曲で感じた、「醜さの中に美がある」などというような主張さえもない、もっと「美」なんてもんを追いかけても無意味さ、真実を見ろ、話はそれからだ、みたいな、ハードボイルドだど(古いか)!的なニヒルさを味わわせてくれるのでしょうか。

     また、SWANNYの前衛アングラ芝居っぽい雰囲気をもった埃っぽい演劇もまた是非観に行きたいと思います。主宰の、千木良悠子という美人小説家にも興味が出てきました。

     そして、緒川たまき。彼女はよく朗読会を行っていますが、あの稀有な声を聴きに行きたいと思います。彼女の声だけをずーっと聞いていられるCDなんてないもんでしょうかねえ。

     とにかく、クソな、だけど、とびきり魅力的な一夜をどうもありがとう。

    (追記)
    一つ、どうでもいい揚げ足取り。劇中で引用された「椿姫」は、音の良くないモノラルで、アルフレート・クラウスの声が聴こえたことから、すぐに58年のカラス主演のリスボンのライヴ録音だと分かった。音質、A・クラウスの声の存在が根拠。同戯曲のパンフには「カラスとギオーネの二重唱」とあるのは誤り。ギオーネは指揮者。どうでもいいか。




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    2020.06.28 Sunday

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