【映画 感想】「涙するまで、生きる」(2014 フランス)
2015.06.28 Sunday
アルベール・カミュの短編小説「客」を映画化した「涙するまで、生きる」を見ました(イメージ・シアター・フォーラム)。出演は、ヴィゴ・モーテンセン、レダ・カテブ、監督は若手ダヴィド・オールホッフェン。
1950年代、アルジェリアの、とある村。大戦中、アルジェリア人兵士としてフランス軍に加わってイタリアと戦った少佐のダリュは、今はそこの小学校で教師をして子供たちに読み書きや歴史を教えている。ある日、フランス人憲兵が、一人のアラブ人の若い犯罪者モハメドを、ダリュのもとに「客」として連れて来る。いとこを殺した罪で裁判を受けさせるために遠く離れた町タンギーへ連行しろとの命令だったが、ダリュは関心もなく、一晩、食事と寝場所を提供したら明朝は逃がしてやるつもりだった。
しかし、翌朝、モハメドに殺された男の復讐をするためにやってきた部族民に襲撃を受けたダリュは、憲兵の命令に従いモハメドを連れていくことにする。道中、モハメドのいた部族の人たちに追われ、経路変更をして山を越えようとするが、そこには運悪く、アルジェリアのフランスからの独立を主張するゲリラたちがいて、ダリュとモハメドは捕まってしまう。洞窟で潜伏しているところにゲリラ掃討作戦を展開するフランス軍がやってきて銃撃戦となる。ダリュとモハメドは、すんでのところで救出されるが、ゲリラのほとんどは投降した者も含めて殺害されてしまう。
何とか危機を脱した二人は、ダリュの生まれ故郷にたどり着く。そこで、彼らは束の間の「生きる喜び」を満喫する。目の前に目的地のタンギーが見えた時、ダリュはモハメドに言う。「左に行けはタンギーだ。お前の望み通り裁判を受けて死ぬこともできる。右に行けば砂漠だ。何日か歩けば砂漠民に出会うだろう。彼らはお前を受け容れるはずだ。それが掟だから。さあ、あとは自分で決めるんだ」と。そして、モハメドは・・・。ダリュはその後は・・・。
というようなあらすじ(カミュの原作に対してエンディングは違うらしい)。
ダリュと、モハメドという2人は言い知れないh孤独に包まれた人たちでした。
ダリュは、スペイン人の両親のもと、フランス領アルジェリアで生まれました。国籍はアルジェリアで、アラビア語も喋れるし、アラブ人の友達も多いのだが、大戦中はフランス軍で戦ったこともあり、アラブの人たちからはフランス人と見なされる。大戦後は、自らの複雑な生い立ちもあって立場は微妙になり、人里離れた土地へ隠遁。しかし、彼の本意は、教育に携わることで、「教育によって世の中を変える」、つまり、アルジェリアのアラブ人たちが独立して自らの国家を築き上げられるように、読み書きを教えるところから始めようとしていました。と言っても、現地のアラブ人からもろ手をあげて歓迎されている訳ではない。それは彼がフランス語を話す「フランス人」だから。一方、フランスの憲兵からもスパイではないかと疑いをかけられている。彼の味方、仲間は恐らく誰もいない。ただ、子供たちがおずおずとダリュに対して見せる愛情表現だけが彼の受けられる愛。
もう一人の登場人物、モハメドも孤独な人。自分が家族を養うために大切にしていた麦を、いとこが盗んでいった。そんなことされれば家族が死んでしまうと、彼は犯人を惨殺する。いとこ側の家族は黙ってはいない。報復を企む。身柄を拘束されているダリュの棲家である小学校を襲撃する。モハメドはフランス人ではなく自分たちの手で殺さねばならないからタンギーなどには行かせない。モハメドが見つからなければ彼の弟を狙う。家族思いのモハメドは、自分がタンギーで処刑さえされば、これですべてが終わるだろうと思い、処刑裁判を受けることを切望している。部族からは「掟」の名のもとに迫害され、フランス人からも「アラブ人」ということで弾圧される。自分の命を守るためにいとこを殺してしまったのは罪だが、自分はどこへ行っても受け容れられない。ただ掟を守って窮屈に生きていくしか許されていない。
彼らは、ダリュのいる小学校からタンギーの街へ向かう間に、互いの孤独を理解し、少しずつ心を開いていく。モハメドはフランス語を少し話せ、ダリュもアラビア語を話せるからというだけが理由ではない、二人ともが抱えているひりつくような孤独が共鳴し合ったからこそできたこと。タンギーの街でフランス人の手によって殺されることで報復の連鎖を防ぎたいと考えたモハメドも、フランス人ともアラブ人とも距離を置かざるを得ないダリュも、ある意味、死に場所を探すことでしか生を実感することのできない人たちだった。
ゲリラに捕まり、明日の命の保証もなくなった二人は、暗い洞窟の中で横たわって身を休めながらこんな会話をします(大意)。
思い出した光景があります。それは靖国神社の遊就館で見た「花嫁人形」。女性と幸せな家庭を築くことなく、いや、女性と愛し合うということも知らず、無垢のままに戦死していった若い兵士の親が、せめてあの世で女性と結ばれますようにと靖国に寄贈した人形たち。靖国のその人形の展示そのものについてはここでは触れないでおきますが、当時、出陣学徒や、沖縄で現地調達された少年兵らのことを思わずにいられなかったのです。彼らには思いを寄せていた女性もいただろうし、結ばれたいという気持ちも持っていたかもしれない。特定の相手がいなくとも、女性と睦み合って生きる実感を手に入れたいと夢見ない青少年などいないはずがありません(抑圧されていたにせよ)。「女を抱くって"いい"か?」と目を輝かせて話すモハメドの表情に胸が張り裂けそうな思いがしました。
部族の掟からはじき出され、自分の望まない正義の闘いに巻き込まれ、このまま何も知らないまま自分は死んでしまうのかという絶望。いかほどのものだっただろうかと思います。何の権利があって、この若者から生きる喜びを奪うことが許されるのか。モハメドだけでなく、戦争で死んでいった若者たちの未来を破壊してしまって良いのか?
人生経験を積み、もはや諦観の境地に達していたダリュは、モハメドに「生きろ!」諭します。だから、ゲリラから逃れて生まれ故郷にたどり着いた時、モハメドを"ある場所"へ連れて行きます。モハメドに人生を実感させ、ダリュ自身も久しぶりに孤独を癒される。女性にとっては許しがたい場面かもしれませんが、しかし、この二人が得ることのできたものは余りにも大きい。女性蔑視などではなく、本当に女性がいなければ男などは何の生きる意味があるだろうか、女性の胸に顔を埋め、自分の存在を受け容れてもらう時間がなければ生きていけない。真剣に、心から、この場面を見て思いました。そんなこと書くと女性から軽蔑されてしまうかもしれませんが、本当にそう思わずにいられないシーンだったのです。女性は偉大だと。
そんな場面を通して、モハメドの絶望は、そしてダリュの孤独は、誰が包み込めるのか。彼らに生きる希望を与えられるのは、国家でも、民族でも、集落でもない。ただ無言で彼らを受け止められる女性でしかなかった・・・。
ゲリラたちの隠れ場所にフランス軍が掃討作戦を展開する場面も痛かった。なにが痛かったかというと、今、中東で日常的に発生している戦闘も、残念ながら、1950年代のアルジェリアとさほど状況は変わっていないだろうという現実に触れたからです。敵はいつも見えるところからやってくるとは限らない。いつどこが戦場になるかなんて予測はつかない。砂漠のような場所でさえも、一瞬にして血にまみれた戦場になってしまう。
いったい、戦闘が絶対に起こらない場所なんてあるんだろうか。後方支援という兵站は、それこそゲリラにとっては格好の標的。撃たなければ撃たれる。殺さなければ殺される。そのことを認めないでゲリラ多発地帯へ軍を派遣することに「リスクがない」などと一体どんな根拠をもって言うことができるのか。ダリュのような熟達した射撃能力、戦闘能力があっても、相手の出方によっては殺さなくても良い生命を奪ってしまうこともある。掃討作戦という作戦のもと、軍の指揮者は、たとえ武器を棄て投降の意志を表明したゲリラであろうとも「皆殺し」しなければならない。捕虜はとらない。それが命令であり、正義である。そうしなければ自分たちを「守る」ことができない。ダリュがフランス軍の部隊長に「投降した兵士を撃つべきじゃなかった。戦争犯罪だ」と抗議しても、命令だからと、ほとんどアイヒマンのような冷たい微笑みを返すだけ。戦争や紛争は、兵器の性能が向上し、無人攻撃も増えてはいますが、ゲリラや過激武装集団も力をつけていますから、いつどこが前線になるか、何が起こるかなど確定的なことは言えない。この映画の場面のようなものは恐らく毎日毎日起こる。ゲリラも、正規軍の兵士も、民間人も死ぬ。
それでいいのか?その先には我々が望むような「幸せな社会」があるのか?と思います。
答えはNoです。
ダリュが子供たちにしようとしていたように、言葉を教え、読み書きできるようになって、知恵を共有して、いかに報復を連鎖させるかを考え行動するしかない。そう、以前、このブログで書いたことですが、「きれいごと」でしか私たちはこのひどい状況を解決することはできないはず・・・。
ああ、映画の感想文を書こうと思って書き始めたのに、またしても感想文でさえもなく、何だか政治的な主張をダラダラと書き連ねているだけのクソみたいな文章に成り果ててしまいました。結論もオチもなく、このまま中途半端に断ち切るしか落としどころが見つからないところまできてしまいました。何だか未完成の作品を書き散らしたままあの世へ行ってしまったシューベルトの気持ちがちょっと分かるような気がする。
ちょっと言い訳しておきます。
映画や音楽は政治とは無関係、切り離して考えるべきなのかもしれません。でも、この「涙するまで、生きる」のような激しくこちらの思考に訴えかけてくる映画を前に、私という人間の「思考」を止め、ただ客観的にあれが良かった、ここがダメだった、1800円(+700円のパンフ代)に見合うかどうか、などというようなことを冷静に書くことは私には無理ですし、そもそもカミュという原作の著者も、映画の監督も、そして映画の制作を強力にプロモートした主演のモーテンセンも、そんな評価だけでなく、「映画を見て何を感じ、考え、何を次の行動に結び付けたいと思っているか」というような与太話にもきっと耳を傾けてくれるだろうと信じて、このまま中途半端な駄文を掲載することとします。
ただ最後に一つだけ。本当に素晴らしい映画を見ました。モーテンセン、カテブの演技はもう掛け値なしに素晴らしい。映像の美しさ、特に砂漠の過酷な風景は圧巻でした。また何度も見たいです。感動の映画でもありますが、私にいろいろなことを問いかけてくれる映画だからです。また、「異邦人」しか読んだことのないカミュ、いろいろと読んでみたいと思います。
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■主人公ダリュ
■ダリュはアルジェリアの山村で小学校の教師をしている
■ダリュのもとに「客」として来たモハメド。いとこを殺害した罪で逮捕。
■ダリュはモハメドを離れた町へと連れていく
■二人は旅の途中、ゲリラに捕まる
■ゲリラから解放された後、生まれ故郷を訪れた二人は・・・
■そして、ラストシーンへ
→あとは劇場で
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■カミュの言葉(映画の公式HPから)
1950年代、アルジェリアの、とある村。大戦中、アルジェリア人兵士としてフランス軍に加わってイタリアと戦った少佐のダリュは、今はそこの小学校で教師をして子供たちに読み書きや歴史を教えている。ある日、フランス人憲兵が、一人のアラブ人の若い犯罪者モハメドを、ダリュのもとに「客」として連れて来る。いとこを殺した罪で裁判を受けさせるために遠く離れた町タンギーへ連行しろとの命令だったが、ダリュは関心もなく、一晩、食事と寝場所を提供したら明朝は逃がしてやるつもりだった。
しかし、翌朝、モハメドに殺された男の復讐をするためにやってきた部族民に襲撃を受けたダリュは、憲兵の命令に従いモハメドを連れていくことにする。道中、モハメドのいた部族の人たちに追われ、経路変更をして山を越えようとするが、そこには運悪く、アルジェリアのフランスからの独立を主張するゲリラたちがいて、ダリュとモハメドは捕まってしまう。洞窟で潜伏しているところにゲリラ掃討作戦を展開するフランス軍がやってきて銃撃戦となる。ダリュとモハメドは、すんでのところで救出されるが、ゲリラのほとんどは投降した者も含めて殺害されてしまう。
何とか危機を脱した二人は、ダリュの生まれ故郷にたどり着く。そこで、彼らは束の間の「生きる喜び」を満喫する。目の前に目的地のタンギーが見えた時、ダリュはモハメドに言う。「左に行けはタンギーだ。お前の望み通り裁判を受けて死ぬこともできる。右に行けば砂漠だ。何日か歩けば砂漠民に出会うだろう。彼らはお前を受け容れるはずだ。それが掟だから。さあ、あとは自分で決めるんだ」と。そして、モハメドは・・・。ダリュはその後は・・・。
というようなあらすじ(カミュの原作に対してエンディングは違うらしい)。
ダリュと、モハメドという2人は言い知れないh孤独に包まれた人たちでした。
ダリュは、スペイン人の両親のもと、フランス領アルジェリアで生まれました。国籍はアルジェリアで、アラビア語も喋れるし、アラブ人の友達も多いのだが、大戦中はフランス軍で戦ったこともあり、アラブの人たちからはフランス人と見なされる。大戦後は、自らの複雑な生い立ちもあって立場は微妙になり、人里離れた土地へ隠遁。しかし、彼の本意は、教育に携わることで、「教育によって世の中を変える」、つまり、アルジェリアのアラブ人たちが独立して自らの国家を築き上げられるように、読み書きを教えるところから始めようとしていました。と言っても、現地のアラブ人からもろ手をあげて歓迎されている訳ではない。それは彼がフランス語を話す「フランス人」だから。一方、フランスの憲兵からもスパイではないかと疑いをかけられている。彼の味方、仲間は恐らく誰もいない。ただ、子供たちがおずおずとダリュに対して見せる愛情表現だけが彼の受けられる愛。
もう一人の登場人物、モハメドも孤独な人。自分が家族を養うために大切にしていた麦を、いとこが盗んでいった。そんなことされれば家族が死んでしまうと、彼は犯人を惨殺する。いとこ側の家族は黙ってはいない。報復を企む。身柄を拘束されているダリュの棲家である小学校を襲撃する。モハメドはフランス人ではなく自分たちの手で殺さねばならないからタンギーなどには行かせない。モハメドが見つからなければ彼の弟を狙う。家族思いのモハメドは、自分がタンギーで処刑さえされば、これですべてが終わるだろうと思い、処刑裁判を受けることを切望している。部族からは「掟」の名のもとに迫害され、フランス人からも「アラブ人」ということで弾圧される。自分の命を守るためにいとこを殺してしまったのは罪だが、自分はどこへ行っても受け容れられない。ただ掟を守って窮屈に生きていくしか許されていない。
彼らは、ダリュのいる小学校からタンギーの街へ向かう間に、互いの孤独を理解し、少しずつ心を開いていく。モハメドはフランス語を少し話せ、ダリュもアラビア語を話せるからというだけが理由ではない、二人ともが抱えているひりつくような孤独が共鳴し合ったからこそできたこと。タンギーの街でフランス人の手によって殺されることで報復の連鎖を防ぎたいと考えたモハメドも、フランス人ともアラブ人とも距離を置かざるを得ないダリュも、ある意味、死に場所を探すことでしか生を実感することのできない人たちだった。
ゲリラに捕まり、明日の命の保証もなくなった二人は、暗い洞窟の中で横たわって身を休めながらこんな会話をします(大意)。
モハメド「ああ、俺は女を知らないまま死ぬのか」こんな会話に涙が出てきました。
ダリュ 「知らないのか?」
モハメド「そうだ、一度も女を抱いたことはない」
−しばし沈黙−
モハメド「あなたは結婚しているのか?」
ダリュ 「かつては。10年前に死んだ」(涙を浮かべる)
モハメド「そうなのか。神の御加護を(注:多分言葉は違う)」
モハメド「なあ、女を抱くって"いい"のか?」
ダリュ 「ああ。まあな」
思い出した光景があります。それは靖国神社の遊就館で見た「花嫁人形」。女性と幸せな家庭を築くことなく、いや、女性と愛し合うということも知らず、無垢のままに戦死していった若い兵士の親が、せめてあの世で女性と結ばれますようにと靖国に寄贈した人形たち。靖国のその人形の展示そのものについてはここでは触れないでおきますが、当時、出陣学徒や、沖縄で現地調達された少年兵らのことを思わずにいられなかったのです。彼らには思いを寄せていた女性もいただろうし、結ばれたいという気持ちも持っていたかもしれない。特定の相手がいなくとも、女性と睦み合って生きる実感を手に入れたいと夢見ない青少年などいないはずがありません(抑圧されていたにせよ)。「女を抱くって"いい"か?」と目を輝かせて話すモハメドの表情に胸が張り裂けそうな思いがしました。
部族の掟からはじき出され、自分の望まない正義の闘いに巻き込まれ、このまま何も知らないまま自分は死んでしまうのかという絶望。いかほどのものだっただろうかと思います。何の権利があって、この若者から生きる喜びを奪うことが許されるのか。モハメドだけでなく、戦争で死んでいった若者たちの未来を破壊してしまって良いのか?
人生経験を積み、もはや諦観の境地に達していたダリュは、モハメドに「生きろ!」諭します。だから、ゲリラから逃れて生まれ故郷にたどり着いた時、モハメドを"ある場所"へ連れて行きます。モハメドに人生を実感させ、ダリュ自身も久しぶりに孤独を癒される。女性にとっては許しがたい場面かもしれませんが、しかし、この二人が得ることのできたものは余りにも大きい。女性蔑視などではなく、本当に女性がいなければ男などは何の生きる意味があるだろうか、女性の胸に顔を埋め、自分の存在を受け容れてもらう時間がなければ生きていけない。真剣に、心から、この場面を見て思いました。そんなこと書くと女性から軽蔑されてしまうかもしれませんが、本当にそう思わずにいられないシーンだったのです。女性は偉大だと。
そんな場面を通して、モハメドの絶望は、そしてダリュの孤独は、誰が包み込めるのか。彼らに生きる希望を与えられるのは、国家でも、民族でも、集落でもない。ただ無言で彼らを受け止められる女性でしかなかった・・・。
ゲリラたちの隠れ場所にフランス軍が掃討作戦を展開する場面も痛かった。なにが痛かったかというと、今、中東で日常的に発生している戦闘も、残念ながら、1950年代のアルジェリアとさほど状況は変わっていないだろうという現実に触れたからです。敵はいつも見えるところからやってくるとは限らない。いつどこが戦場になるかなんて予測はつかない。砂漠のような場所でさえも、一瞬にして血にまみれた戦場になってしまう。
いったい、戦闘が絶対に起こらない場所なんてあるんだろうか。後方支援という兵站は、それこそゲリラにとっては格好の標的。撃たなければ撃たれる。殺さなければ殺される。そのことを認めないでゲリラ多発地帯へ軍を派遣することに「リスクがない」などと一体どんな根拠をもって言うことができるのか。ダリュのような熟達した射撃能力、戦闘能力があっても、相手の出方によっては殺さなくても良い生命を奪ってしまうこともある。掃討作戦という作戦のもと、軍の指揮者は、たとえ武器を棄て投降の意志を表明したゲリラであろうとも「皆殺し」しなければならない。捕虜はとらない。それが命令であり、正義である。そうしなければ自分たちを「守る」ことができない。ダリュがフランス軍の部隊長に「投降した兵士を撃つべきじゃなかった。戦争犯罪だ」と抗議しても、命令だからと、ほとんどアイヒマンのような冷たい微笑みを返すだけ。戦争や紛争は、兵器の性能が向上し、無人攻撃も増えてはいますが、ゲリラや過激武装集団も力をつけていますから、いつどこが前線になるか、何が起こるかなど確定的なことは言えない。この映画の場面のようなものは恐らく毎日毎日起こる。ゲリラも、正規軍の兵士も、民間人も死ぬ。
それでいいのか?その先には我々が望むような「幸せな社会」があるのか?と思います。
答えはNoです。
ダリュが子供たちにしようとしていたように、言葉を教え、読み書きできるようになって、知恵を共有して、いかに報復を連鎖させるかを考え行動するしかない。そう、以前、このブログで書いたことですが、「きれいごと」でしか私たちはこのひどい状況を解決することはできないはず・・・。
ああ、映画の感想文を書こうと思って書き始めたのに、またしても感想文でさえもなく、何だか政治的な主張をダラダラと書き連ねているだけのクソみたいな文章に成り果ててしまいました。結論もオチもなく、このまま中途半端に断ち切るしか落としどころが見つからないところまできてしまいました。何だか未完成の作品を書き散らしたままあの世へ行ってしまったシューベルトの気持ちがちょっと分かるような気がする。
ちょっと言い訳しておきます。
映画や音楽は政治とは無関係、切り離して考えるべきなのかもしれません。でも、この「涙するまで、生きる」のような激しくこちらの思考に訴えかけてくる映画を前に、私という人間の「思考」を止め、ただ客観的にあれが良かった、ここがダメだった、1800円(+700円のパンフ代)に見合うかどうか、などというようなことを冷静に書くことは私には無理ですし、そもそもカミュという原作の著者も、映画の監督も、そして映画の制作を強力にプロモートした主演のモーテンセンも、そんな評価だけでなく、「映画を見て何を感じ、考え、何を次の行動に結び付けたいと思っているか」というような与太話にもきっと耳を傾けてくれるだろうと信じて、このまま中途半端な駄文を掲載することとします。
ただ最後に一つだけ。本当に素晴らしい映画を見ました。モーテンセン、カテブの演技はもう掛け値なしに素晴らしい。映像の美しさ、特に砂漠の過酷な風景は圧巻でした。また何度も見たいです。感動の映画でもありますが、私にいろいろなことを問いかけてくれる映画だからです。また、「異邦人」しか読んだことのないカミュ、いろいろと読んでみたいと思います。
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■主人公ダリュ
■ダリュはアルジェリアの山村で小学校の教師をしている
■ダリュのもとに「客」として来たモハメド。いとこを殺害した罪で逮捕。
■ダリュはモハメドを離れた町へと連れていく
■二人は旅の途中、ゲリラに捕まる
■ゲリラから解放された後、生まれ故郷を訪れた二人は・・・
■そして、ラストシーンへ
→あとは劇場で
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■カミュの言葉(映画の公式HPから)
私の後ろを歩かないでください、
私はあなたを何処へも連れて行けないから。
私の前を歩かないでください、
私はあなたについて行けないから。
私の隣で、いつも一緒に歩いて欲しい。
だって私たちは友人なのだから。
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世間に存在する悪は、大半が常に無知に由来する。
知識がなければ、よい意志も悪意と同じくらい多くの被害を与えることもあり得る。