【演劇 感想】「ペール・ギュント」(イプセン原作)  内博貴、藤井美菜、前田美波里ほか (2015.07.19 KAAT神奈川芸術劇場)

2015.07.21 Tuesday

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    ・舞台「ペール・ギュント」(イプセン原作)
     内博貴、藤井美菜、前田美波里ほか
     (2015.07.19 KAAT神奈川芸術劇場)







      KAAT神奈川芸術劇場で上演されているイプセン原作、白井晃演出の「ペール・ギュント」を観てきました。主演はペール・ギュントに内博貴、ペールの母オーセに前田美波里、恋人ソールヴェイに藤井美菜という主役3人の他、堀部圭亮、加藤和樹、橋本淳らの出演。音楽は、スガダイローが書き下ろしたものを、3人のジャズ・ミュージシャンとともに舞台奥のスペースに常駐してライヴ演奏。

     クラシック音楽ファンである私にとっての「ペール・ギュント」と言えば、グリーグのつけた劇付随音楽そのものです。イプセンの戯曲は見たこともないし、原作を読んだこともない。いや、それらに触れる必要性を余り感じていなかった。グリーグの音楽を聴き、その解説などで戯曲のあらすじを読むと、そこにすべてのものが表現されているような気がしていたからです。

     もっと極端なことを言うと、「ペール・ギュント」という戯曲の核心は「ソルヴェイグの歌」「ソルヴェイグの子守歌」の2つの歌だけで表現されているようにさえ思える。冒険小説のような体をなしたエンターテインメントの主人公としてのペール・ギュントという男にはほとんど関心がなく、私にとっての「ペール・ギュント」はその恋人ソルヴェイグ(ソールヴェイ)に集中しています。そして、どうしようもない男を愛してしまったソールヴェイの慈愛、包み込み、赦す性としての女性の偉大さが描かれたものであると認識していました。そう、この戯曲、劇音楽のタイトルは、「ペール・ギュント」ではなく「ソルヴェイグ」こそふさわしいのではないかというくらいに。

     でも、白井演出の「ペール・ギュント」を観て、私のその「ペールはどうでもいい」という認識は浅いものだったと思い知りました。その戯曲にこめられたものの核心は、やはりペールという男を通して、彼の言葉を通してしか描き切れないものであると。

     まず、誰が観ても明らかなように、この戯曲の一番重要なテーマは「自分探し」です。

     ペールは、大酒飲みで、大ホラ吹き、女たらし。誇大妄想にとりつかれた超自己中心男。周囲の人々をも巻き込みつつ浮き沈みを繰り返し、支離滅裂な波乱万丈の人生を送る。何をやっても生きているという実感を得ることができず、次々と新しい虚構の自分を演じながら、自分とは何なのかますます分からなくなって混乱していく。

     それに引き換え、彼を心から愛していた母のオーセと、恋人のソールヴェイは、いつどこから帰ってくるかもしれぬペールを辛抱強く待ち続け、愛し続ける。ああ、何て可哀想なソールヴェイとオーセ。

     しかし、結局のところ、ペールが世界各地を冒険した末に見つけ出した「自分」とは、ソールヴェイが子守歌を歌ってくれる膝枕の上に正体があった。ただ平凡な一人の人間として、母から生まれた子供として死んでいくこと。そこにこそ「救い」がある。

     手を伸ばせばすぐそこに「答え」はあったのに、ペールの悲劇はそのことにまったく気がつかなかったこと。あれだけ壮大なドラマをやっておきながら結論はそこかというくらいに、実際はちっぽけな話。「自分探し」なんていうのは結局はそんなもの。恐らく多くの人たちが、実人生を通して実感してきたことの再確認。

     では、今回の戯曲上演を通して私たち観衆が受け取るべきものは、自分探しなんぞをする人たちの断罪であり、自分探しなんてやっても無駄、答えは分かってる、やめとけという忠告なんでしょうか?

     多分、それは違う。私は、今回の舞台からはむしろ、制作者たちからの、ペール・ギュントというとんでもない「自分探し」男への「赦し」なんていうと大げさかもしれませんが、ペールという男への「憐れみ」のようなまなざしを感じずにはいられないのです。いや、もっと言うと、誰だってペールと程度は違えど、同じように「自分探し」はやらざるを得ないんだよという、やわらかな「肯定」の声が聞こえてくるような気がしたのです。

     「自分探し」という言葉は、一時期は相当にもてはやされましたが、今はほとんどバッシングの対象になっています。自分探しなんかやったって無駄。答えなんかない。若い奴は、「自分探し」なんてしてる暇があったら、もっと直近の利益になるような技術を身に着けろ、社会貢献しろ。若くない奴は「自分探し」なんてやめろ。他の人間を巻き込むな、自己責任だ、空気を読め。

     でも、ふと考えてみると、それでいいのかな?という気もしてくる。芸術であろうと娯楽であろうと、「自分探し」とは無縁なままに人の心を打つものなどあり得ないんじゃないか?いいじゃないか、「自分探し」。やらないで済むのはそれはそれで幸せだけど、やって答えに近づこうとする努力しないで生きてる実感って得られるか?ペール・ギュントは確かにダメ男だし、実際に犯罪的なことはしたかもしれないけれど、本当の意味で罪人と言えるんだろうか?ペールに対する「擁護」とまではいかないかもしれないけれど、今回の制作者たちはペールの「弁護人」としての立ち位置にあるように思えました。

     そうじゃなかったら、あんなに美しいラストシーンは存在し得ないんじゃないだろうか?

     何年もの不在の後に故郷に帰り、死期の迫ったペール。彼の前にボタン職人が現れ、「凡人はこの柄杓の中で溶かして新しいボタンを作る。もしもあなたが極悪非道の罪人であると証明できるなら、ボタンにはならずに拷問されて消える運命になる。証明できなければお前はボタンになるのだ」と言います。自分は凡人じゃない、むしろ悪人、凡人と一緒にするなと憤ったペールは、かつての彼の行状を知っている人たちのところを訪れて、自分が罪人であることを証明してくれと頼むが、試みは悉く失敗する。

     そしてペールはとうとう最後に、彼のことをずっと待ち続けていたソールヴェイのもとにたどり着く。彼女は「あなたは何にも悪くなかった」と彼を赦す。ペールは彼女に看取られながら天に召される。彼は罪人なんかじゃない。他の凡庸な人とおなじように、何の変哲もない「死」を迎えて安らぎを得る。誰もが「自分探し」をやらずにはいられないんだったら、罪状には書けない。

     だとすると、「自分探し」バッシングはちょっとおかしくないか?人間という存在そのものが、「自分探し」をせずにはいられない、生きていけない生き物なんだから、否定したところで何になる?

     そんなことよりむしろ、「自分探し」をしたくてもできないことって問題じゃないのか?「生」を精一杯生き、穏やかに「死」を迎え、再生産され続けるボタンになることにこそ、人間の真実があり、魂の安らぎがあるとするならば、その「生」さえまっとうできないのは悲劇じゃないだろうか。例えば、せっかくこの世に生まれ出たばかりの赤ちゃんが、戦乱でその短い生命を終えてしまうような場合。ただ、その「死」を看取ってくれる「女性」がいてくれれば、その死んでしまった赤ちゃんだって、十分に生きた、「自分探し」の答えを得ることができたのではあるけれども・・・。だから、この演劇のポスター写真は、「自分探し」の「自分」とは母親から生まれた赤ん坊、名前もまだない、何も生きていない無垢な人間なのであって、「自分探し」の末路には、平々凡々たる「生と死」をすっぽりと覆いつくし、ちゃんとへその緒で繋がっている「母性」が必ずあるのだということを示唆しているように思いました。

     そして、最終的には、「自分探し」がちゃんとできる世の中の方が健康的だし、平和なんだ。どうせ何をやったって、神の前では平凡な一人の人間として死んでいくんだから、存分に「自分探し」をしてから死んだ方がいい、そんな気がしてきました。

     ただ、いくつかの場面を見て、注意しなければならないとは思いました。「自分探し」はとても難しいということを。自分らしさ、人間らしさを突き詰めていけば狂気の只中に至るしかない。人間らしさを棄てて「あるがままに」生きれば獣になってしまう。自己の内部に生まれた思想、言葉、そして涙を、きちんと表現しなければならない。自己と自我のバランスをとれる「重心」を見つけ、調和のとれた「魂」を見出さねばならない。所詮、人間なんてちっぽけな存在。所詮は神様が鋳型で作り直すボタンでしかない。

     全体的には、ですから、「控えめな自分探し礼賛」ともいうべき芝居を観たというのが私の感想です。控えめと感じたのは、「自分探し」は実はかなり過酷で、痛みや苦しみを伴うものだからです。そうした芝居の趣は私にとっては非常に好ましく、共感できるものでしたし、ペールに対して、オーセやソールヴェイに対して、そして人間に対しての優しくあたたかいまなざしゆえに、感動しました。

     ところで、今回の白井演出「ペール・ギュント」を観に行きたいと思ったのは、藤井美菜という女優さんがこのソールヴェイを演じるからです。私が彼女の存在に気づいたのつい最近のこと、何とか彼女の活躍に触れる機会はないものかと思ったところ、この公演を知って狂喜乱舞して見に行ったという訳です。

     まず最初にこの藤井美菜のソールヴェイは、もう何と言うのでしょうか、美しいとしか言いようがない。そのピンと伸びた背筋、遠くから見ても分かる大きくてつぶらな瞳、端整な顔立ち。恋人を年老いるまで待ち続ける一途な女性のまっすぐな「愛」が、彼女の言葉から、立居振舞から伝わってきました。私がソールヴェイという女性に抱いていたイメージよりも、スマートで、垢ぬけていて、とても知的な雰囲気があるけれども、でも、この美しい女性を見てうっとりしていると、こんな女性に看取ってもらえるペールは何と幸せだろうと思いました。また、よく言われるように、放蕩息子ペールを聖書の記述にならってイエス・キリストになぞらえ、ソールヴェイをピエタ像の聖母マリアの姿に重ねて崇拝することも可能かもしれませんが、まさに藤井美菜のソールヴェイはマリア様のようなイメージでした。きっと演技についてはこれから彼女は勉強しなければならないことはたくさんあるのでしょうけれど、見に来て良かったと思える素晴らしい演技でした。

     主役の内博貴という人のことは私はまったく知りませんでしたが、ジャニーズのアイドルグループ出身の人らしい。この内という人は、素晴らしい俳優さんでした。顔が良くて、演技も巧いし、声もいい、歌も歌える。そして、ペールという男の抱える矛盾、つまり、純粋さと狡猾さ、優しさと残酷さ、そうしたものが対立しながら、穏やかなで満ち足りた死へと向かっていくさまを、見事に演じ切っていたように思いました。このテのアイドルにはまったく疎いのですが、彼はこれからいい俳優さんになるんじゃないだろうか、これからもいいお芝居を見せてほしいと思いました。

     母親オーセ役の前田美波里はさすがの存在感。過剰さに溺れない、でも、心のこもった演技は素晴らしく、彼女の死の場面はとても胸を打つものでした。息子を愛することしか能のない親バカな母親でありつつ、でも、息子のためなら何でもやるぞというような芯の強さをもつ女性としてのオーセ。素晴らしい。

     その他の俳優さんも皆さんとても良かった。特に女性たち、イングリ役の宮菜穂子の艶技は印象に残りましたし、アニトラ役の瑛蓮のビッチなりきりぶりもグッと来ました。

     スガダイロー率いるジャズメンの演奏にも大いに惹かれました。グリーグの音楽は使わず(「朝」だけ引用されていました)、この「自分探し礼賛」の裏にある苦さ、痛みなど、非常に「負」の要素をうまく音にしていたのがいい。開始早々、コントラバスの調弦が狂ったらしくて、ちょっとチューニングの音が大きくて集中力が途切れたことだけが残念でしたが。

     そして、白井の演出、谷賢一の台本、いずれもが、この戯曲の大成功の立役者なのだと思います。とにかく舞台転換の多い戯曲ですが、出演者も道具運び要員として使い、時には巨大なビニール袋で水を表現して使うことで、一瞬たりとも舞台に空白を生じさせない。限られた予算とスケジュールの中での制約を逆手にとった見事な解決策がここにあったんじゃないかという気がします。戯曲の本編の前後で、サイドストーリーを付与するあたりは、先日、宮本亜門演出の「魔笛」で見たのと同じ手法ですが、とても胸に響くものでした。白井と言えば、私は三谷幸喜のテレビ作品に出ていた頃の印象しかなかったのですが、こんなに素晴らしい演出家なのかと驚きました。客席にも観に来られていて、休憩時間に何か必死になってメモに書きつけている真摯な姿にも頭が下がる思いでした。

     ああ、素晴らしい芝居を見ました。暑い中、苦労して観に行った甲斐がありました。

     私もこれから「自分探し」を続けたいと思います。そして、カミさんにちゃんと看取ってもらえるように、ちゃんと人生を生き切りたいです。




    彼女の特技はピアノらしい。美しい・・・。


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    2020.06.28 Sunday

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