【演奏会 感想】都響スペシャル「第九」〜 エリアフ・インバル指揮東京都響ほか(2015.12.25 東京文化会館)

2015.12.26 Saturday

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     ・都響スペシャル「第九」
     ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調Op.125「合唱」
     エリアフ・インバル指揮東京都響
     安藤赴美子(S)中島郁子(A)
     大槻孝志(T)甲斐栄次郎(Br)
     二期会合唱団
     (2015.12.25 東京文化会館)




     東京文化会館で、エリアフ・インバル指揮東京都響の演奏するベートーヴェンの第九を聴いて来ました。

     「ロゴス」に満ちた音楽でした。
     
     ロゴスとは、言うまでもなく第一義的に「言葉」を意味します。第4楽章に声楽が導入され、シラーの「歓喜に寄す」をテキストとして人類愛や平和が謳われる第九なのだから、それを聴いて言葉を感じるなんて当たり前ではないかと言われるかもしれません。

     でも、私がインバルと都響の演奏する第九からロゴスを感じたのは、実はその第4楽章ではなく、その前の第1〜3楽章からのことでした。つまり、声楽は入らずオーケストラだけで演奏される部分。ですから、私が聴きとった言葉とは、具体的なセマンティクス(意味)をもった言葉ではなく、言葉のシンタックス(形式・構造)だったと言えるのかもしれません。

     インバルと都響の奏でる音からも、そしてインバルの指揮ぶりからも、ベートーヴェンの第九にこめられた言葉を引き出そうとする姿勢が痛いほど伝わってきました。

     特に顕著だったのは、オーケストラがユニゾンでモチーフを演奏する際、急にテンポを落とし重々しく演奏させていた部分。3月に聴いたシューマンの4番の終楽章で同様の場面がありましたが、今回は各楽章に必ず一度はそうした箇所がありました。

     その箇所にさしかかるまでは中庸から早めのテンポで進んでいたところ、ユニゾンの箇所に突入した途端に急ブレーキをかけてテンポを落とし、全パートを音価一杯にテヌートでそのモチーフを弾かせる。

     普段は経過句的にサラッと流されることの多い部分なので、この急ブレーキとテヌートによる想定外の不意討ちには衝撃を受けたのですが、俳優が、ここぞという局面で、言葉の一つ一つの意味を際立たせるためにゆっくり間合いをとり、重々しく威厳をもって言葉を扱うさまを思い起しました。

     しかし、それは何か具体的な言葉をあてはめて自分の主張を聴き手に届けようとか、演劇の様式的な身振りを当てはめてはっきりしたイメージを生起させようという意図があってやったことのようには思えませんでした。そうではなくて、音楽の最も大事な言葉が隠されていることを弾き手にも聴き手にも知覚させるためのアンダーラインや傍点だったのではないでしょうか。考えてみるとそれらの箇所はどれも次の部分への場面転換としての役割をもったものでしたから、音楽の不連続点を聴き手に刻印するための狙いもあったのかもしれません。いずれにせよ、インバルと都響の音からは、言葉、あるいは言葉のようなものとしてのロゴスをいつも感じずにはいられなかったのです。

     私が彼らの演奏からロゴスを感じたのは、それだけではありません。
     
     例えば、第3楽章の全体。インバルは、弦楽器が美しい旋律を弾く際に、いつもデリケートなヴィブラートを要求してウエットなカンタービレを引き出していましたが、彼はスラーやフレーズの切れ目を見つけるや否や、「切った次のスラーの頭の音、アクセントつけて、そしてモルト・ヴィブラートで!」とオケに指示したんじゃないかというくらいに、その切れ目で左手でヴィブラートをかけるような仕草をしていました。

     都響の弦は、インバルの指揮にぴったりと呼応するかのように、言葉の中にある「子音」に万感の思いをこめて美しい「切れ目」を作っていました。こうして、息の長い旋律の中に、いくつかポイントとなるアクセントが生まれ、ブレスが生まれ、音楽は呼吸し、語り出す。

     この深々とした歌からは、私はどんな言葉を受け取れば良いのでしょうか?

     それは「祈り」のような気がします。いや、誰に対する祈りなのか、何に対する祈りなのか、人類愛なのか、平和への祈りなのか、それは私には分かりません。でも、それはあまり考えても意味のないことなのではないかという気がします。

     ロゴスという言葉には、単に言葉という意味だけでなく、「論理」や「理性」という意味もありますが、古代ギリシャ哲学・スコラ学では、さらに「世界万物を支配する理法・宇宙理性」という意味もあったそうです。インバルの演奏から聴き取れる言葉とは、まさにその「宇宙理性」という意味のロゴスに通ずる何かなのではないかと思うのです。

     哀しみに満ち、理不尽にまみれた世界に生きる私たちは、世界万物を支配する宇宙理性などというものは完全に忘れ去ってしまった。でも、ベートーヴェンは、この第九で「宇宙理性」という意味でのロゴスを音だけで表現して私たちに残してくれた。私たち人間は、いつかこのロゴスを理解することで理性を取り戻し、私たちの生を脅かし、幸福な生活を奪うような理不尽を乗り越えることができるはず。そうすれば、誰しもがまっとうに生を享受できるようになる。人間にはそれができると心から信じたい。宇宙理性の下で調和のとれた平和が自由が訪れる日がいつか来るようにと祈りたい。

     私は、インバルと都響の演奏から、そんな「祈り」を感じ取り、心の底から共感せずにいられませんでした。

     そんなのは勿論私の「曲解」なのかもしれませんが、あながち荒唐無稽な理解でもないと思っています。どうしてかというと、昨年の夏、インバル自身が、マーラーの10番のクック版を演奏する直前に開いたトークイベントで、マーラーの音楽の偉大さを「宇宙の法則」という言葉を使って説明していたからです。偉大な音楽というのは、それ自体が宇宙の法則のような真理を追究したものなのだと。だから、インバルが、マーラーと並んで偉大な作曲家として挙げていたベートーヴェンの音楽の背後に宇宙理性のようなものを感じ取り、それを音として具現化したのだとするなら、この演奏はまさに有言実行の結果なんじゃないかという気がしました。ことにこの第3楽章。勿論、第1、2楽章にも豊かな箴言がそこここに込められていて、印象的な場面には事欠かなかったのですが、第3楽章の「祈り」の深さ、豊かさは、金子建志氏がよく言う「臨界点」を超えてしまったようなものであるように感じました。

     そんなに豊饒な言葉をすでに器楽だけで表現してしまったベートーヴェンは、それでもまだ「音」を超越した「何か」が心の奥底から湧き起こって来るのを止められず、音楽として表現せずにはいられなかった。言葉が太初にあったのではなくて、音楽が太初にあった。自分の追い求める音を探求する過程で、たまたま若い頃から馴染んでいたシラーの「歓喜に寄す」の詩がそこにぴったり当てはまった。そうやって第九という音楽が生まれたのだというインバルの「理解」を音楽から感じました。これもまたきっと曲解なのでしょうけれども(もっとも、最近の研究では第九はシラーの詩を音楽にするために書いたのではなく、第3楽章まで書いた後で初めてシラーの詩をテキストにした声楽付きの交響曲を構想したというのが定説だそうです)。

     だからかどうかは分かりませんが、終楽章で声楽が入ってからのインバルの表現は、さほど一つ一つの言葉に意味を込めるのではなく(2年前には"Bruder"という言葉にはっきりとアクセントを要求していましたが)、ここにあるテキストは第3楽章まででもう十分表現されているから何も特別なことをしなくてもいいんだよ、とでも言いたげなストレートな表現をとっていました。

     ただ一つ、インバルがここぞとばかりに激しい表現をとっていたのは「神の前に!」のフェルマータ。そこでオケと合唱から引き出してくれた激烈な響きには、「宇宙理性」を司る「神」の存在を示すような威厳がありました。

     そんな風に、シラーのテキストも、音楽という枠組みをも超越し、世界全体を支配するような宇宙の法則への憧憬を露わにした第九を聴いたのは、これがもしかすると初めてかもしれません。あるいは、私が今読んでいる本や今の精神状態のせいで、たまたま第九にそうしたものを求めていたところにこの演奏を聴いたからそう思うのかもしれませんが、しかし、特に第1〜3楽章でここまで言葉を聴き取ったという記憶がないので、ロゴスなどということにまで思い至るという経験もありません。

     では、そのロゴスに満ち溢れた第九とは、私にとって何なのか。それは演奏から一夜明けた今でもまだよく分かりません。そもそも私のような人間に「宇宙理性」なんてものがあるのかないのかなんてことさえも分かりません。

     しかし、そのロゴスに込められた切実な心の底からの祈りに触れ、深い感銘を受けたことだけは間違いがありません。これを聴いただけでも、今日この演奏会を聴きに来た意味があった、いや、生きていて良かったと思いました。

     これから時間をかけて、インバルと都響が私に示してくれた(と自分で勝手に思い込んでいる)言葉を、そして、その言葉のはるか彼方にある宇宙の法則を、もっと自分のものとして感じ、味わってみたいと思います。そのためにも、本当なら、ライヴ録音が残っていると嬉しいのですが・・・。

     音楽の外観について、忘れないようにメモっておきます。

     今回の演奏でとても驚いたのは、冒頭から、分厚くて、たっぷりとした重量感のある響きが聴けたことでした。ただ編成が大きい(倍管、16型?)というだけでなく、重心の低い、ずしりとした手応えのある響き。この1週間で、編成は大きくとも響きが薄くて軽いスマートな第九を立て続けに聴いたのでなおのこと、このオールドファッション、もしかすると絶滅危惧種とさえ言えるような重厚な音の塊を浴びる体験というのは、こういう音を好む私にとっては今やむしろ新鮮で、まさに心ゆくまで堪能しました。

     勿論、音の切っ先を精密に揃えてディテールを常に明晰に保つという姿勢は、いつものインバル流でしたが、これまで以上にゆとりのある堂々たるテンポをとっているせいもあって、筆に墨をたっぷり吸わせ、ゆっくりとした運びで大きな文字を書いているような風情を感じさせる、往年の巨匠風のスケールの大きな音楽になっていました。

     確かにインバルの棒は、以前より随分と動きが小さくなり、鋭角的な振りがほとんどなくなっていました。彼の年齢なりの運動神経の衰えを感じないというと嘘になります。しかし、そうした変化とは裏腹に彼の精神はむしろ冴えわたっていて、今まで以上に音楽の「高み」を目指しているのだという高貴な姿勢を感じました。

     都響も、あのミンコフスキと組んでビューティフルなブルックナーとルーセルを聴かせてくれたオケとは信じがたいくらいに、どっしりと腰を低く落とした響きを聴かせてくれました。また、あの東京文化会館の乾いた音響の中で、ホールの残響に頼らず、ただ自分たちの発する音の響きだけで、あれほど豊かな美感に彩られた音を生み出していたことにも改めて驚きました。

     このオーケストラが、ただミスがないとか、アンサンブルが整っているとかそういうレベルにとどまることなく、指揮者と一体となって音楽の核心にあるものを追求・探究し、その創造のプロセスを演奏会の「いま、ここ」という瞬間に生み出すことのできる、本当の意味での「組織」へと進化を続けているのだと感じました。そんな高い志があればこそ、このような味わい深い第九の演奏が可能となったのだろうと思います。

     声楽陣も、オケに負けず劣らず、インバルの導きのもと、ベートーヴェンの音楽のロゴスを私たち聴き手にまっすぐストレートに伝えてくれていて嬉しかった。きっと大変な要求もあったことだろうとは思うのですが、独唱、合唱ともに、王道、正攻法で、この音楽と向き合っていたことに非常に好感を持ちました。

     もしかすると、こんな好意的な聴き方をするのは、私がインバルと都響を四半世紀以上聴き続けてきた大ファンゆえの特殊なことかもしれません。それが証拠に、演奏が終わった後は、不思議なくらいに拍手が穏やかで、ブラボーの声もほとんどかかりませんでした。

     多くの人たちが、絶滅危惧種的なスケールの大きな第九にポカーンとしてしまったのか、インバルが示してくれたロゴスに鬱陶しさや違和感を感じてしまったのか、はたまた、これまで聴き慣れた幾多の演奏、特に昨今流行のスマートで軽快な演奏とのあまりの差異に拒否感を募らせたのか、それは分かりません。人それぞれの理由があるでしょうし、それはどれももっともなものなのだろうと思います。

     ただ、私という聴き手にとっては、これは間違いなく、私自身の存在の根源にまで問いを投げかけ魂を揺さぶってくれるような演奏であり、これから生きていくための糧となるような問いかけや宿題を与えてくれた演奏です。きっと割合からすれば、私のような聴き方は恐らく少数派には違いないでしょうけれど。

     第九を書いた当時(54歳)のベートーヴェンの息子くらいの年齢のバッティストーニ、年齢の近いP.ヤルヴィ、そして、父親くらいの年齢であるインバルと、まったく個性の異なる、しかも強烈な個性の演奏を立て続けに聴きましたが、この交響曲はビクともせずその威容をたたえています。しかも、それらの演奏のどれもが「真実」に触れたものであると感じさせるだけの包容力を持っている。そして、演奏家にも、聴き手にも、常に何がしかのアクティブな「宿題」を与え続ける。音でしか表現できない「思想」を与える。ベートーヴェンという男の凄さ、天才を身に沁みて感じます。

     この1、2か月、メネセスとピリスの演奏するチェロ・ソナタ、田部京子とポール・ルイスの演奏する後期のピアノ・ソナタ、矢部達哉と横山幸雄のコンビの演奏するヴァイオリン・ソナタ(併せて手持ちのいろんな演奏を聴き比べましたし)、そしてこの3つの第九と、ベートーヴェンの音楽を聴くことの幸福を感じさせてくれる素晴らしい演奏を聴きました。それらを私が楽しめたのは、ただ演奏が良かったというだけでなく、ベートーヴェンの音楽を前よりもより自分のものとして聴くことができたからでああるなら、私自身が少しでも成長できたことの証となるはずですが、きっとそうじゃないので、来年には、もう少しまともな人間になれるように心がけたいと思いました。

     書けば書くほど小学生の作文みたいになるので、今日はこのへんで。

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    2019.12.04 Wednesday

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