Langsamer Satz

クラシック音楽のことなどをのんびり、ゆっくりとお話したいと思います
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【演奏会 感想】ヤナーチェク/歌劇「イェヌーファ」  カウネ、ラーモア、シュヴァルツ他  ハヌス指揮東響、国立劇場唱 (2016.03.08 新国立劇場)
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    ・ヤナーチェク/歌劇「イェヌーファ」
     カウネ、ラーモア、シュヴァルツ、ハルトマン、ザンピエーリ他
     トマーシュ・ハヌス指揮東響、国立劇場唱
     (2016.03.08 新国立劇場)



     
    ブリヤ家の女主人:ハンナ・シュヴァルツ
    ラツァ:ヴィル・ハルトマン
    シュテヴァ: ジャンルカ・ザンピエーリ
    コステルニチカ:ジェニファー・ラーモア
    イェヌーファ:ミヒャエラ・カウネ
    粉屋の親方:萩原 潤
    村長:志村文彦
    村長夫人:与田朝子
    カロルカ:針生美智子
    羊飼いの女:鵜木絵里
    バレナ:小泉詠子
    ヤノ:吉原圭子


    ---

     新国立劇場で上演されたヤナーチェクの歌劇「イェヌーファ」を観て気がついたのは、これが「父親不在」のドラマだということでした。

     イェヌーファの父親は、彼女を産んだ妻が亡きあとコステルニチカと結婚したが、放蕩と、妻と娘への激しい暴力の末に亡くなる。イェヌーファと婚約していたシュテヴァと、後に彼女と結ばれることになるラツァの兄弟の父親も既に亡くなっている。

     しかし、イェヌーファの家から一歩外に出てしまえば、そこはキリスト教社会という「父性原理」に貫かれた世界がある。「良い子だけが我が子」という原理に基づき、規律を守り、行いの良いものだけが許される。排他的で閉鎖された社会の中で「父親不在」の中心にいるコステルニチカは、彼女自身が父性原理を盾にして、自分たちに攻撃を仕掛けてくる者(イェヌーファの父親も含め)から身を守らねばならない。そして、娘のイェヌーファが社会を生き抜いていけるようにと父性原理の中で厳しく育てるしかない。

     一方、父親不在の中で育ったシュテヴァとラツァは、父性原理社会の中へ飛び込んでいくことを怖れ、拒否する。イェヌーファに子供を孕ませたシュテヴァは自ら父親になることを拒んだだけでなく、産まれてきた子供はコステルニチカによって殺され、結婚を約束した尊重の娘に逃げられ自分は父親になることはできない。ラツァは父親の再婚相手の連れ子ということで大事に育ててもらえず、ずっと恋心を抱いていたイェヌーファにも見向きもされず、いつも愛に飢えている。

     そこに悲劇が起きる。コステルニチカは、あろうことか結婚前に子供を身ごもったイェヌーファを半ば監禁し、人目を避けて出産させ、自らが本来持っている母性で呑み込んでがんじがらめに支配してしまう。しかも、それは娘のためを思ってのことではなく、自分の保身のためだった。世間体が悪い、恥をかかされるのが恐ろしかった。悩み苦しんだ末に、コステルニチカは、歪んだ父性原理を発揮して「良くない子」であるイェヌーファの子供(自分にとっては孫)を殺してしまう。

     父性原理に過度に支配されている社会の中での父親不在は、特に女性が冷たく扱われる社会においてはろくな結果にならない。人々は矛盾や不条理に翻弄され心を蝕ばまれていく。もっと拡張して言えば、父性原理、母性原理のどちらかが肥大化し、互いにバランスの取れない形にまで均衡が崩れた社会は荒廃していくしかないということなのかもしれない。コステルニチカのように、父性と母性の悪い面が極端な形で融合した人間が生まれ、とりかえしのつかない罪を犯してしまう。

     ではそんな社会を救えるものは何か?

     それは「他者への愛」であり、もっと言えば「母性」。

     イェヌーファは、自分の子供を母親が殺したという救いようのない悲劇に遭遇にした後で、母親を赦し、子供を孕ませた挙句に逃げていったシュテヴァを赦す。そして、自らの顔をナイフで傷つけたラツァを赦し、彼と未来へ向かって歩いていこうとする。

     イェヌーファがラツァという心から愛する存在に出遭い、そして、すべてを許し包摂してしまう母性に目覚めた、それによって悲劇がカタルシスへと高められる瞬間を経験できること、それこそが「イェヌーファ」というオペラの最大の魅力であるということを、今回の上演は私にはっきりと認識させてくれました。

     第2幕第6場、眠りから覚めて子供の不在に気づいたイェヌーファが、どうか息子をお守りくださいと聖母マリアに祈る場面で彼女の中で本物の「母性」が生まれ、孫殺しで母親が連行された後でイェヌーファは、すべてを赦し、自分を愛してくれるラツァを彼女もまた愛し、そっと手を差し伸べて、すべてを「母性」で包み込んでしまう。その人間の成熟のプロセスの美しさ、それこそがこのオペラの主題であり、魅力であると私は感じました。

     どうしてそのことが今回の上演から感じられたのか。

     演奏が良かったから。演出が良かったから。実演だから。その理由のすべてが正しい。特に、イェヌーファ役のカウネ、父性コステルニチカ役のラーモア、ブリヤ家の女主人役のシュヴァルツ、世界のオペラハウスで活躍する名歌手たちが持てる力を存分に発揮した力のこもった歌を聴かせ、それぞれのキャラクターと彼女らが孕む悲劇の芽を痛いほどに明瞭に感じさせてくれる。シュテヴァとラツァの兄弟は、ハルトマンとザンピエーリという生きのいい歌手たちが、若さあふれる一本気な歌を聴かせる。脇役の日本人歌手もなべて生き生きとした「父性原理社会」の無邪気な残酷さをもった人たちを、その通りに演じている。

     ヤナーチェクのオペラを多く取り上げているらしいハヌスは、東響から乾いた中欧の響きを引き出し、クリアで分離の良い音の粒を際立たせてヤナーチェクの音楽のユニークな語法と色彩をまざまざと感じさせてくれる。一つ一つの言葉に相応しいリズムや表現の強度を敏捷に切り替えながら、下世話な話から悲劇を経てカタルシスへと至るドラマのうねりをはっきりとしたかたちとして提示する。そして何よりも、音と音の隙間に細心の注意を払い、時としてドラマの流れを変えてしまう、あるいは一挙に核心へと斬り込んでいくような重大で深刻な「間」を生み出しながら、ラストシーンに向かって緊迫度を増していく。まだ若い世代の指揮者だろうに、その颯爽とした音の運びと、手堅いまでのオーケストラの統率力には並々ならないものを感じます。

     これまでヤナーチェクのオペラを演奏会形式では取り上げてきた東響は、そんなハヌスの指揮に応えて、まさしくヤナーチェクの音、ヤナーチェクの言葉を紡ぎ出していました。特徴的なシロフォンの連打や、耳鳴りのようなヴァイオリンの高音、モゾモゾと蠢く不気味なモチーフ、そういった音たちが奇妙な音の風景を作る中、民謡に根ざした人懐っこい歌と、登場人物の心の動きを乗せた旋律が、風景に様々な色をつけていく。そのさまをこんなに純度の高い響きによって体験できるとは、まったく予想できませんでした。ほとんどノーミスで、濁りも一切なく終始響きの美感を保ったのも素晴らしい。合唱団の生き生きとした「外の世界」の人たちの描写も、ドラマの悲劇性をはっきり隈取っていて感嘆しました。

     ロイの演出も、まるで映画を意識したような横長の舞台。孫殺しで捕まったコステルニチカの回想という形でドラマが始まりましたが、その閉鎖的な空間の中で起こる「父親不在」の世界と、その外の「父性原理」に貫かれた世界との亀裂、距離、そう言ったものがはっきりと認識できる舞台作りだったからこそ、私なりに感じることのできる「イェヌーファ」の本質というものがあったのだろうと思います。そして、ラストシーン、母性に目覚めたイェヌーファとラツァが二人歩いて行く先を真っ黒のスクリーンにしたのは、彼女らの行く手にはこれから過酷な現実が待っている、それでも二人は離れはしない。そのことを実感させてくれてこれも強い感銘を受けました。

     しかし、そうした数限りない長所を列挙してもなお、今回の上演で私が感銘を受けたのはヤナーチェクの書いた音楽の素晴らしさゆえ、その一点に尽きるのだろうと思います。

     不思議なのは、このオペラが、ヤナーチェクの発話旋律という原理にのっとって作られたものであり、その音の動きはチェコ語という私にはまったく馴染みのない言葉と密接な関係があって、字幕で見るセリフと、実際に耳に聴こえてくる旋律とが連動しているようには思えないにも関わらず、その言葉と一体となった音楽が激しく私の心を打つという点。モラヴィアの非常にローカルな文化を色濃く体現した音楽でありながら、日本人である私の脳のある部位、特に言語中枢に近いところに直接触れるような力をもった音楽でもある、つまり普遍を身にまとった音楽であるということが驚きに値する。

     どうして彼の音楽がこんな「普遍」の領域へと達することができるのか、それは音楽学者なり音楽家の方々の意見を聞きたいところですが、でも、このオペラが「普遍」へと昇華され得る音楽であることの理由の一つには、これが若くして亡くなったヤナーチェクの娘オルガへの思い(彼女はこのオペラの作曲中に死去)ゆえなのかもしれません。「父親不在」のオペラであるのもオルガへのある意味贖罪のような意味もあったのかどうか。いずれにせよ、ヤナーチェクはイェヌーファという役柄にオルガの姿を重ねて音楽を書いたのには違いないでしょう。だからこそ音楽にはとてつもない熱が込められるのだし、イェヌーファの歌う旋律がこれほどまでに優しい眼差しを持ったものになるのでしょうか。娘を持つ親としては、何となく彼のその気持ちが分かるような気がして大いに共感したのだろうし、特にラストシーンで洪水になってしまったのだろうと思います。いずれにせよ、音楽は個人から生まれて個人へと還っていくものであり、痛切でパーソナル思いから発した音楽だけが普遍性を獲得し人の心へ渡っていく、そのことだけは間違いのないことなのであり、ヤナーチェクのオペラはそんなことができる稀有の例なのでしょう。

     また、もう一つ印象に残ったのが、イェヌーファが祈りをささげる対象が「聖母マリア」であったということです。イエス様という言葉を一度だけ口にしますが、それ以外は彼女はマリアに語りかける。前述の第2幕のイェヌーファの祈りの歌は「母性」の象徴としてのイェヌーファを印象付ける場面で、その美しい音楽や彼の他のいくつかの作品を思うと、ヤナーチェクという作曲家が音楽を通して生涯追い求めたのはまさにその「母性」がすべてを包摂する世界だったのかもしれないなと思いました。

     1999年の伝説的なプラハ国民歌劇場の上演(ビエロフラーヴェク指揮ベニャチコヴァー、ドヴォルスキー兄弟出演)を観そびれ、その後の何回かの上演のすべても観られず、今回ようやく願いが叶って生で体験できた訳ですが、最初にこんなにも味わい深く、いつまでも消えることのない感銘を与えてくれるものを体験できたことに心の底から感謝したいと思います。これからヤナーチェクのオペラは本格的にハマろうと思います。
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