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【ディスク 感想】信時潔/交聲曲「海道東征」ほか 湯浅卓雄指揮東京藝大シンフォニー・オケ、山田和樹指揮横浜シンフォニエッタほか

・信時潔/交聲曲「海道東征」ほか
 湯浅卓雄指揮東京藝大シンフォニー・オーケストラほか(Naxos)

 →詳細はコチラ(Tower/HMV)



・信時潔/交聲曲「海道東征」ほか
 山田和樹指揮横浜シンフォニエッタほか(Exton)

 →詳細はコチラ(Tower/HMV)
 

 1940年、紀元2600年奉祝演奏会で初演された信時潔作曲のカンタータ「海道東征」が注目を集めています。昨年は、作曲者の没後50周年で信時の音楽への関心が高まっており、著作権も消滅したという事情もあって、東京と大阪で「海道東征」をとりあげる演奏会が開催されて話題をさらったのは記憶もに新しいところです。

 そんな中、東京でおこなわれた演奏会での湯浅卓雄指揮東京藝大シンフォニーオーケストラによるライヴ録音がナクソスから発売され、さらに時をほぼ同じくして、エクストンから2014年に山田和樹指揮横浜シンフォニエッタが熊本でおこなった演奏会のライヴ録音が登場しました。
 前者はSACDハイブリッド、橋本久美子、大角欣矢、杉本和寛、片山杜秀、湯浅卓雄、信時裕子による40ページの解説書つき、「我国と音楽との関係を思ひて」、「絃楽四部合奏(湯浅編)」がカップリングされています。
 一方、後者は通常CD盤で、同じく「絃楽四部合奏」と、「あかがり」「帰去来」の3曲が収録されています。解説は信時裕子。

 私はずっと前からこの曲を聴きたいと思っていました。2000年に発売された音楽之友社刊のムック「名盤大全」において、片山杜秀氏がこの曲を日本の音楽史の中で重要な作品として取り上げていたのを読んで興味を持ったからです。日本人の心のありようを反映した曲で、再評価されねばならないと、片山氏は短評で熱弁を奮っておられました。日本のみならず各国の大戦中の音楽に興味を持っている私にとって、「海道東征」は聴かねばならぬ作品となりました。
 しかし、 ムックで紹介されていた音盤は入手不可能なSP盤でしたし、演奏機会がほとんどなかったせいもあって、 私はこの「海道東征」を耳にする機会を持てずに来ました。昨年、演奏会で取り上げられた際も聴きに行けませんでした。
 ただ、実を言えば、音盤では既に耳にしていました。その音盤とはミッテンヴァルトから発売されているオーケストラ・ニッポニカが2003年に取り上げた際のライヴ録音で、昨年、この曲が話題になった頃に存在を知って入手したのです。芥川也寸志メモリアルと銘打ったコンサートでの、演奏者の尋常ならざる思い入れの伝わってくる熱演であることを重々承知の上で言いますが、残念ながら、全体に演奏の技術的なレベルが低くて聴き通すのに骨が折れてしまい、一度聴いただけで「これではこの曲の真価は分からないんじゃないか」と匙を投げてしまっていたのです。ですから、ここ2年の間に、優れた技量をもった演奏家たちが、万全の態勢で取り上げた演奏会の記録が聴けるとあれば聴かない訳にはいきません。

 「海道東征」がどのような曲なのか、どんな背景で作られ、戦中、戦後とどのように聴かれたか、あるいは聴かれなかったかといった事情は、この2枚のライナーノートに詳しいですが、私の理解を整理するために自分なりにまとめてみます。

 「海道東征」は、前述のように1940年(昭和15年)の紀元2600年奉祝演奏会で演奏されるべく、日本文化中央聯盟によって委嘱された曲。1940年と言えば日中戦争が泥沼化し、前年にはヨーロッパで第二次世界大戦が勃発していた時期。中止された東京五輪の穴を埋めるべく皇紀2600年の奉祝という行事が企画され、日本の歴史と伝統を広くアピールするために様々な分野の芸術作品が国の要請で作られ発表されました。「海道東征」はその一環として作られたものですが、初演当時から名作と称えられ(團伊玖磨のように退屈極まりなしと酷評した人もいたらしいですが)、終戦までに全国各地で67回、演奏会でとりあげられました(具体的な記録はナクソス盤のライナー参照)。
 作詩は北原白秋が担当(作曲者自身からの要請だったそうです)。音楽的には8部からなり、1時間近くを要する大規模なカンタータで、編成も独唱(ソプラノ2人、アルト2人、テノール、バリトン2人)、合唱(混声4部と児童合唱)、14型の二管編成(ピアノ、ハープあり)。当時の世相を反映して「交聲曲<<海道東征>>」という呼び名になっています。
 「海道東征」で歌われる内容は、古事記にある「神武東征」に拠るもので、具体的には、天照大神の末裔で高千穂(今の宮崎県)に生まれたカムヤマトイワレビコ(のちの神武天皇)が、海をわたって東へ進み、行く手を阻む軍勢を打ち破って大和(奈良県)を征服するまでを描いています。第8部のフィナーレでは神武天皇が橿原宮で即位する場面が取り上げられ、2600年前に日本という国を創生した神武天皇の偉業を称えるとともに、現在も続く威光をもって「八紘一宇」を成し遂げ、日本がますます繁栄しますようにという願いを謳い上げている。そう総括できるでしょうか。
 しかし、1945年の敗戦以降、「海道東征」は日本の音楽界の表舞台から姿を消します。戦時中、国威発揚の行事で取り上げられた曲であるということがその主な理由ですが、大変悪いことに、信時という作曲家が、 国民精神総動員強調週間のテーマ曲で第二国歌に指定され、出征兵士を送る歌として、戦地での玉砕を伝えるラジオ放送の開始曲として知られた軍歌「海ゆかば」の作曲者でもあったので、「海道東征」という曲について語ることさえタブー化され、日本の音楽の「黒歴史」として葬り去られたと言った方が正確かもしれません。信時自身も、戦後は作曲活動を大幅に縮小しました。ただ、実際のところは「海道東征」は戦後も高齢者を中心に一部に親しまれて根強い人気があり、演奏も細々と続けられていたとのこと。決して抹殺されたという訳ではないらしい。
 ともあれ、そんな曰くつき、訳ありの音楽である「海道東征」ですが、今回出た2つの演奏、しかも、演奏家の個性も、音楽への視点もまったく異なる演奏を耳にすることができたのはまことに嬉しい限りです。

 それらの優れた演奏を聴いて私が感じたのは、「海道東征」という曲が、おごそかで真面目、そして美しい音楽であるということです。そして、二つの演奏を行き来して何度も聴いていると「いい曲だな」という思いが強くなりました。繰り返して聴いていくうちに徐々に気づく味わいがあるのです。
 まずヘンデルの「メサイア」やバッハの宗教曲を思わせる格調の高い雰囲気がおごそかさを醸し出しているのでしょうし、日本の音楽のアイデンティティを前面に出すため日本古来の旋法を使ったりとか、逆に世界の最先端の音楽に追いつけとばかりに凝った作曲技法を取り入れるというような策に溺れることなく、平明で親しみやすい西洋古典音楽の響きを正々堂々と追求したところに私は真面目さを感じるのだろうと思います。また、非常によく整理されて見通しの良い簡素なオーケストレーションにより、終始、抒情的な旋律がのびやかに浮彫りにされているところに、質素ながら清潔で透明な「美」を見出しているに違いない。ニッポニカ盤を聴いて「海道東征」のアウトラインは知っているつもりでしたが、実はこんなにも美しい佇まいをもった曲だったのかと驚きを禁じ得ませんでした。

 しかし、私は正直、肩透かしを食らった気分でした。素人の耳でぼんやりと「いい曲だなあ」としみじみ思う一方で、いや、そんなはずじゃなかった、私は何か大きな過ちを犯しているのではないかという違和感が拭えなかったのです。本当にこんな感想を持っていいのか?それは私の本心なのか?何かに騙されていないかと?自問自答せずにいられませんでした。そして、どうしてそんな心持ちになってムズムズしなくてはならないのか、その漠とした不安は一体何に起因するのかと頭を抱え、考え込んでしまいました。

 その結果、私は実際に聴く前に、「海道東征」という曲に「こうあってほしい」という願望を抱いていたのだということに気づきました。何しろこの「海道東征」とは、「海ゆかば」の作曲者である信時が、「皇紀2600年」などという 根拠薄弱のでっち上げの国策に乗って書いた紛れもない「御用音楽」であり、当時の日本人をさらなる戦局拡大の支持へと煽り立て、「天皇のために死ね」と天皇への忠誠を誓わせることを目的として書かれた音楽なのです。だから、ただ聴き手を煽り立てるだけの(同時にトンデモ音楽と一笑に付すことのできる)劣悪な音楽であるか、逆に、優れた音楽であるがゆえに警戒心を抱かせるような(例えばワーグナーの「マイスタージンガー」のような)音楽であるか、どちらかであってほしかった。御用作曲家と当時の大日本帝国の犯罪行為を弾劾し、「海道東征」を罵倒し、唾を吐きかけ、こんな音楽は今度こそ本当に闇に葬り去れ!と叫びたかった。それは勿論、私が左翼的な思想の持主だからそう思うのには違いありませんが、でも、この音楽や「海ゆかば」の背後に累々と積み上がった死(日本人だけではなく、すべての戦死者をイメージして書いています)を思うと、「海道東征」という音楽に少しでも好意を示すということはあり得ないことのように思っていました。

 ところが、実際はそうはならなかった。この「海道東征」というカンタータは、そのどこにも、国民を扇動しようとか、一つの思想に染め上げて統制しようとかいった「邪悪さ」を含んでいないように思えた。いや、むしろ立派な音楽であり、たしかに両盤のライナーノートで識者が書いているように芸術的価値は高いんじゃないだろうかと漠然と感じた。ただ、 その一方で、いくら優れた音楽とは言え、こちらが「持っていかれてしまう」ような強烈な魅力なり、魔力を持った音楽という風にも聴こえなかった。そこにあるのはただ厳粛な面持ちで首を垂れ、心の底から敬い慕う存在に、ただひたすら感謝の気持ちを表明する敬虔で無垢な音楽でした。何度聴き直しても同じところにしか辿り着かない。

 何なのだ、この中途半端な宙ぶらりん感は?私はどうすればいい?何を思えば良いのだ?と、聴くたびに激しく自問自答を繰り返すのですが、着地点を見つけることができないまま今に至っています。

 私の中では矛盾した2つの思いが交錯します。こんなに美しい音楽を書く人には、決して日本を破滅へ導こうなどという悪意はなかったのかもしれない。当時の状況を考えれば、信時という作曲家は神武天皇以来の皇家の歴史と伝統をよきものと信じ、「八紘一宇」こそが世界平和をもたらすのだと真剣に考えていたのでしょう。そもそも「海ゆかば」も実は依頼されてササッと仕上げた「お仕事」の曲なのであって、まさか玉砕を象徴する音楽として使われることはまったく想定していなかった(歌詞はの内容は玉砕と結びつけることは容易ですが)。ならば信時潔や北原白秋を戦犯と非難したり、音楽を踏みにじってしまうことなどできない、そんなのはまったく意味のないことなのではないか?そんな風に情状酌量を思う気持ちが私の中にふつふつと生まれてきたのです。
 でも、本来の私の思いも反作用として再び頭をもたげてくる。やはり「海道東征」に免罪符を渡して受け容れてしまってはいけないのではないか?原爆を開発した科学者が、その犠牲者や被爆者に対して結果責任を負うべきという論があるのであれば、大日本帝国の御用音楽を書いた作曲家も、同様に、国歌の犯罪行為に加担した結果責任を問われるべきであり、私たちは情に流されて、それをうやむやにしてはいけないのではないか?私の心の奥底からそんな声が聞こえてくるのです。

 今のところ、私としてはどちらの立場に立つべきかという最終的な結論は出ていませんが、作曲家の「戦争責任」は免れないという基本的な考えは変わらないものの、少なくともこの「海道東征」は、「聴かねばならない」「聴かれなければならない」音楽だという風には思うようになりました。立場がどうであれ、どんなに違和感があろうとも、私という聴き手は、日本人として、クラシック音楽を愛するファンとして、「海道東征」を聴かねばならない、聴き続けなければならないと強く思います。この「御用音楽」をもっとリアルに自分の問題として感じ、その音楽が語りかけてくるもの、あるいは語りかけてこないものに静かに耳を傾け、違和感もろとも、それが一体何なのかを真摯に考え続けなければならないと。そのためにも、「海道東征」はタブー化してはならない、演奏され録音され聴かれ続けなければいけない。誰も避けて通ってはいけない。そう思うのです。

 なぜなら、まず国家と音楽(芸術)のありよう、社会と音楽家の関係について、この曲が私たちに教えてくれることは余りにも多いからです。

 「海道東征」をプロパガンダ音楽と捉えてみます。私たちは他にも同じような宿命をもった音楽を知っています。例えば、馴染みの深いところではショスタコーヴィチのいくつかの交響曲、「森の歌」を挙げることができますが、これらの音楽の背後にある歴史を思えば、国家というのはどのような時に「国策」として芸術を利用とするのか、その国策に乗っかって作品を発表した芸術家が国家と共にその後どのような運命をたどったのか、そうしたことを教訓として得ることは可能だし、教訓として得て未来の行動に生かさねばならないのは自明です。また同じことが、同じ悲劇が繰り返されることは避けねばならないからです。

 もう一つ。芸術家の創造行為と、戦争との関係を私たちは無視することはできない。藤田嗣治の描いたアッツ島玉砕の戦争画とか、ナチスのプロパガンダ映画を作ったリーフェンシュタール監督にも思いを馳せて考えてみるならば、ある種の芸術家は、戦争というおぞましく残酷な行為の向こう側にも、自分の目指す芸術のスタイルなり美のかたちなりを見出し、その中に身を投じて没頭してしまい、芸術的に価値の高い作品を作り上げてしまうことがある、という真実を私たちは忘れてはなりません。そうした人たちの芸術作品を前にした時、受け取り手である私たちは何を思い、何をすべきか、何を誰に主張すべきかを考えるべきだと思うのですが、その材料として「海道東征」は絶好の音楽なのです。

 例えば、このカンタータの第八部にはこんな歌詞(現代語訳を掲載)があります。

古より続く正しい道理があり、
点の世界と、そこから降臨されたこの地の世界を貫いている。
その神々の御性質は悠久であり、
その果てしなさを示す御剣(草薙剣)よ。
さあ御討ち下さい、従わない者共を、
ひたすらに討ち、最後には帰順を。

 :
神の如き天皇としての御威光を遍く広められれば、
地の果てまでも一つの家として治められるでしょう。
(←原文は八紘一宇)
天孫が降臨されたのは遥か久しく、
神々の業は無限であり、
さあその神々の子孫としてこの大和を治め、
御威光を、ますますの繁栄を我等国の民に。


 こうした詩(赤字の部分の穏やかならざる詩!)を心の底から何の疑いもなくまごころをもって書く詩人がいて、それに音楽をつける作曲家たちがいたのです。当時の聴衆は一体どう受け止めていたのかというと、やはり心からの共感をもって受け容れていたに違いありません。
 でも、敗戦による大日本帝国の崩壊と、戦後のまったく方向の違う社会の到来を歴史として知っている私たちは、この曲の生みの親である芸術家と、これを熱狂的に支持した聴衆に対して何を思うべきなのでしょうか。そもそもこの詩にある世界を私たちは受け容れられるでしょうか?当時の人たちにとってはあまりにも当然のこととして受け止められていたことなのだから、私たちにはそれを責める資格はないのでしょうか?間違いだったと指摘することは不可能なのでしょうか?それとも、1940年当時、信時も北原も国民統制や好ましくないと当局に反抗すべきだったと、彼らの能力や正義感、倫理観の欠如を糾弾すべきなのでしょうか?

 それらの問いに対してどう答えるべきなのかは私にはまだ分かりませんが、一つ言えることは、片山杜秀氏がナクソス盤のライナー掲載のエッセイで述べておられるように、この「海道東征」を「国家から強制されて書いた駄作」という視点はいったん捨てて、作曲家が音楽家として目指していたものと、国家が今後向かっていく先とが美しく共鳴しているという事実に目を向け、芸術的価値をもった名作、信時の最高傑作であるという視点から音楽を捉えることが私たち聴き手に課せられた課題であるということです。さらに、これが最も重要なことなのですが、その課題を解決した先で、自分はどう思うのか、何を感じるのかを考えること、分からなければ考え続け、最終的に自分の意見なり感想をきちんと持つべきだということです。

 今後、私たちは、信時や北原、あるいはフジタのような芸術家を、その人たちの作品を目にすることがあるのかもしれません。危険だと思えるような国家の政策に自分の理想を見出し、無批判、無邪気にそこに乗っかっていこうとする人が現れる。それだけでなく、生まれてくる作品が、歴史に名を残し、多くの人に親しまれるような優れた芸術品であるかもしれない。さあ、その時、あなたならどうする?

 この「海道東征」は私にそんな問いを投げかけているような気がします。ですから、否定、肯定という最終着地点はまずは考えず、とにかく聴くこと。それが大事なんだろうなと思います。

 ただし、その場合にも、決してこの曲を無批判に取り上げてはならない。ましてや、一部の動きの中にあるように、日本絶賛コンテンツの一つとしてこの曲を持ち上げ、神輿を担ぐようなことは断じてやってはならないと思います。もっといえば、昨年の秋に大阪で「海道東征」がとりあげられた時のように「海ゆかば」をアンコールとして取り上げ、さらに客席の起立を促すというような復古的な企みは完全に否定せねばならないと私は思います。そんなことをしてしまえば、私たちは、1940年当時の聴衆と同じように、国家や為政者の無謬性を前提に、国の行為を全面的に賛成しなくてはならなくなる。玉砕の報道を「美しきこと」として受け止めて「海ゆかば」を聴いていた人たちと同じ気持ちを持たねばならなくなる。それはしてはいけないことだと私は思います。先年亡くなったドイツのヴァイツゼッカー元大統領の言うように、「過去に目を閉ざすものは現在にも盲目となる」のですから。他の音楽と同様に常に批判的な視点をもって聴く必要があると思います。

 私自身は、ひとりの聴き手として、この曲を聴く時に抱かざるを得ない、「うしろめたさ」を失うことなく聴き続け、考え続けたいと思う。戦中に称賛された音楽を、敗戦後、敗戦国の人間として聴くことのうしろめたさ。国家神道のような明治になって列強に伍すために急ごしらえで作り上げた薄っぺらい思想を掲げて、歴史や伝統を賛美し、「日本のこころ」なるものを歌い上げたというような猛烈な胡散臭さに対して抱く羞恥心。そして、もう一つのうしろめたさとは、私たち日本人が戦争の真実に本当に向き合うことを避け、あらゆることをうやむやにしたままに70年を過ごしてきたこと。歴史修正主義的な動きが保守反動的な勢力の中から生まれ、それが政治のトップたちの言動にも影響を及ぼしているような状況や、昨年の大阪で「海道東征」と「海ゆかば」と並んで取り上げられるような状況を、私はとても恥ずかしいことだと思う。我々は結局のところ歴史から何も学んでいないのではないかと。「いつか来た道」をまた歩もうとしているのではないかと不安になる。
 無論、そうしたことは、「海道東征」という音楽そのものと切り離して考えるべきかもしれません。でも、何しろ、私が生きる日本の歴史に深く関わる音楽なのですから、音楽とその背景は別と涼しい顔をして訳知り顔をすることは、「臭いもの」に蓋をして逃げることにしかならないのではないかと思うのです。だからこそ、違和感も何もかも込みで、この音楽には真正面から向き合い続けたいと思います。私にとっては、恐らく、シェーンベルクの「ワルシャワの生き残り」とかブリテンの「戦争レクイエム」といった曲を聴くこと以上に意味のあることなのです。

 さて、今回聴いた2つの演奏は、どちらもまったく個性を持ったものでありながら、「海道東征」という音楽のすがた、ありようをはっきりと聴かせてくれました。

 湯浅の指揮するナクソス盤では、非常に落ち着いた音の運びの中で絵画のように丁寧に、それぞれの場面が音で描写されています。そのおごそかさは、まさに信時の音楽の最大の特徴を掴んでいることの証だと思います。ただ残念ながら歌手陣の歌が今一つ精彩を欠いていることと(特にアルトの永井、風邪を引いている?)、気真面目さが仇となり、團が酷評したように「教科書通り」で退屈な音楽という弱点を感じさせる点が惜しい。時として大丈夫かと心配になるくらいの緩さ加減に遭遇すると、音楽ののんびりした牧歌調の味わいを感じさせてもらうと同時に、もっと引き締まった、よりドラマティックな表現が必要なんじゃないかという気もする、そんな場面がいくつかあるのです。でも、決して聴き手の血を滾らせ、精神を総動員してしまおうというような邪な思いを感じさせず、ただひたすら音楽の味わいを適切、的確に表現しようという態度には畏敬の念さえ覚えます。

 その点、山田指揮横浜シンフォニエッタの演奏は、劇場感覚に富んだ演奏とでもいうのでしょうか、もっと動的でドラマティックな展開があって、こちらの方が親しみやすく、聴きやすい。歌手陣も湯浅盤よりも安定していていいし、オケから生まれる音楽にも藝大のオケより生き生きとしたものを感じます。どちらが好きかと言われば、恐らく山田盤を選ぶでしょうが、湯浅盤の格調の高い演奏にも捨てがたい魅力があるので、今の私にはどちらの方が良いかという風な結論は出せません。二つの優れた演奏が聴けるのが嬉しい、ということで良いのではないかと思います。

 カップリングで共通する「絃楽四部合奏」も両者には共通の差異があって、静の湯浅盤、動の山田盤という位置づけが適切かと思います。これは歌詞もなく、戦争とは無関係の若書きということもあって、何の留保条件もなく、美しくて、よくできた音楽だと思いますし、時折聴かれる清新な響きに心を打たれます。大正時代、まだ日本に西洋音楽が伝わって来てさほど経っていない頃に、これほどのクオリティをもった曲が書かれたというのは特筆すべきことだろうと思います。同時に、もしも戦争がなければ、この作曲家はどんな生涯を送り、どのような音楽を書いただろうかと胸が痛くなります。歴史に「もしも」は禁物ですが。

 ということで、私にとってはとても豊かな音楽体験を、2枚の「海道東征」の音盤から得ることができました。今感じていることは、最終的にどんなものへと変わっていくのかは分かりませんが、先ほどから何度も書いている通り、これからも聴き続けていきたいと心から思います。この2枚の演奏に関わったすべての演奏家、制作者に対し、一人の聴き手として深く感謝の意を表明してこのエントリーを閉じることとします。


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  • 2017.04.28 Friday
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