Langsamer Satz

クラシック音楽のことなどをのんびり、ゆっくりとお話したいと思います
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【演奏会 感想】ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団演奏会 金子三勇士(P)(2016.07.17 横須賀芸術劇場)
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    ・ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団演奏会 金子三勇士(P)

     (2016.07.17 横須賀芸術劇場)

     

     

     

     

     

     横須賀芸術劇場で開かれたジョナサン・ノット指揮東京交響楽団の演奏会を聴きました。曲目は、前半が金子三勇士をピアノ独奏に迎えたモーツァルトのピアノ協奏曲第20番、休憩を挟んで、後半のブルックナーの交響曲第8番。

     

     モーツァルトは、ピアノ独奏はモダン、オケは編成をぐっと絞ってトランペットとティンパニには古楽器を使用、ヴァイオリンを両翼に配置しつつもピリオド奏法には拘泥しないという、所謂、折衷型スタイルによる演奏。

     金子のピアノは、繊細な弱音から聴こえてくる深い内省と、バスの動きを強調しながら厚い響きを築いて高潮していく逞しい力感が印象的でした。特に前者、中でも第2楽章でのみずみずしく澄んだ響きが心に沁みました。ただ、正直言うと、これでさらに響きのソノリティがあれば(特に強音が硬く薄く聴こえる時があったように思える)とか、長いパッセージの終わりでほんの少し端折り気味になるところがなくなればとか、表現のボキャブラリに豊かさが出てくればという思いはありました。アンコールでのショパンの夜想曲の遺作もそう。でも、彼の音楽が、その若さゆえに放っている美しさは何ものにも代え難いものであることは間違いなく、今後、その美質を保ちつつ、豊かで深みのある彩りを添えていくのを楽しみに聴いていきたいと思いました。
     ノットと東響は、終始早めのテンポで颯爽と音楽を進めながら、細部をおろそかにすることなく、ピッチやイントネーション、楽器間のバランスを丹念に整えてスコアに書かれた音を丁寧に具現化していました。二短調という調性に由来する悲劇性を十分に力感をもった響きで表出しながら、のびやかで自然な呼吸と律動に満たされた幸福なモーツァルトで、音楽の持つ魅力を全方位的に味わわせてくれたところに惹かれました。
     面白かったのは、そんな今風のスタイルなのに、第1楽章第2主題はいつもほんの少しだけテンポを緩めていたところ。それは決して大げさなものではなく、長い音符がそこだけ基本テンポより心持ち長いというくらいの小さなものなのですが、続く細かい音符できちんと元のテンポに落ち着いていくので、まさに人間の呼吸や心臓の拍動のような揺らぎが一瞬生まれて、ありきたりな言い方になりますが音楽が生きもののように振る舞っていました。20世紀初頭に活躍した巨匠指揮者の名人芸とはまったく違う意味で、これもまた名人芸と思えて興味深かった。

     

     20分たっぷりと休憩をとった後は、お待ちかねのブルックナー。第2稿のノヴァーク版による演奏で、チューバをオケ最後列の中央に配し、その舞台下手側の隣にホルン(とワーグナーチューバ)、上手側の隣にトロンボーン、さらにその隣に舞台の壁に沿う向きにトランペット(レニングラード・フィルみたい!)を置くという、普段は見ないユニークな配置に驚きました。当然、弦楽器は両翼配置。

     

     これは、ノットと東響の面々が、前半のモーツァルト以上に、音楽の魅力を全方位的に引き出した演奏だったと言えると思います。だからこそ、演奏が終わってから長い沈黙の後に怒涛のような拍手とブラボーが湧き起こったのだし、オーケストラの団員が全員舞台から去った後も、ノットだけが呼び出されて熱烈なソロ・カーテンコールを受けたのではないでしょうか。

     

     全体的にはどこにも突出したところはなく、聴き終わってもあそこがどうだったとか、ここで何があったとか、細かい具体的な仕掛けを思い出すことさえ困難なくらいに、何一つ変わったことはやっていない、オーソドックス、正攻法、細かいところにまで目配りの効いた丁寧で誠実な演奏でした。しかし、それは中庸の生ぬるいものでも、生真面目なばかりのスクエアなものなどでも決してありませんでした。

     

     冒頭から最後まで、ノットは終始ゆったりとしたペースで音楽を進めていました。第1楽章では音楽が熱してくるとテンポが自然と上がる場面が多かったのですが、それも僅かなもので、特に後半の2つの楽章はインテンポを貫いていて、実に構えの大きな音楽を生み出していたように思います。

     

     そう、「大きな」演奏でした。

     

     私が感じたその音楽の「大きさ」は、19世紀生まれの巨匠指揮者が聴かせてくれた恐竜のような巨大さとか、私が実演に触れることのできた20世紀の「ブルックナー指揮者」による演奏で聴けた壮大さとも違う。

     

     まず響きの質が違う。ノット自身、両翼配置をとっているのを始めとしてドイツ的な響きを目指していると言っているのだそうですが、彼の(金子建志氏的に言うところの)「先振り」の棒のせいでしょうか、オーケストラの響きにはいつもどちらかといえば「軽さ」があります。分厚い響きですべてを塗り潰さないようにロングトーンは注意深く抑え、弦楽器もあまり弓の圧力をかけさせず、速度もやや早めの軽い音を積み重ねて柔らかさを前面に出して弾かせるので、常に内声部が明晰に聴こえます。また、息の長い祈りの旋律では、ワーグナーよろしくネチネチとフレーズを長くとって歌うのではなく、心持ちフレーズを短めにとって、音楽の景色の変化をもう少しミクロな視点で明らかにする。

     してみると、今日の演奏は、ブルックナーの対位法的な音の線の重なりの面白さ、新しさを、過激にならない程度に具現化することに最も力を注いだものだったと言えると思います。そうしたアプローチは決して目新しいものではありませんが、今日のノットと東響のように、そうしたアンチ後期ロマン派的な姿勢をとったまま、ブルックナーの音楽の持つ破格のスケール感、「大きさ」をそのまま感じさせてくれる演奏はさほど多くはありません。

     

     それが可能になったのは、偏に、ノットが「響き」を常に意識しながら指揮していたからだろうと思います。フルトヴェングラーがかつて言ったように、「テンポはそれがどう響くかによって決まる」ということをこれ以上なく正しく実践した演奏であるということです。
     その音が「どう響くか」は、音楽の全体と部分の両方から考えて導き出さなければなりません。鳴り響く音がどのようにしてホールに広がり、次の音とどのように交錯して音空間を生み出し、音楽内部の時間を前に進めていくのか。それを瞬時に決めてオーケストラに示していく。音楽の全体と部分の関係を完全に把握し、両者を統合して音楽の構造の一貫性を保ち、その美しさを磨いていくという、ソフトウェア業界で言うところの「アーキテクト」としての役割を、オーケストラを率いる指揮者としても、聴き手に音楽を伝える表現者としてもきちんと果たしている、だからこそ、このように音楽の「大きさ」をありのままに表現する演奏が可能になったのではないかと。

     

     その「大きさ」とはまた、オープンで、あたたかくて、優しいものでもありました。


     ゆとりのあるテンポの中で各楽器が十分に呼吸したっぷりと鳴らし、それらが響き合って目いっぱいのハーモニーを生み出していく。上から無理矢理引き出した響きではなく、ノットのユニークな指揮棒の動きと同じように、楽団員の腹の底から外へ湧き起こるように生まれてくる響き。特に弦楽器からは多彩な音色が聴こえてきました。中でも、第3楽章で顕著だったように、静謐な祈りの旋律が和声の広がりの中で高潮していく場面では、言いようのないほどの感覚の悦びに浸ることができました。また、金管が咆哮するような場面でも、それは男根崇拝的な勇ましさのようなものとは無縁の、もっと物腰の柔らかい思慮深いコラールを聴くことができました(トランペットが客席をまっすぐ向いて吹くのではなく、オケの内側を向いて吹いていたことも要因でしょうが)。

     指揮者はそれらの響きすべてに耳を傾け、受け止めて、より美しくてより真に迫るものの探求へと導いていく。オーケストラ団員はその懐の深い指揮ぶりに全幅の信頼を寄せ、音楽づくりに最善を尽くそうとしている。そんな両者の幸せなありようが音として立ち現れて私を包み込んでくれたような気がして、それがまた「大きい」という印象を私に与えてくれたのだろうと思います。

     

     このように、ノットと東響のブルックナーは、挙げていけばキリのないほどに、私の心に多くの満足と幸福を与えてくれました。予想を遥かに上回る充実した演奏には大いに惹かれました。多くの聴衆が、私と同じようにたくさんの美質を聴きとり、充足感に浸されていたのも間違いありません。

     

     しかし、私の中では、言い知れぬ何ものかが、今もわだかまりとして残っています。これだけ素晴らしい演奏を聴きながらも、どうして私は100%この演奏に没入できないのだろうか、なぜ完全に音楽の中に溶け込めないのだろうか、という思いがずっと消えなかったのです。理由はあくまで私のごくごく個人的な思いによるもので、それを普遍的な地平にまで昇華することは私の筆の力では不可能なのですが、どういうことなのか記録として残しておこうと思います。

     

     ブルックナーの音楽は、本質的に後期ロマン派の音楽ではありません。ベートーヴェンは言うに及ばずバロックや中世の音楽からの影響の方が濃厚であり、作曲者にとっての未来の音楽を指し示すものも多いからです。ただ、それでもブルックナーの音楽に「ロマン」的な側面があると言えるのなら、それは、「自分がまだ手に入れることのできない、未来も手に入れられないかもしれない何か」を希求する人間のありようから生まれた音楽だからではないかと私は思っています。

     人間の存在の根源を問う形而上学的な問いに対し、最終的にたどり着くべき答えが何か、どこにあるかは分かっている。でも、人間は弱い。神を信じ、天国も信じているけれど、それが本当にあるのか、自分はそこへ行けるのか、ほんの僅かでも心の中に疑いや不安が生じてしまう。疑ってしまった時点で信仰は成り立たない。もしも信仰を失ってしまえば、どうやって生きていいか分からなくなる。

     だからこそ、全音階的な肯定という喜ばしい「答え」にだどりつくことを心の底から憧れ、祈る。どうにかして完全なる肯定、すなわち神の元へと到達できますようにと。祈りつつ、フラフラと覚束ない自己を嘆き、確信を持てないまま、それでも何とか信じる道を歩き始める・・・。

      ブルックナーの音楽の底流には、そんな人間のちっぽけで弱々しい心のありようが常にあるように思えるのです。彼の伝記を読んだりして得た知識によって作り上げた観念かもしれませんが、作曲家として認められない(8番の頃には名声を得ていたとは言え)ことへの不安が彼の中にはあった。そのコンプレックスが肯定への激しい願いを生むのだけれど、それは実際にはなかなか手に入らない。心が重荷に耐えきれずに亀裂が走る。まさにその時、彼の内側で壮大な音楽が響き出す。自己の内にある不安、矛盾や葛藤が大きければ大きいほど、そして、すべてを肯定してくれる神への思いが強ければ強いほど、音楽はとてつもない強度を帯びる。それがブルックナーの音楽における唯一の「ロマン」だろうと私は考えています。


     私がノットと東響のブルックナーの8番の演奏で感じ取りにくかったのは、 手に入らないものへの憧れや、それが手に入らないのではないかという怖れから生まれる「ロマン」であり、「ロマン」を宿した音楽が備えているはずの「強度」でした。あらゆるものが既に手に入っていて、満たされており、肯定への道筋を邪魔するものもほぼない。その代わりにあるのは、世界はこんなにも美しく、こんなに幸福に満ちているとでも言いたげな「現状」の輝かしくも完全なる肯定。

     しかし、あらかじめ手に入ることが保証されているものを喜ぶという考え自体が、私という貧しい人間の中にはないのかもしれません。私自身が、自分は誰からも認められず、この世のどこにも居場所がないではないかという、いささか病的で神経症的な不安や懐疑から、いい歳をした中年になっても逃れることができておらず、ブルックナーの演奏に対して、私と同じ不安や猜疑心と同質のものから発する「ロマン」を求めてしまう。だから、私はその「ロマン」の入り込む余地の少ない音楽に没入できないのかもしれません。


     演奏会前、時間があったので横須賀の港を散歩した時に見た光景の影響もあるかもしれません。

     そこで私が見たのは、自衛隊の潜水艦や軍艦、そして造船所でした。軍艦には旭日旗が掲げられていて、ただちに私の頭の中に「ホルムズ海峡→去年の安保法制の時の国会→南スーダン」という連想が生まれ、つい先日のニュースで見た南スーダンの激しい戦闘のことを思い、この軍艦たちが実戦で使われることがありませんようにと祈るような気持ちで眺めていました。
     軍艦の近くで、水鳥が呑気そうに泳いでいました。ぼんやりその姿を見ていると、ヤツは海面下に潜って魚を捕まえたりしながら日々の生活を静かに続けています。「おい、お前、その横にあるのは軍艦だぞ!」と思いつつ、ああ、この鳥たちは、近くに軍艦や潜水艦があってもその存在を否定することもなく受け容れ、共存しているのだという、呆気ないほどに当たり前のことに気づきました。ここでは自分が生活していくには何も困っていないのだから、水鳥は、軍艦がたとえ外国でどんなことをしようが関係せずにいられるのでした。
     海から今度は公園に目を向けてみました。そこは花壇があって、バラがたくさん植えられていました。いま、ちょうど花がきれいに咲いていて見頃になっていました。この花たちも当然、自分の近くに何があるかは知らない。近くを通る人たちが誰かも知らない。ただ「置かれた場所で咲いている」だけです。
     この水鳥や花たちのように何もかも受け容れて生きていければ幸せかもしれないと思いました。けれど、目の前の軍艦や潜水艦を改めて見て、私にはそれはできない、いや、同じではいけないんじゃないかという考えに行き着きました。一見平和そうな光景の裏にある「戦争」に思いを馳せ、「決して手に入らないもの」「手に入らないかもしれないもの」を、心の底から希求し続けていかねばいけないんじゃないかと思ったのです。そう、ロマンを失ってはいけない、と。 

     その思いが、演奏の間じゅう、私の頭の中から消えなかった。ノットと東響の演奏する「ロマン」の希薄な満ち足りたブルックナーを聴いていると、あの水鳥と花の姿がフラッシュバックしてきて、「ロマンを失うな」という警告が耳鳴りのように響く。その心地良い世界に無防備に浸ってしまうことへの後ろめたさが湧き起こり、心の動きに自分で歯止めをかけてしまった。だから、これほどまでに充実した音楽を聴きながらも、結局のところその演奏に心を奪われることはついぞなかった。

     

     つまるところ、その演奏の中に、ブルックナーの音楽の中に私が聴き取りたかった「ロマン」を見出すことができず、私自身の居場所を見つけることもできなかったということです。音楽にただ自分が聴きたいものだけを聴きとろうとすることは間違っているのかもしれませんが、「ロマン」の欠落を埋めて余りあるものは、私には最後まで見つけられなかった。

     そんな宙ぶらりんの行き場のない思いが、前述の「言い知れぬ何ものか」の正体だろうと私は考えます。音楽とは何の関係もない思いから発生した、ごくごく私的で、未昇華で、それこそ「お花畑的な」おめでたい不満にしか過ぎませんし、ブルックナーの音楽に対する誤解、ノットと東響の演奏に対する誤解が幾重にも積み重なってできた説得力のない歪んだ感じ方に違いありません。横須賀芸術劇場を埋め(と言っても6〜7割くらいの入りでしたが)熱烈な拍手を贈った聴衆の中にあって、私は単なるヘソ曲がりに過ぎないし、きっと賛同してくれる人もいないでしょう。でも、私がこの演奏にのめり込めなかったのは事実なので、記録として残しておきます。

     

     そんな戯言はともかくとして、ノットと東響の演奏を聴いたのは、就任披露会でのマーラーの9番を聴いてからようやく今日で二度目ですが、彼らの共同作業は着実に豊かな実りを生み出し始めていると思います。皮肉でも冗談でもなく、今後も彼らの演奏を聴き続けていきたいと心から思いました。

    | nailsweet | クラシック音楽 コンサート | 03:31 | comments(1) | trackbacks(0) |
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      初めまして。
      昨日の演奏会を聴きに行った者です。
      なかなか良い演奏会だと思ったのですが、オケのコンサートに行き慣れていないので、貴ブログの感想を読んで何だか安心しました。
      在京オケのレベルが上がっていることをとても感じ、楽しかったです。

      他の記事も楽しく読ませていただきました。
      | ねこ | 2016/07/18 9:18 AM |









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