スポンサーサイト

2019.08.15 Thursday

0

    一定期間更新がないため広告を表示しています

    【演奏会 感想】エリアフ・インバル指揮東京都響 第814回 定期演奏会Aシリーズ(2016.09.15 東京文化会館)

    2016.09.20 Tuesday

    0

      ・エリアフ・インバル指揮東京都響

       第814回 定期演奏会Aシリーズ
       〜インバル80歳記念/都響デビュー25周年記念〜

       アンナ・ヴィニツカヤ(P)

       (2016.09.15 東京文化会館)

       

       

       

       

       

      <<曲目>>

      ・グリンカ/歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
      ・プロコフィエフ/ピアノ協奏曲 第2番 ト短調 op.16

      ・チャイコフスキー/「四季」から4月
      ・バルトーク/管弦楽のための協奏曲 Sz.11

       

      ---

       

       エリアフ・インバル指揮東京都響の演奏するバルトークの「管弦楽のための協奏曲」を聴きながら、しみじみと理解できたことが一つあります。


       それは、私は音楽に「自分が聴きたいもの」を求め、聴いているのだということ。特に、既知の音楽や演奏家に接する場合には、「自分が聴きたいものだけ」を求めてしまう。要するに先入観をもって音楽を聴いているということに他ならないのですが、そうしたものがあるからこそ、音楽を主体的・能動的に聴くことができるので、そんなに悪いことだとも思わずに音楽を聴いてきた。もう何年も。

       

       どうしてそんな自分の音楽への向き合い方を改めて「理解」したかというと、インバルと都響の演奏するバルトークから「自分が聴きたいもの」を聴き取れたからではありません。逆に、それが聴き取れなかったからでもない。実は、私自身がバルトークのオケ・コンに対して「聴きたいもの」を持っていないということを、今回の演奏を通じて「理解」したのです。

       「自分が聴きたいもの」がなければ、「自分が聴きたくないもの」が聴こえてくるのかというとそうでもない。それなりに面白い音はたくさん聴こえる。第3楽章には胸を打つ旋律もある。心地良い興奮を覚える部分もある。
       だけれど、私はこの曲に何も求めるものを見つけられないのです。受け身で聴いてしまうと、音楽が、耳を、身体を、心をどんどん通り過ぎていってしまう。それではもったいないので、自分が聴きたいものが、どこかにあるのではないかとその欠片を探しているのだけれど、いつどんな演奏を聴いても残念ながら見つからない。
       これが未知の曲であれば、次の展開がまったく読めない状況で、自分の居場所、あるいは心地良い視点を探すスリルがあるのだけれど、既に長いこと何度も聴いてきた曲なので、新鮮な気持ちになんてなかなか戻れない。


       インバルと都響の演奏を聴いて、私はそのことを強烈に自覚したのでした。途端に私は不安に陥り、どのように身を置いて音楽を聴けば良いのか分からなくなった。きっとこれは「良い演奏」に違いないのだろうけれど、インバルが指揮するマーラーやブルックナーの交響曲などでいつも得ることのできる「自分が求めていたものを、それ以上のかたちで得られた」という実感は、一度も感じられないままでした。一体、これは何なのだろうかと40分間、自分の居場所を探しながら結局のところは見つけられないまま終わってしまったというのが正直な感想でした。細部まで漏らさず厳しく彫琢する緻密さと、音楽の全体像の広がりや奥行きを感じさせる大らかさの共存した「管弦楽のための協奏曲」の演奏を聴きながら、私はかえってこの音楽と自分との「距離」−それもあんまり好ましくないものですが−、つくづく思い知らされたのでした。

       

       それは決して作曲者や演奏者の非でも瑕疵でもなく、私という聴き手の凡庸さ、素質の欠如を露呈した感想に過ぎませんが、この演奏を通して、私がインバルという指揮者に対して何を求めているのかということが、逆説的にですが、少し分かった気がします。

       

       つまり、私はインバルの音楽から「カタルシス」を得たいと願っているのでした。そのカタルシスとは、たとえば救いようのない凄惨なカタストロフ(破局)を迎えてもなお、その後、心に何がしかの浄化をもたらすような表現がなされたときに得られるもの。 

       例えば、彼がライフワークとして取り組んでいるマーラーの交響曲の演奏では、この世の終わりとも言うべき黙示録的な悲劇、自分自身や愛する存在を葬る個人的な悲劇の後には、必ず、肯定、あるいは肯定への激しい願いが放射されて曲を結ぶ。いつもどこかに「生きよ!」というメッセージを聴き取ることができる。インバルの指揮する演奏では、その「自分が聴きたいもの」を聴いたという体験、あるいは、そんなものをはるかに上回る凄いものを聴いたという成功体験が多いので、いつも前のめりになって音楽を聴く。そうすることによって、私は、インバルの音楽と「出会う」ことができる。

       

       しかし、そもそもその音楽にそうした「カタルシス」への道筋が用意されていない楽曲の演奏を聴いたときには、私は作曲家とも、愛するインバルの音楽とも出会えないまま終わってしまう場合がある。今回のバルトークのオケ・コンがまさにそれだったし、今年の3月に聴いて何とも消化不良に終わってしまったショスタコーヴィチの交響曲第15番の演奏もそう。ショスタコーヴィチの場合は、その「カタルシス」は作曲家自身の手によって完全に宙ぶらりんにされていると思っているので、インバルのアプローチとはすれ違いが生じて、あまり音楽にのめり込めなかった・・・。


       それでも一か所だけ、強烈に印象に残った部分があります。それは第3楽章「エレジー」の34小節からしばらく、ヴァイオリンが痛切な旋律を奏でる部分。ここだけは、インバルのエスプレッシーヴォな歌を聴くことができて胸を打たれました。特に45小節からのくだり、低い音域から上昇して表現の強度を徐々に増していくあたりはほんとうに美しかった。インバルの音楽の真骨頂は、こうした部分で聴かせるカンタービレにこそあって、これこそが、救いようのない破局と、癒しと再生への激しい希望との橋渡しの役割を担っているような気がしました。

       

       ですから、何だかよくわからないまま終わったとは言いつつも、その「エレジー」を通して、インバルという指揮者の私にとっての「本質」が見えたというだけでも、今回は聴く価値が大いにあった演奏だったと言えます。もうそれだけで十分に満足です。

       

       都響の演奏は素晴らしかった、と思います。各奏者の技量の高さ、指揮者との濃密なコミュニケーションもあって、いちぶの隙もない、目のつんだ音楽が聴けたというだけでなく、いつもオケ側にある種の「ゆとり」が感じられたのがいいなと思いました。私が大学生の頃の在京オケなら「熱演」でしか私たち聴き手の心を打つことはできなかったと思いますが、いまの都響(だけじゃないですが)は、もっとそれ以外の部分で音楽の味わいを感じさせてくれ、楽しませてくれる。
       それだけ「醒めた」演奏だったのですが、バルトークの音楽を、脳味噌筋肉状態、あるいは、学園ドラマやスポ根ドラマ系熱演で、熱気で沸き立たせてしまうと、風味が落ちて不味くなるのも間違いないところで、私はこの「クールさ」を歓迎します。
      ただ、それでも自分はこの曲に何を聴くべきか分からないなどとほざいているのですから、まったくもって何と理不尽な感想を書いているのでしょうか。

       

       プログラムの前半は、グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲と、アンナ・ヴィニツカヤを独奏者に迎えたプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番が演奏されました。

       

       プロコフィエフが面白かった。ヴィニツカヤの、重量感がありつつ推進力を失わない独特のスピード、ダーク系の沈んだ音色が私の好みでした。プロコフィエフの音楽が持つ独特の透明感と軽み、あるいはシニカルな攻撃性といった要素は少し背後に押しやられていましたが、その代わりに、どこかにカタストロフの予感を孕んだ悲劇的な音の運びが魅力的で、それこそインバルと都響の演奏との相性がとても良かった。第1楽章で聴かせてくれた長いカデンツァでの真摯な音楽は特に印象的でした。インバルと都響の演奏も、ピアノ独奏にぴったりと寄り添う協調ぶりがとても好印象でした。

       ヴィニツカヤはアンコールで、チャイコフスキーの「四季」の4月を弾きました。こちらも、憂いと翳りを含んだ音色と歌に惹かれました。彼女の演奏はこれまで聴いてきませんでしたが、大失敗でした。完全な見落とし、聴き落としでした。遅ればせながら、彼女の演奏に注目したいと思います。

       

       オープニングの「ルスラン」は、テンポも中庸、何にも変わったことをせず(チェロとヴィオラの第2主題が2回目をエコーにしていたくらい)、正攻法の堂々たる演奏でした。考えてみると、これまで彼の振るこうしたポピュラー名曲というのはあまり聴いてこなかった気がします。どちらかというと規模が大きくて、複雑な音楽でこそ持ち味が発揮できる指揮者という印象でしたし、本人もそういう音楽を取り上げる頻度が高かったと思います。ですから、彼の振る「ルスラン」を聴けたというのはかなり貴重な体験。でも、今後、彼の振るポピュラーコンサートなんてのも聴いてみたいなという気もします。インバルの振る「軽騎兵」とか「ファランドール」、「愛の挨拶」、「花のワルツ」なんて、一体どんな演奏になるのか興味は尽きない。


       さて、私にとってのインバル月間(この後彼は大阪フィルと初共演)は、今日(20日)のショスタコーヴィチの8番ほかで幕を閉じます。一体、どんな体験を得ることができるのか、楽しみです。どうか台風の上陸が遅れますように。

      スポンサーサイト

      2019.08.15 Thursday

      0
        コメント
        コメントする
        トラックバック
        この記事のトラックバックURL