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    【演奏会 感想】エリアフ・インバル指揮東京都響 第815回 定期演奏会Bシリーズ(2016.09.20 サントリーホール)

    2016.09.21 Wednesday

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      ・エリアフ・インバル指揮東京都響

       第815回 定期演奏会Bシリーズ
       〜インバル80歳記念/都響デビュー25周年記念〜

       オーギュスタン・デュメイ(Vn)

       (2016.09.20 サントリーホール)

       

       

       

       

       

      << 曲目>>

      ・モーツァルト/ヴァイオリン協奏曲第3番ト長調 K.216

      ・ショスタコーヴィチ/交響曲第8番

       

      ---

       

       ショスタコーヴィチの交響曲第8番、第3楽章の有名なトッカータ風の主題を都響のヴィオラ奏者たちが弾き始めた瞬間、私は目を疑いました。

       

       彼ら彼女らは何と全部の音符をダウンボウ(下げ弓)で弾いているのです。しかも音量はマキシマム、テンポもこれまで聴いてきた演奏の中でもトップクラスに早い。指揮者のインバルは手綱を緩めることなく、いや、それどころかむしろテンポがアップしているのではないかと感じるくらいに、オーケストラを非情なまでの無窮動へと駆り立てる。そう、この楽章の最後の決定的なカタストロフへと、まっすぐに、確実に、そして全速力で落ちていくかのように!

       

       何なのだこれは!?と思いました。指揮をしていたエリアフ・インバルは、これまでもマーラーの交響曲でそれまで誰もやらなかったようなグリッサンドを頻出させたり、最近では第9,10番のクライマックスでフリーボウイングをさせたり、特に弦楽器にはユニークな(そして過酷な)奏法を要求することで知られていますが、ショスタコーヴィチでそのような場面を目撃するのはこれが初めてだと思います。

       もっとも、ヴィオラ奏者たちが信じられないような演奏をした後、主題がヴァイオリンに受け継がれるとさすがにボウイングは普通(ダウン、アップが交互)になっていました。また、ヴィオラが弱音器をつけて同じ主題を再度弾く時も普通の弓順でしたから、なおのこと、3楽章冒頭の異様な光景は、聴き終わった後も強烈な印象が残っています。

       

       しかし、それはほんの話のネタに過ぎません。今日、サントリーホールで聴いたインバルと都響のショスタコーヴィチの交響曲第8番は、「これぞインバル!」と快哉を叫びたくなるような、凄絶極まりない演奏であり、先日のバルトークの感想を書いたエントリーで記したような、聴後に大きなカタルシスを得ることのできる演奏でした。

       冒頭こそ少し遅めのテンポをとり、音量も少し抑え気味にして、重戦車のような威圧感よりも、透明な哀しみをたたえた響きを作っていたものの、その他は一貫して早めのテンポで音楽の内奥へと激しく斬り込んでいく。その切れ味の鋭さ、抉り方の容赦のなさといったら、言葉がないくらい。両端楽章の頂点、そして第3楽章の頂点へ向かっていくプロセスは何という狂気の表現だったことでしょうか。
       それら3つの楽章では、音楽は破局の一点に向かって凝縮していく。音楽が白熱の度合いを強めれば、さらにアッチェランド気味にテンポを上げて、表現の強度を高めていく。ホールの中が圧力鍋の中のように(金子建志氏の言葉が出典)ぐんぐんと気圧が上がっていく。そして仮借ない暴力的な金管の咆哮と打楽器の連打がついに頂点に達してカタストロフへと一直線へと突き進んでいく。
       その後にはもう何もない。極寒のシベリアの地、戦争の焼け野原、グラウンドゼロ、あるいは津波ですべてが流された被災地、そんな景色が目に浮かぶような荒涼たる音楽。

       

       この交響曲は、私はこれまでも何度となく接して来たはずですが、そのカタストロフのすさまじさゆえに、インバルと都響が聴かせてくれた「その後」の音楽からは、喪失の痛みの大きさになすすべもなくへたりこんでしまうような無力感と、もう生き残っているのは自分だけなのではないかという、ひりひりするような孤独感を感じずにいられませんでした。例えば、第1楽章末尾のコールアングレの詠嘆、第4楽章パッサカリアの行き場のない絶望が、これほどまでにリアルに刺さったことはかつてなかったような気がします。
       だからこそ、第5楽章のコーダで、原爆投下された広島や長崎に花が咲き、新たに生命を享けた赤ん坊がハイハイするかのような、血の通った音楽が流れ出た時、はらわたがちぎれんばかりの悲劇が、最後には私の心、魂を浄化して、それでもこの世界で生きていくのだという決意と、きっとこの先には何か善きものが待っているはずだという希望が私の心の中に芽生えてくる。

       そのカタルシスこそが、私が「インバルの音楽に求めるもの」に違いない。それを今回のショスタコーヴィチの交響曲第8番の演奏で、存分に味わうことができた。バルトークの時に、自分の聴きたいものだけを聴き取ろうと前のめりになって聴いてしまい、音楽を楽しみ損ね、味わい損ねた経験をしたばかりなので、今日は、自意識をできるだけ消し、全方位的にその音楽を感じてみようと企てて聴き始めました。しかし、私が求める「インバルの音楽」が、そこにものすごい強度をもって立ち現れたので、ちっぽけな企ては捨て、「私が聴きたかった音楽」に心ゆくまで浸りました。

       

       インバルという人の存在を、指揮者・音楽家という枠を超え、芸術家として痛切に実感しました。あるいは、かつてバーンスタインが大阪でマーラーの9番を振った際に吉田秀和氏が評したように、「まるで司祭のよう」と表現してもあながち間違いではないのかもしれない。とにかく、ただ音楽を外側から整えて作り込んでいくだけでなく、人間の存在の根源から生まれる何ものか、真実と呼びたくなるようなものを創造せずにはいられない真の芸術家、シャーマンとして私の目には移りました。
       そんなインバルの指揮の下、都響も最善を尽くそうとしていました。よくぞこんなにも仮借ない指揮者の要求を呑み、こんなにも立派に音にできるものだなあと感服しました。特に透き通ったエメラルドの海のような弦楽器の響きは純度が高くて美しかった。管楽器もソロ・アンサンブルともに、常に余裕をもって吹きながらも、痛切な響きを一切失わないあたり、素晴らしかった。そして、打楽器の冴えた強打も、いくら称賛してもし尽せない。
       ただ、正直なところ、アンサンブルの精度、音程の精度(特に最終楽章コーダの和声)だとかに望みたいものはあります。そして、クライマックスでの音量や音圧だってもっと上がっても良いと思います。贅沢でしょうけれども。

       

       しかし、それでも、今日のインバルと都響のショスタコーヴィチは、客観的に見ても素晴らしいものだったのだろうと思いますし、何より私が本当に求めていた音楽を聴くことができたので、かけがえのない聴体験を得ることができて私はとても幸せです。

       

       演奏会前半の、名手オーギュスタン・デュメイを独奏者に迎えたモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番も、実はショスタコーヴィチに負けず劣らず素晴らしい。
       デュメイは私の大好きなヴァイオリニストですが、実演を聴くのはたぶん20年ぶりくらい(前回は東響とのブラームスの協奏曲)。私の愛聴盤である彼のモーツァルトのヴァイオリン協奏曲のCD(DG盤)からも随分と時間が経ちますが、あの麗しい美音は健在。指揮者としての経験が物を言うのか、オーケストラとの室内楽的な一体感を作りながら、親密さと高貴さの両方を併せ持った演奏を聴かせてくれました。デュメイはヴィブラートは存分にかけて美音を振りまき、オケ側もいささか古風で味わいのある響きをめざしつつ、音楽は決して新鮮さを失わない。
       インバルと都響のサポートも含めて、達人の域へとたどり着いた人たちの音楽だったと言い切りたいと思います。特に第2楽章の清々しいリリシズムと、純白の響きは美しかった。両端楽章のウキウキした愉悦の中で、ふっくらとしたオケの響きに包まれたデュメイの美音がホールに満たされるのを感じることの何という幸せでしょうか。いつまでも終わってほしくない音楽でした。
       デュメイのアンコールはありませんでしたが、これほどに集中した音楽の後では、それも仕方のないことなのかもしれません。

       

       ともあれ、素晴らしい演奏を聴きました。来年のインバルと都響は何を聴かせてくれるのでしょうか?心から楽しみにしています。

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