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【映画 感想】「この世界の片隅に」

・映画「この世界の片隅に」

 原作:こうの史代 監督:片渕須直 

 声の出演 能年玲奈ほか

 →詳細はコチラ(公式HP)

 

 

 

 

 

 

 

 映画「この世界の片隅に」を見ました。こうの史代原作の漫画を、片渕須直監督がアニメ映画化したもので、声優として能年玲奈(敢えて本名で記します)が出演しています。

 

 舞台は、第二次世界大戦前後(1932-1946)の広島と呉。広島の江波という街に生まれ育った浦野すずは、1944年、呉鎮守府に務める北條周作と結婚します。二人は子供の頃に出会っていたのですが、すずの名を覚えていた周作が、大人になって彼女を探し当て娶ったのです。すずは、周作の求婚を受け、呉にある彼の実家に移り住み、彼の両親と、周作の姉・徑子とその娘の晴美と、六人で、ささやかな生活を営んでいました。しかし、何と言っても日本は戦争中。配給も不安定で食糧は常に不足し、さらに、軍事施設を抱える呉への空襲は日ごとに激しさを増していきます。そんなある日、呉を襲った大空襲で彼女は大切なものを失い、そして、運命の8月6日がやってくる・・・。

 

 この映画は、例えば、黒木和雄監督の「紙屋悦子の青春」や、新藤兼人監督の「一枚のハガキ」(どちらも両監督の遺作ですが)がそうであるように、戦時中の日本を舞台にしたものでありながら、戦争そのものは直接的に描かれていません。勿論、呉の空襲の場面はありますが、いわゆるニュース映画的な戦争の場面は最小限で、歴史上の人物も誰も出てこない(例外は、玉音放送で声が聞こえてきた昭和天皇の”声”くらい)。人が死ぬ場面、戦争の残酷さ、悲惨さを強調するような場面も、ほとんどない。この映画の中で一番哀しくて辛い場面でさえも、現実の悲惨さは、アニメ的な表現として巧みに抽象化されている。ただただ、日記のページをめくるように、戦時中を生きた人々の日常を描いた物語が、静かに、淡々と進んでいきます。

 

 その「静けさ」こそが、この映画の最も大きな特徴なのではないでしょうか。映画を見終わった後も、私の目に一番強く焼き付いているのは、呉の山間にある田園地帯の長閑な日常生活の風景であり、この物語に登場する人たちの立ち居振る舞いです。そして、彼女ら彼らの発したいくつもの言葉が耳に残ります。どのシーンにも、いつも「戦争」が暗い影を落としているのは間違いないのですが、既に映画を見た多くの人がSNSで発言しているように、「戦争反対」と声高に叫び、反戦の思想を受け手に強要する映画では決してない。

 

 すずを始めとする映画の登場人物たちは、戦争中の過酷な状況でも、最低限の衣食住は確保して生き延び、時には冗談を言い合い、笑い、抱き合い、感情をむき出しにしてぶつかり合い、たしかに生きていました。それは戦争が始まる前からずっと皆が続けていたことだし、戦争が終わった後の廃墟の中でも変わらず続けていること。そうした日常生活が前景となってスクリーンで繰り広げられるので、港に停泊しているおびただしい軍艦と軍事施設も、呉の山の上にある砲台も、あるいは、空襲を受けて焼け野原になった街や、時代の暗部を象徴するような闇市の景色も、どこか遠い世界にあるもののようにさえ思えて、リアリティがない。

 

 つまり、この映画は、やさしく、柔らかいタッチで彩り豊かに描かれた美しい絵と、音楽をむやみに使わない静かな音、能年玲奈をはじめとする声優たちの穏やかな声によって、心を込めて、丁寧に、そして緻密に描かれた、戦時中の「暮しの記録」と言って良い気がします。時々、ふと笑いがこみ上げてくるような場面さえあって、私を含め、客席から笑い声が聞えてきた箇所もいくつかありました。先ほど挙げた「紙屋悦子の青春」「一枚のハガキ」以上に、ホッと心が和むシーンがあったのです。

 

 しかし、そのことが、むしろ、終戦間際、すずとその家族を深い哀しみの淵に追いやった空襲、すずの生まれ故郷である広島への原爆の投下、そして直後の終戦といった「歴史上の出来事」、凄まじい破壊力をもったリアリティをもった「現実」へと変容させます。名もない市民の手によって、黙々と、脈々と、たくましく生み出されていた、連続性をもった「歴史」が、どのようにして突如断ち切られてしまったのか、何が失われてしまったのか、そして、終戦を経ても何が残ったのかが、痛切な実感を伴って感じとることができるからです。

 その意味で、この映画は、戦争という、複雑で、奇怪で、暴力的で、悲惨な歴史を、ただひたすら、すずという女性とその家族、呉の人たちの目線から見た、一種の「マイクロヒストリー」であるとも言えます。

 

 この、どこかメルヘンチックで、手をかけて作られたであろう上質のアニメーションが、こんなにも戦争というものをリアルに描き、私に自分のこととして追体験させてくれるなどとは、見る前にはまったく想像していませんでした。アニメだからと馬鹿にしていた訳では決してありません。ただ、映画のポスターや、「オーバーフェンス」を見たときに予告編で接した、あの可愛らしいすずの表情や、少しだけ垣間見たやわらかな映画のタッチという視覚情報の質感からは、私がこの映画で体験できたものをあらかじめ予想することができず、両者のギャップの大きさに驚いたのです。

 

 映画を見て、私が一番、激しく胸を打たれたのは、玉音放送を聞き終わった後のすずの慟哭のシーンでした。彼女は、日本が敗けたと知り、たまらず家から駆けだし、這いつくばり、握りこぶしを地面に叩きつけながら、「今まで耐えて暴力に抗ってきたのに、国はこんなにも簡単に暴力に屈するのか!」というようなことを叫び、号泣します。そこで、彼女の流す大粒の涙と、叫び声がつきつける現実の重さに、思わず悲鳴を上げそうになりました。

 

 

 

 呉の空襲でかけがえのない存在を失い、自らも深い痛手を負ったすずの、このときの心境を慮ると、それこそ映画冒頭で流れてきたザ・フォーククルセイダーズの名曲「悲しくてやりきれない」(歌はコトリンゴ)の二番の詞を呟かずにいられなくなります。

 

白い雲は 流れ流れて
今日も夢はもつれ わびしくゆれる
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
この限りない むなしさの
救いは ないだろうか

「悲しくてやりきれない」詞:サトウハチロー 曲:加藤和彦

 

 当時を生きた人たちは、敗戦をそれぞれの思いを抱いて受け止めたに違いありませんが、恐らく、誰もが「限りないむなしさ」を感じてやりきれない思いをしただろうし、このまま救いなどはあるだろうかと不安に思ったに違いない。日本は勝つと信じていたのに騙されたと怒りに震える人もいただろうし、死んでしまった人たち、遠い土地で生死も分からない人たちのことを思ったでしょう。「今までの苦しみはいったい何だったんだろう、何のために、誰と戦っていたんだろうか」というむなしさに肩を落としていたに違いない。勿論、ああ、これで戦争が終わった、もう空襲もないと安堵したという気持ちも同時に湧き起こったでしょう。

 

 すずは、戦時中、苦境にもめげず懸命に自らの暮しを守ろうとする呉の人たちを見て、「私もこの人たちのように強くなりたい」と呟きいていました。そうして自分の大切にするものを、ただ無言で、守り抜くこと、それが自分たちにとっての戦争であり、戦争という暴力への反抗なのだと彼女は言います。

 

 吉田健一の有名な言葉を思い出します。

「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである」

 

 すずたちは、まさにこの吉田の言葉を、必死になって実践していたのではないでしょうか。確かに、彼女らは貧しくて、食べ物もなかった。その暮しは、決して美しくもなかったけれど、彼女はなんとか美しくあろうとし、それを手放すまいと、必死で日々を過ごした。

 しかし、それでは、愛する人たちを守れなかった。自分自身さえも守り切れなかった。国は、自分たちの戦いを見棄て、簡単に降参してしまった。こんな苦しみを味わうくらいならいっそ死んでしまいたかったのに、死ねなかった自分たちの思いは、どう落とし前をつければいいのか。すずの胸に去来したのはそんな思いだったんじゃないかと私は想像しました。

 

 とあるシーンで、周作はすずにこんなことを言っていました。「過ぎたこと、選ばなかった道は、醒めて終わった夢と同じ」と。もしあの時、こうしていればとか、考えても仕方がない。それは夢でしかない。だから、今、選んだ道を生きていくしかないのだという意味なのだと思います。また、周作の姉の徑子は、深い哀しみをいやというほど味わい尽した後で、「これも自分が選んだ道」と、達観したかのように言います。

 

 当時の人々は皆、そうやって、辛くて苦しくて哀しい時代を、自らが選んだ道だと言い聞かせ、歯を食いしばり、ただひたすら運命を受け容れ忍従していたのでしょう。去って行った人たちのことを思い、涙に暮れながら、「こんな時代だから」「これが運命なのだ」と自らを慰めていた。

 そんな運命の受容の根底にあるのは、ヴォルテールの「キャンディード」で痛烈に批判されていた、ライプニッツの唱える「神のなすことは、どんなことであれ、すべては最善である」という楽天主義なのかもしれないとも思います。これだけ辛い時代を生きる羽目になっても、「これは自分が選んだ道」だと受け容れるのは、何の罪も犯してはいないのに、どんなにひどい目に遭わされても、それは神の思し召しなのだから最善なのだと考える「キャンディード」のパングロス博士の姿勢と通じるものがある。

 

 どれほどの痛みや苦しみ、哀しみが心に鬱積していただろうかと思います。だからこそ、余計に、あっけないほど簡単に日本が敗戦してしまった(勿論、その裏ではたくさんの命が犠牲になり、苦渋の決断があって、決して簡単に敗けたのではないことは事実ですが)ことに対して、多くの人が、まさにやりきれない思いを抱いたのではないか、そんな気がするのです。

 

 何をやっても、誰も何も守れない。ただ運命を受け容れるしか生きる術がない。ならば、私は、そもそも戦争には反対しても仕方がないと諦めるしかないのでしょうか?それとも?

 

 「この世界の片隅に」の映画からは、私の中ではそんな「問い」が湧き起こりました。この世界の片隅に、やっとの思いで見つけたかけがえのない自分の居場所を、戦争中も、健気に、必死に守った人たちの「美しい物語」として、無防備に消費してしまって良いのかという疑問とともに。

 

 私自身は、「各自の生活を美しくして、それに執着する」ことはやめてはならないと思う。一つ前の連続テレビ小説「トト姉ちゃん」のモデルの一人である花森安治が、「一人一人が日々の暮しの大切さに気づいていたら、戦争は止められたかもしれない」と言っていたように、自分たちの「暮しを守る」ことの重要性をもっと重く認識すべきではないかと思います。

 でも、ただ、生活に執着していればそれだけでよいという訳ではない。我々自身、他にもやらねばならないことがある。暴力に黙って忍従するのではなく、自分たちの生活を脅かすものに対しては、自分たちの思いはちゃんと声に出して主張し、抵抗すべきだと思います。

 勿論、そうしてもなお、暴力に抗うことは難しいのかもしれません。でも、忘れてはいけないのは、「この世界の片隅に」で描かれたリアリティは、2016年を迎えた今でも、世界のどこかでリアルなものとして現前しているという辛い現実です。シリアで、南スーダンで、すず達と同じような境遇に遭い、哀しい思いを胸に、何とか生きている人がたくさんいる。そのことを、私たちは、「こんな時代だから」「それはあの人たちが選んだ道だから」と突き放して考えることはできない。争いの中で日々生命の危険を感じながら生きている人たちに思いを馳せ、すずと同じような哀しみを抱く人が出ないようにするには、今の私たちが営んでいる日々の生活を守るためには、私たちは何をしなければならないのか、何が難しくて何が無理なのかをはっきりさせないとな、と思います。

 

 とは言え、そうした思考はあくまで映画を見て一週間近く経った今だから思うこと。映画を見ているときは、ただただ、いじらしいまでに健気に生きようとするすずたちの美しさに胸を打たれ、それが踏みにじられてしまったことの哀しさ、悔しさにやりきれないものを感じていたというのが正しい。
 それは、私にとって、感動したとか、良かった、という言葉で表現するには、余りにも辛く重い体験でした。でも、私なりに、戦争という歴史を、一時期の「点」として見るのではなく、その前後に連続して流れている時間軸という「文脈」の中で、生々しい現実として感じることができたのは、本当に大きな体験だったと言えます。この映画を見ることができたのを幸せに思うし、こんな映画が今の私たちの時代に生まれたことを誇りにさえ思いました。

 

 声優を務めた能年玲奈の声は、まさに「すず」そのものでした。8歳の少女時代から、結婚して、戦争を生き抜く女性の内面を、あっけにとられるほど自然に、声ですべてを表現しきっていて、やはりこの人は、その存在自体がとてつもない「原石」なのだと実感しました。私のような素人には想像もつかないような大人の事情はあるのでしょうけれど、それが本名なのですから、堂々と「能年玲奈」という名前で、そのかけがえのない原石の輝きに磨きをかけさせてあげたいと心から思います。

 

 今年見た映画、いや、これまで私が見た映画の中でも、特に印象深い、そして何度も見たくなるものでした。私自身、人に自分が心を動かされたものを「おすすめ」するのはあまり好きではないのですが、友人や家族にぜひ「おすすめ」したいです。そして、見に行くならハンカチ忘れないようにねと一言付け加えたい。私自身、あろうことか、この映画を見た日に限ってハンカチをもたずに外出してしまい、映画を見終わった後は大変苦労しましたので。

 それと、映画本編が終わって、エンドロールも終わって、最後にクラウドファンディングで映画製作に出資した人たちの名前がクレジットされるのですが、そこも絶対に見逃さないように、というのも忘れずに伝えたい。映画を作った人たちの、本編で少しだけ出演していた遊女のリンへのあたたかい思いに触れることができ、素晴らしい時間を過ごせるからです。ここも勿論、ハンカチは必須です。

 

 


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  • 2017.08.20 Sunday
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