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【演奏会 感想】イリーナ・メジューエワ ピアノ・リサイタル −オール・シューベルト・プログラム−(2017.03.17 銀座ヤマハホール)

・イリーナ・メジューエワ ピアノ・リサイタル

 −オール・シューベルト・プログラム−

 (2017.03.17 銀座ヤマハホール)

 

 

 

 

 

 

 

<< 曲目>>

・2つのスケルツォD.593

・3つのピアノ曲D.946

・ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D.960

(アンコール)

・アンダンテハ短調D.915

・3つのピアノ曲第1番D.946-1(後半)

 

---

 

 3月17日、ヤマハ・ホールで、イリーナ・メジューエワのピアノ・リサイタルを聴きました。演奏されたのはすべてシューベルトの作品で、2つのスケルツォD.593、3つのピアノ曲D.946、ピアノ・ソナタ第21番というもの。

 

 演奏会から二か月近く経って、演奏の細部についての記憶の大部分が揮発してしまった今、それでもなお感想を書き留めておきたいと思うのは、勿論、彼女の演奏するシューベルトに深い感銘を受けたからですが、それ以上に、演奏を聴いていて、私の中で、ある一つの問いが生まれていて、それを記憶しておきたいからです。

 

 その「問い」とは何かというと、「ロシア人にとってのシューベルトとは何か?」ということです。

 

 メジューエワの演奏するシューベルトを聴いていると、彼女が得意とするショパンやベートーヴェンなどの作曲家の作品での演奏と違って、ぎょっとするようなユニークな、時にはエキセントリックといってよいくらいに強い表現に出くわすことがあります。オーソドックスな外観を極力保ちつつ、その内側の奥深くでユニークな音楽をつくることを身上とするメジューエワですが、シューベルトの曲の場合、その彼女のユニークな視点や感性が、深層から浮かび上がってきて表層にまで姿を現すことがあるように思うのです。

 

 それでも、今回の演奏は、以前彼女が演奏したものに比べ、よりオーソドックスな外観へと収斂しているように感じましたが、胸がドキドキするようなスリリングな表現はあちこちにありました。それは音楽が深く静かに内部に沈潜するような場面が多く、痛みに耐えながら前に進んでいくような足取りに、他の誰よりも厳しい意志のようなものを感じたのです。

 

 では、それが、まったくもって孤絶した、唯一無二の音楽なのかというと、そうではないような気もします。私の中のある種の演奏家が聴かせてくれるシューベルトの演奏と、どこか相通じるものを感じるのです。

 

 「ある種の演奏家」とは誰かというと、例えば、リヒテル、アファナシエフ、ソフロニツキー、ヴェデルニコフ、ユージナといったロシア人のピアニストです。勿論、リヒテルはウクライナの人で・・・などと言い出すと、「ロシア人」というくくりに正当性がなくなってしまうかもしれません。メジューエワは、ある意味、もう「日本人」ですし。

 

 でも、それでも私は、メジューエワのシューベルトからは、「ロシア」を感じずにはいられません。

 

 つい数日前、ふと思い立って、ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルが1977年に来日した際の「未完成」(宇野功芳氏が絶賛していた、あれです)のライヴ録音CDを聴いたのですが、その演奏の底流にあるものも、メジューエワの演奏にあるものとやっぱりつながっているんじゃないかと、確信のようなものを持ったのです。あるいは、ショスタコーヴィチの交響曲でよくある、弦が再弱音でトレモロを弾き、その上でコールアングレか何か管楽器がモノローグを延々と吹く場面、あの寂寥たる「ロシア的な」音楽の響きを思い起こすこともありました。

 

 その「ロシア的」というのは、一体何なのかというと、今の私にはまったく説明がつきません。よく言われるような「土の香り」だとか「濃厚なロマンティシズム」だとか、そういういうイディオムでは安易に語りたくない、もっと本質的で、もっとその音楽家のアイデンティティに根差したようなものと関わるような何かで、先ほど名前を挙げた素晴らしい音楽家たちとメジューエワが、シューベルトの音楽を介して、分かちがたく結ばれている、そんな気がしてならないのです。

 

 彼女の演奏するシューベルトを聴いていて思い浮かべたのは、音楽だけではありません。ドストエフスキーの小説を読んだときに感じたものが甦ってもきました。特に、小説のあらすじから外れ、ぐるぐると思考をループさせて呟きながら、どんどん心の闇の奥へと潜っていくような箇所、ああいうのを読んでいる時に感じる感覚が、私の心の中にどんどん生まれてくるのです。

 

 ロシア語を母国語とする人たちにとって、シューベルトの音楽には何か共通する聴こえ方を喚起するものがあるんじゃないだろうかと、私はそんなことを考えたのでした。

 

 例えば、シューベルトの音楽の例えばフレーズの切れ目のおさめ方。そこには、ロシア語のある種の言葉の語尾を想起させるような共通点があって、その「語感」が演奏家の何かを刺激し、それが音楽に反映されるのではないか。あるいは、音楽の構造的なものが、ロシア語の文法と似ているのだろうか。

 

 どうして音楽なのに「言葉」が関係するのかというと、言葉は「音」「響き」も持っているのだから、その言葉の響きが生み出すものと、純粋な音の響きが生み出すものは、何か関連があるのは間違いないと思うからです。

 ならば、ある一人の弾き手(聴き手でも良い)が音楽を把握するとき、そこに自分の母国語、または、何か思考をするときに最も自然に使う言葉の響きを聴き取り、それが演奏に反映することはあり得るんじゃないか。どうして「母国語」なのかというと、シューベルトの音楽には、聴く者の意識下に潜在している幼少期の記憶を刺激する要素があって、弾き手が子供の頃に話していた言葉が呼び覚まされるからかもしれない。

 

 そう考えると、ロシア人にはロシア人の、日本人には日本人の、シューベルトの音楽の感じ方があるのかもしれない。民族のことを言っているのではなくて、その音楽家のアイデンティティとなる言語の特徴が、その人のシューベルト解釈に大きな影響を与えているのではないだろうかという気がします。

 それはいわゆる「ロシア・ピアニズム」という大いなる伝統の一つの現れであって、ロシア人ピアニストの間でずっと保たれてきたある種の伝承表現が、その音楽に表れているだけなのではないかと考えられなくはありません。しかし、私が先ほど名前を挙げた音楽家たちは、その音楽からたとえ何か共通するものを感じたとしても、彼ら彼女らの音楽には、決して一括りには捉えられない多様性、ダイナミックレンジがあって、誰も互いにまったく似ていない。強烈と言っていいくらいに個性的。ですから、先人の残した音楽のただ表面を真似した結果生まれた共通点だとは、到底思えないのです。

 

 そんなことを考えているうち、「ロシア人にとってのシューベルトとは何か?」という問いが、私の中で頭をもたげてきたのです。前述のとおり、その問いの答えには、全然たどりつけていません。そもそも、その問い自体が間違ったものかもしれないのです。いろいろなデータを集め、客観的な判断基準で解析してみたところで、「そんなのは自分が勝手に作り上げた安易な先入観、思い込みにすぎない」と速攻で否定されて終わりとというのがオチかもしれません。

 

 でも、一つだけ確かなのは、私がメジューエワのシューベルトから漠然と感じた、「ロシア的な何ものか」に触れることによって、私はとても豊かで刺激的な聴体験を得られたということです。私の勝手な観念から感じた「ロシア的である」ということは単なる通り道でしかなく、最終的に、私は彼女の演奏を通して、シューベルトの音楽のすごく本質的なところに触れることができたというたしかな実感があるのです。

 

 シューベルトの音楽の本質とは何かというと、それもまた私には手に余る難問なのですが、今私が考えているのは、シューベルトの遺した音楽は、何よりも、自己と徹底的に向き合った末に生まれた音楽であるということ、です。以前、メジューエワ自身が、リサイタルで曲の合間のトークで語っていたことですが、彼の美しい旋律の裏には、いつも「とっても恐ろしいものがある」。シューベルトはその「恐ろしいもの」を、まばたきもせず、じっと目を凝らして見続けた人なのであって、彼の音楽には、その時の感覚がいつもどこかでこだましている。彼女は、それをほかのどのアーティストよりもしっかりと見据え、シューベルトの音楽が抱えている危機のようなものを音として体感させてくれているように思ったのです。

 

 そんな彼女の演奏するピアノ・ソナタ第21番が、私の心の奥深くに響いたのは当然のこと。そうしたシューベルトの音楽のありようを、他のどの曲よりも鮮烈に反映した作品だと思うからです。

 

 今でも忘れられないのは、第1楽章で何度も何度も現れる左手の低音のトリル。彼女は、その最後の音を和声的に解決させることをせず、FとGesの半音を同じ音量でぶつけたままトリルを終結させていました。「遠雷」は鳴り響いたところで終わりなのではなく、ブラックホールのように、いつも口を開けて私たちを呑み込もうとしている。そんな奇妙な聴感覚があって、フォルテで衝撃的に鳴り響くところでも、囁くような音量で静かに弾かれるところでも、そのゾッとするような「怖い」響きに震撼せずにはいられませんでした。

 あと、同じ楽章の絶叫するような激しいクライマックスの後から再現部に入るまでの部分、歌曲「さすらい人」の伴奏のリズムを引きながら、今にも消え入りそうな再弱音で冒頭の旋律を心細げに歌うところ(173〜215小節)も忘れ難い。

 メジューエワは弱音にこだわりすぎず、克明で真のある響きと、ぶれのない足どりを確保しながら、厳しい音楽を淡々と続けていきます。そこには自己憐憫や、悲劇の主人公としてのナルシシズムはまったくない。ただ、どんな状況であっても、旅は続けなければならないという絶望にも似た確信だけがある。

 第1楽章だけでなく、どこまでも深く沈み込んでいく第2楽章はもちろんのこと、第3,4楽章でも、あの「冬の旅」の主人公が感じていたであろうような、ひりひりと痛む孤独がいつもそこにあって、メジューエワからしか聴けないユニークで、でも、説得力のある演奏を聴くことができました。

 

 3つのピアノ曲では、第2曲での、穏やかで夢見るような部分での、甘味料一切なしの凛とした表情が印象に残りました。

 

 2つのスケルツォも、小さな音楽だからと軽視せず、大曲と向き合うのと何ら変わりのない、真摯な態度で演奏をするメジューエワの姿に胸を打たれました。ああ、かつて、この曲を練習していた自分に、「本当はこういう音楽なんだよ」と教えてやりたいくらい。最良の意味で、模範的な演奏でした。

 

 アンコールは2曲、こちらもオール・シューベルト。

 

 最初は、アンダンテハ短調。こちらも私の偏愛する曲で、「愛奏曲」でもありますが、ああ、こんなふうに深く、美しく弾けたらどんなにいいだろうかと思わずにいられませんでした。一つ一つの音のタッチの美しさは勿論、音の克明さと、豊かな響きを両立させた絶妙のペダリングに惚れ惚れしてしまいました。それは彼女の演奏を聴くといつも思うことですが。

 

 そして、ほぼ満席の客席からの熱烈な拍手に応えて、もう一曲、アンコール。それは、中プロで演奏した「3つの小品」の第1曲ですが、これが「粋」でした。つまり、彼女は曲の途中から弾き始め、本編で弾かなかった部分、シューベルトの自筆譜で「無効」とされ、ブラームスが出版の際に削除した部分を弾いて冒頭に戻り、曲の最後にたどり着いたのです。本編では「ああ、あそこはカットしちゃうのかあ・・・」とほんの少し残念に思っていたので、CDのボーナストラックのような風流な計らい、シューベルト狂いの聴き手としては、最上のプレゼントをもらえたような嬉しさを感じました。

 

 今年の夏以降、メジューエワは東京文化会館で日本デビュー20周年の記念コンサートを3回開きます。彼女のレパートリーの柱であるベートーヴェン、ショパン、リストらの作品が聴けるので、今から楽しみでなりません。

 

 最後に。先ごろ発売された、彼女の弾くショパンのポロネーズ集のCDの感想も書いておきます。

 

 これも掛け値なしに素晴らしい演奏でした。

 

・ショパン/ポロネーズ集

 イリーナ・メジューエワ(P) (若林工房)

 →詳細はコチラ(Tower/HMV)

 

 

 

 


 まず、「軍隊」「英雄」といった豪快なヴィルトゥオージティを要求する音楽を、こんなにも軽やかで気品のある音楽として聴かせてくれる演奏は初めて聴いた気がしますし、それが本当のあるべき姿なのかもしれないと思うくらいに説得力がありました。


 第1番も、いい。その胸に迫るような真摯な音楽を聴いていて、唇をかみしめて痛みをこらえるような健気さのようなものに、思わず落涙してしまいました。彼女の旧録音(複数あり)を含め、この曲で泣いたのはこれが初めての経験です。

 

 そして、ショパンの作品中、最高峰のものと思える「幻想ポロネーズ」が素晴らしい。曖昧模糊とした雰囲気に逃げない、どこまでも明晰さを追求した演奏には、ただ聴き入るしかありません。このところ、ポリーニやフレイらの最新盤でこの曲の素晴らしさを実感したところですが、私は、メジューエワの新盤に最も打たれます。

 

 彼女の演奏の常ですが、外見はとてもオーソドックスなのに、どうしてこんなに個性的な音楽として記憶に残るのか、本当に不思議でなりません。これからも、その謎を楽しんでいきたいです。


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  • 2017.05.23 Tuesday
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