<< 【演奏会 感想】スメタナ/連作交響詩「わが祖国」 〜 ヤクブ・フルシャ指揮東京都響 (2017.07.26 ミューザ川崎シンフォニーホール) | main | 【ディスク 感想】J.S.バッハ/チェロ四重奏によるオルゲルビュヒライン 〜 ポンティチェリ・チェロ四重奏団 >>

音楽の価値についてちょっとだけ考える

・ピアノを弾くシベリウスと、それを聴くアイノ夫人

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 CDショップの新譜情報を見ていたら、レイフ・オヴェ・アンスネスのシベリウスのピアノ曲集の発売が予告されていました。
シベリウスのピアノ曲の代表的なものを、作品番号順に取り上げたアルバムとのことで、どんな音楽が聴けるのか、今から期待に胸を膨らませています。

 

・シベリウス/ピアノ曲集

 レイフ・オヴェ・アンスネス(p) (Sony Classical)

 →詳細はコチラ(Tower/HMV)


 

 

 

 ところで、シベリウスのピアノ曲というと、少し前にテレビで舘野泉さんが話しておられたことを思い出します。

 

 今から40年近く前、舘野さんは、シベリウスのピアノ曲を体系的に録音しました(2010年にEMIから発売されたコンプリートBOXで復刻され、その中から22トラックを選んだベスト盤が現役盤)。そのことをフィンランドのジャーナリスト(音楽評論家?) が、どこかから聞きつけ、舘野さんに抗議したのだそうです。

 

「シベリウスのピアノ曲なんてまったく価値のない音楽だ。それをわざわざ集めて体系的に録音するなんて、大作曲家に対する冒涜だ」と。

 

 対して、舘野さんは、こんなふうに反論した。

 

「シベリウスのピアノ曲には、大作曲家にしか書けない筆致があり、小宇宙がある。価値がないだなんて、とんでもない。冒涜どころか、もっと多くの人に聴かれるべきだ」と。

 

 舘野さんに猛然と抗議をしたというジャーナリスト、しかもシベリウスの権威として知られていたという方の理不尽な行動について、どうこう言うつもりはありません。舘野さんもまったく相手になさらなかったようだし、私も、舘野さんが録音した演奏を十分に楽しんでいるのですから、その方の恥ずかしい行為は大目に見てあげていい。

 

 でも、その御仁ほどではないにせよ、かつては、シベリウスのピアノ曲と言うと、例えば、彼のオーケストラ曲ほどには、演奏する価値、聴く価値はないという意識は一般的なものだったのだろうと思います。彼のピアノ曲に接する機会が増えたのは、それこそ舘野さんがLP時代から熱心にシベリウスの音楽を紹介し、80年代以降にBISのタヴァッシェルナ盤やNaxosのギムゼ盤など、体系的に録音されたディスクが発売されるようになってからなのだろうと記憶するので。

 

 そもそも、交響曲など規模の大きい高度な曲こそ「価値のある」音楽であり、作曲家が「筆のすさび」として書いたような大衆的な小品には芸術的価値がない、初心者が聴いて喜ぶもの、というような意識が、つい最近まで、弾き手にも書き手にもあったように思います。偉大な交響曲作曲家であるシベリウスを崇拝するあまり、彼が聴きやすくて、分かりやすい小品を書いたなどというのは考えたくもないことであり、できれば、「なかったこと」にしたいと考えた人がいただろうことも想像に難くありません。事実、舘野さんに抗議をしたジャーナリストこそ、まさにそうだったのだろうと思います。

 

 だからなのか、シベリウスは、ヴァイオリン弾きだったからピアノという楽器には関心がなかった、彼のピアノ曲の大半は家庭で弾かれることを想定した簡単なものであり、ただ収入を得るために書いたのだというような言説は、昔からよく目にしてきました。シベリウス崇拝者の、神聖な大作曲家のイメージを損なわないようにするための「配慮」だったのかもしれません。

 

 でも、クラシック音楽が、さまざまなジャンルの音楽から多くのものを取り込んでいった結果、高踏的で高尚な音楽こそ価値があるというような考え方は、徐々に姿を消しつつあります。聴きやすい小品や、収入のために書いた作品に芸術的価値はないなどという考え方も、一般的ではなくなってきている。だからこそ、名だたるピアニストが、シベリウスのピアノ曲を取り上げるようになった訳だし、聴き手の間でも人気曲が生まれ、広く愛聴される音盤も登場している。そして、ついにアンスネスのような人気ピアニストが、純然たるシベリウス・アルバムを録音するようにまでなった。

 

 これって、マグロのトロみたいな話じゃないかと思います。

 マグロのトロは、今でこそ高級品として好んで食べられていますが、かつては不味いとされて人気もなく、市場で捨てられていたのだそうです。その潮目が変わったのは60年代くらいからで、冷凍技術が上がって、傷みやすいトロを、新鮮なままおいしく食べられるようになってきたのと、肉食が広まって脂身の旨さを好む人が増えてきたのが、要因なのだそうです。
 いま、シベリウスのピアノ曲が、トロのような高級品とされているかは別として、この音楽を解凍し旨味をきちんと引き出す技術が確立し、聴き手側にもその音楽の良さを味わうための味蕾ができてきて、この音楽を愛する人たちの輪が広がっている、その意味で、マグロのトロで起こっていることが、シベリウスのピアノ曲、ひいては、クラシック音楽全体の中でも起きているように思えるのです。

 

 そう考えると、ものすごく当たり前のことですが、音楽や芸術作品の価値は、決して不変の絶対的なものではなくて、流動的な変化をもたらす余地がどこかにあるということなのでしょう。その価値の判断基準となる技術や嗜好、あるいは価値観そのものが常に移ろっていくものなのだから、それに従って価値判断の結果が揺らぐのは至極当然のこと。
 であるならば、私たちは、前提として、音楽の価値判断は自由にして良いし、五感・知性・経験を総動員して価値判断すべきなのだけれど、その結果は常に暫定的なものでしかないと弁えておくべきなのかもしれません。ある作品に対する「世評」なるものがある程度固まっていて、その時代特有の価値観や嗜好によって「価値はない」と判断されている場合でも、だからと言って、その作品の存在自体を葬り去ってしまうようなことが、決してあってはならない。後世の人の判断により、その作品の新たな価値、時には真の価値が見いだされるかもしれないからです。私たちが、後世の「発見」を阻害する権利もなければ、阻害して良い理由もない。ましてや、自分たちにはまったく価値が「わからない」ものならば、なおのこと。判断は後世に任せる必要がある。

 

 そのためにも、シベリウスのピアノ曲の価値を、周囲に影響されずに見出した舘野さんのような「理解者」と、芸術家の創造の営みの結果として生まれた作品をきちんと整理し、後世の人たちがアクセスできるようにアーカイヴしてきた「保護者」の存在が絶対に必要なのだろうと思います。その「時価」が分かっているということ以上に、将来的な可能性としての「価値」がちゃんと見抜けるだけの鑑識眼をもつ人たちの存在が何よりも重要なのでしょう。

 そうした人たちがいなければ、さまざまな可能性を秘めた芸術作品が、無理解な人たちの手でいとも簡単に廃棄され、破壊されることもあるだろうし、奇跡的な偶然がなければ永遠に埋もれてしまうようなことになってしまう。後世の人たちから、価値への無理解を笑われることがあってもそれは仕方がありません。例えば、舘野さんに抗議をしたジャーナリストのように。でも、自分たちの価値判断をもとに一方的に「断捨離」をおこない、後世の人たちから、素晴らしいものに触れる機会を奪ったとか、あるいは困難にした、と恨まれてしまうのは耐え難いことです。

 

 そうした愚を避けるためにも、こと文化においては、創造されたものはできるだけ保存し、誰もがいつでもアクセ スできるようにしておくことが、何よりも重要なのではないか。現代のテクノロジーの利を生かし、あらゆる情報を高精度にデジタル化して蓄積し、様々な方向へのスケーラビリティを確保しながら、膨大な知の空間を創り出していく。そこには、自分たちの時代が下した価値判断の結果もメタデータとして付与しておく。ただし、それはあくまで暫定的なものであり、余白部分は常に後世のあなたたちのために残してあるから、皆さん、どうか自由に議論し、楽しみ、味わってくださいとメッセージを添えて、オープンなものにしておく。そんなふうにして文化が次の世代にも受け継がれていけたらいいなと、非常に漠然とした、当たり前で陳腐な結論に至りました。

 いや、結局のところ、私が言いたいことは、アンスネスのシベリウスのCDは楽しみだということ、舘野さんが録音したシベリウスのCDは何度聴いてもいいねということ、そして、あのジャーナリストは残念な人だね、ということなのですが、日頃思っていることをぶちまけてみたら、こんなエントリーになってしまいました・・・。でも、最近は、政治家やエリート官僚が、情報を保存したかどうかさえも記憶できず、忘れてしまうような時代になってしまい、心して取り組まないと、貴重な文化財を守ることはできなくなっていまうと危惧を抱いているので、消さずに公開することとします。

 

 ところで、舘野さんのCDにも収められている「村の教会」という曲について一つ。
 この「村の教会」という作曲者晩年の作品は、アルバムのタイトルにもなっているくらいの印象的な曲ですが、途中、シベリウスが弦楽オーケストラ(とティンパニ)のために書いた「アンダンテ・フェスティヴォ」の一節が登場します。祝典的で、教会音楽の音律で書かれた音楽の一部が、「村の教会」で使われているのは、なるほどと膝を打つのですが、CDのライナーノートには言及がありません。解説する側としてみれば、とっても「おいしい」ことだと思うのですが、もったいないです。シベリウスのピアノ曲の美しさ、舘野さんの演奏の素晴らしさを熱っぽく語っていて、とても好きな解説なのですが。

 旧東芝EMIに録音された舘野さんのシベリウス・アルバム、本当に何度聴いても味わい深い名演奏だと思います。どちらかというと丸みを帯びたあたたかい響きを身上とする舘野さんのピアノが、ひんやりとした感触をもち、ちょっとぶっきらぼうで素朴な語り口のシベリウスの音楽と幸福な結びつきを見せていて素敵なのです。どの曲でも、暖炉のそばで膝を交え、自然について、人生について、愛についてしみじみと語り合う、そんな場面を想起させるような親密さがある。でも、その底流にはいつも厳しい自然の中で生きる孤独のようなものがあって、だからこそ、親しみが湧く。

 このアルバムは私にとって宝物ですが、できることなら、4枚のCDにまたがる「全集」を単売してほしいものです。リリースすれば絶対に売れると思うのですが・・・。

 

・村の教会 シベリウスピアノ曲集

 舘野泉(p) (Warner)

 →詳細はコチラ(Tower/HMV)

 

 

 

 

・上記CDのLP時代のジャケット

 

 

 

 

 


 


 


スポンサーサイト

  • 2017.08.16 Wednesday
  • -
  • 01:25
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
トラックバック
calendar
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< August 2017 >>
Twitter
Ranking
にほんブログ村 クラシックブログ クラシック音楽鑑賞へ
にほんブログ村 にほんブログ村 クラシックブログへ 人気blogランキングへ
ブログランキングに参加しています。
Access Counter
                         
Mail
                         
            
サイト内検索
selected entries
categories
archives
recent comment
  • デ・ラ・パーラ指揮のオール中南米プロの演奏会が聴きたい
    gijyou (07/24)
  • レコード芸術 創刊800号に思う
    “スケルツォ倶楽部”発起人 (05/07)
  • レコード芸術 創刊800号に思う
    木曽のあばら屋 (05/06)
  • マーラー/交響曲第9番 〜 バーンスタイン/IPO(1985.9.3) 
    ストロハイム (02/08)
  • アザラシヴィリ/無言歌(グルジアの歌)
    moemoet. (01/28)
  • アザラシヴィリの「無言歌」について 〜 原曲は "Dgeebi Midian"
    moemoet (01/28)
  • 【演奏会 感想】ウィリアム・クリスティ&レザール・フロリサン <イタリアの庭で〜愛のアカデミア> (2016.10.13 サントリーホール)
    siegfried (11/21)
  • 【演奏会 感想】ヴァレリー・アファナシエフ ピアノ・リサイタル(2016.10.29 浜離宮朝日ホール)
    ねこ (11/20)
  • 【雑記】客席ガラガラの演奏会に思うこと
    佐藤 (11/01)
  • アザラシヴィリの「無言歌」 〜 「音楽の友」(2016.07)記事掲載、クァルテット・エクスプローチェによる新盤発売
    yoosun (09/01)
recent trackback
links
profile
others
sponsored link
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM