【演奏会 感想】ヴェルディ/歌劇「オテロ」(演奏会形式上演) 〜 アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィルほか(2017.09.08 オーチャードホール)

2017.09.17 Sunday

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    ・ヴェルディ/歌劇「オテロ」(演奏会形式上演)

     アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィルほか

     (2017.09.08 オーチャードホール)

     

     

     

     

     

    オテロ:フランチェスコ・アニーレ
    デズデーモナ:エレーナ・モシュク
    イアーゴ:イヴァン・インヴェラルディ
    ロドヴィーコ:ジョン ハオ
    カッシオ:高橋達也
    エミーリア:清水華澄
    ロデリーゴ:与儀 巧
    モンターノ:斉木健詞
    合唱:新国立劇場合唱団(合唱指揮:冨平恭平)

     

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     今年の春ごろ、アンドレア・バッティストーニがヴェルディの「オテロ」について講演をするというので是非聞きたかったのですが、所用で行けませんでした。もし行ければ、そして講演後に一般人から質問可なら、彼に聞きたいことが二つありました。まず最初は、これです。

     

     ヴェルディの「オテロ」の主役は誰だと思いますか?

     

     それは明らかな愚問です。タイトルが「オテロ」なのですから、主役はオテロに決まっている。しかし、最近は音楽的にも演出的にも、タイトルロールのオテロよりも、奸計をめぐらせて彼を破滅させるイアーゴが主役みたいな上演、演奏を聴かされることが圧倒的に多いのです。確かに、演劇的観点からは、直情径行的なオテロよりも、複雑な心理を見せるイアーゴの方が、作り手には魅力的な「素材」であるのは間違いない。それに何よりも、「オテロ歌手」が絶滅してしまった。

     私はそのことを非常に残念に思っています。何と言ってもこのオペラの魅力の最大のものは、何よりオテロ役の「音楽」にこそあると思っているからです。これからのイタリア・オペラを背負って立つに違いない若きマエストロに、「オテロ」役の復権を託したい一心で、彼の思いを聞きたかったのです。

     実際には彼に質問することは叶いませんでしたが、でも、幸いなことに、9月になって、彼は東京フィルを指揮してヴェルディの「オテロ」を上演してくれました。「やっぱりオテロが主役でしょ」というような頼もしい上演が聴けるのではないかと期待に胸を膨らませて聴きに行きました。

     

     それは、東京フィルの今季の開幕公演となる演奏会でした。オテロにテノールのフランチェスコ・アリーレ、デズデーモナはソプラノのエレーナ・モシュク、イアーゴにイヴァン・インヴェラルディを迎え、オーチャード・ホールで演奏会形式での上演。合唱は新国立歌劇場合唱団、真鍋大度率いるライゾマティクスリサーチがプロジェクションマッピングを駆使した映像演出を担当しました。

     

     その演奏の主役は誰だったでしょうか?

     

     何と言うか、残念ながらというべきでしょうか、今回の上演での主役は「デズデーモナ」でした。いや、バッティストーニがそう意図したという訳ではないでしょうけれど、少なくとも私にとっては、そう「あくまで個人の感想です」という但し書きをつけてですが、この公演では、デズデーモナがもっとも重要な位置にいました。音楽的にも、そして、観念的にも。

     

     私がそう感じたのは、最近世界じゅうで活躍の場を広げているモシュクの歌が良かったということも大きな理由ですが、その歌を支えるオーケストラの歌と響きがあまりに儚く、あまりに優しくて、この「オテロ」という悲劇の中心にあって彼女の存在自体の美しさと悲しさがよりクローズアップされていたからです。それに、私自身も歳をとってしまったのでしょうか、自ら破滅への階段を転げ落ちながらヒロイズムをふりまくオテロ役よりも、「私の罪は愛してしまったこと」などという言葉を口にして、最愛の夫に理不尽に殺されてしまうデズデーモナへの憐れみを強く感じるようになったのかもしれない。いずれにせよ、モシュクと、バッティストーニと東京フィルが生み出す「デズデーモナ」の音楽にこそ、このオペラの真の悲劇があるかのようにさえ思えました。


     ですから、当然のことながら、第4幕の「柳の歌」と「アヴェ・マリア」にはグッときました。Salce, Salce, Salce(柳よ)という言葉が、大きな呼吸をもって、そしていつも最後にはすべてを諦めてしまうかのように思いを内に込めて繰り返されるたび、迫りくる死を漠然と予感しながら自らの手ではどうにもできない「運命」に思いを寄せる彼女の姿が愛おしくなる。今すぐ舞台に駆け寄って「いいからすぐにここから逃げなさい!」と言いたくなるほどに。

     なのに、侍女エミリアに「さよなら」を告げた彼女は、いずれ自分を殺すであろう夫のオテロをそれでも愛し続け、「アヴェ・マリア」と唱え、すべての人に祈りをささげる。こんな大きな慈愛に溢れた彼女の魂は、もうすぐに消されてしまうのです。そのことを知りながら、この気高い歌を聴くことの辛さといったら!

     

    お祈り下さい 罪ある者のためにも 罪なき者のためにも
    そして虐げられし弱き者のため、強者のためにも、
    また、貧しき者のためにも、あなたの慈悲をお示し下さい
    お祈りください 激しい怒りに頭を垂れし者のために
    そして邪悪な運命の下にある者のためにも
    私どものために、私どものためにお祈り、お祈りください

    オテロ対訳プロジェクトより https://www31.atwiki.jp/oper/pages/2470.html

     

     モシュクは、ほんのちょっと胸声が強く、やや大きなヴィブラートをかけて歌う人で、イタリア人ディーヴァの歌に耳が慣れてしまった私には異質な歌でしたが、そのデズデーモナという女性の汚れのない美しい存在を、美しいままに歌い演じていて素晴らしかった。

     でも、私が今回の上演でデズデーモナの存在を大きくとらえた理由は、もう一つあります。それは、会場で配られたパンフレットに掲載された、「オテロ、もしくは二元論の」と題した非常に印象深いバッティストーニのエッセイ(井内美香訳)の文章でした。

     

    そこで必要になるのは魔術的な犠牲の行為だ。それはおそらくオテロが一員だった事がある未開の地でおこなわれる野蛮な儀式のようなもので、デズデーモナを罪人として、言葉のもっとも宗教的な意味における贖罪の山羊として人身御供とすることになるのだ。

     

     ムーア人であるオテロが、ターバンを巻き、アフリカの儀式に参加しているという図は、例えばゼッフィレルリが監督したドミンゴ主演の映画でも映し出されていましたが、私はデズデーモナという女性を、そんな風に「贖罪の山羊」としてとらえたことはありませんでした。人間の罪を背負い、生贄にされる女性。原作者のシェークスピア、台本作家のボーイト、作曲家のヴェルディがほんとうにそう捉えていたかどうかはわかりませんが、少なくとも、私が聴いた演奏会でのデズデーモナの「音楽」はまさにそんな彼女の、清らかな至高の存在を表現したものになっていました。

     

     ついつい、数年前に同じ会場で聴いたバッティストーニの指揮するプッチーニの「トゥーランドット」を思い出さずにいられませんでした。私は、あの時の公演で、主役トゥーランドットとカラフの歌う場面よりも、カラフをかばい自ら命を絶ったリューの歌う場面で、まさに号泣したのでした。あれと同じくらい、あるいはそれ以上に、私はデズデーモナが歌う場面ではもう目の前が曇ってしまったのでした。

     

     前掲のパンフレットに掲載された、音楽評論家の加藤浩子さんが書かれた曲目解説では、こんなヴェルディ自身の言葉が紹介されていました。

     

    デズデーモナは、「善、諦念、犠牲的行為、こういったものの典型」であり、(生身の)「女性ではない」

     

     そう、デズデーモナとリューという男社会の原理の中で「自己犠牲」を強いられた女性の哀しさが、「オテロ」と「トゥーランドット」にはあって、バッティストーニという指揮者はそれをたぶん誰よりも巧く、説得力豊かに聴かせてくれた。ただ透明な美しさをもった音楽というだけでなく、どのフレーズ、どの音にも、痛みを伴うような切実さがあって、いちいち心に沁みてくる。そこが素晴らしい。その背後にはいったいどんな音楽的な表現方法の秘密があるのか、素人の私が分析するには手に余ってしまうのですが、一つ言えるのは、徹底的に「歌う」演奏だったということ。簡単なことのようで、それがどれほど難しいことか。

     

     そんなふうに心に響く「デズデーモナ」の音楽を聴けたので、このオペラは、「オテロ」でも「イアーゴ」でもなく、「デズデーモナ」というタイトルにすべきじゃないかと思ったという訳です。

     

     しかし、私の本心では、やはりこの最愛のオペラでは「オテロ」を聴きたかった。何もデル・モナコやドミンゴ級の歌を聴けなくてもいいから、間違いなくオテロが主役の演奏を聴きたかった。ヴェルディがこんなにも素晴らしい音楽をテノールのために書いたのだから、その至上の音楽の素晴らしさ、猛烈な力をほんの一端でも聴かせてほしかった。

     

     それは残念ながら、主役を歌うアリーレの歌にまったく満足できなかったということに他なりません。確かに声にパワーがある人で、全曲を破綻せず(第2幕のアリアの最後で声が割れてしまいましたが)歌い切り、特にモナコやドミンゴでさえも声を失ってしまう第2幕後半の二重唱を失速せずに持ちこたえたのは素晴らしい。でも、音楽的な主張が弱く、オテロという役柄のキャラクターがまったく見えてこない・・・。
     いや、難しい役を懸命に歌ったテノール歌手の悪口を言うのは、やめておきましょう。すべては、ヴェルディが悪いのです。こんなにテノール歌手に過大な要求をつきつけ、しかもこんなに魅力的な音楽を書いたのですから、本当に罪なことをする。おかげで、私は「オテロ」の音楽を聴いてもなかなか満足できなくなってしまった。そこそこの歌を聴くくらいなら、ましてや、さっぱり魅力の感じられない歌を聴くくらいだったら、CDを聴いていた方がマシと思わせるような音楽を書く人が悪い。そういうことにしておきます。とても誠実で人の好さそうな紳士たるテノール歌手にブーを叫ぶ勇気を持てない私は、そんなことを考えながら、大過なく役をこなした彼に対して拍手をしていました。

     

     その点、イアーゴのインヴェラルディは、表現にそれなりの強度があって、なかなか良かった。でも、どうも人が良すぎるというか、歌も演技もおおざっぱというか雑というか、その性格や振る舞いの悪辣さが表面的に感じられてしまっていたのが残念。それでは、バッティストーニが、イアーゴを「ファウスト」のメフィストフェレスと対比すべき「悪」の権化として位置付けていたのとはどうにも整合性がとれていないように思えました。

     

     ということで、今回の演奏では、結局、オテロとイアーゴの間の、白と黒の二元論から生まれた悲劇という側面が、残念ながら音楽的には表現しきれていなかったと私は思います。モシュクの歌とともにあれほどセンシティヴに美しい音楽を奏でていたオーケストラが、肝心のオテロの心の葛藤や、イアーゴの悪企みを描くときには、なんとも気の抜けた音楽になってしまっていたのは、やはり歌手の力量不足が根本原因だろうと思わずにはいられません。もちろん、バッティストーニには、まだ音楽から抽出しなければならないものはいくつもあるだろうし、東京フィルにもさらに克明に表現せねばならない音の綾は挙げればキリはないでしょうが、それでもこの2つの役に相応しい歌手が参加していれば、もっとすごい音楽が生まれただろうにと残念でした。

     

     とは言え、バッティストーニと東京フィルの演奏には素晴らしい瞬間がたくさんありました。破局へとひた走るドラマ展開が孕むとてつもないエネルギーはきちんと表出されていて、聴かせどころで、絶妙の「ケレン」を聴かせていたのは素晴らしい。特に第2幕の幕切れ、オテロとイアーゴが復讐を誓ったあとのオーケストラだけの後奏で、かつてのマゼールばりに粘りに粘ってダメを押すあたりは唸りましたし、第3幕の幕切れ、金管のバンダを加え、英雄オテロの崩壊を民衆の前に曝すカタストロフを示すところでの、激しい追い込みもただただ凄かった。そして、先ほど述べたように、デズデーモナが歌う場面などで聴かせる繊細な響きは、むしろバッティストーニの美質は、こういう音楽でのリリシズムにこそあるのではないかと思えるほどに美しかった。

     

     また、彼がオペラのマエストロとしての職人的な手腕を見せたのはアンサンブルの場面。第3幕のオテロ、イアーゴ、カッシオの三重唱や、同じ幕の幕切れで、公衆の面前でオテロから辱めを受け悲嘆にくれるデズデーモナの歌が、登場人物全員の複雑なアンサンブルへと発展していく場面、そして、第4幕、オテロの妻殺しが発覚してからの一瞬の隙もない緊密なアンサンブルなどは、音楽の重層的な進行をきちんと整理してまとめつつ、音楽の道筋を見失わない統率ぶりが見事でした。今、ヴェルディの「オテロ」をこれほど魅力的に指揮できる人は、ほんの一握りしかいないと思うし、東京フィルも彼の指揮に触発されて強靭な音楽を作り出していたのは間違いない。

     

     ただ、それでも、バッティストーニにも東京フィルにも、これよりまだもっともっと良くなる余地があると思います。これでもう少しドラマのうねりがあればとか、さらに登場人物の深層心理を抉り出すような表現が聴きたいと思う瞬間もありましたから。オテロとイアーゴに人を得ることさえできれば達成できることもあるだろうし、それ以上に、もっと彼らが関係を深め、ヴェルディの音楽の語法を掘り下げることができた暁には、とてつもない演奏を聴くことができるんじゃないでしょうか。そういう嬉しい予感を感じながら、でもやはりいい演奏を聴くことができました。

     

     カッシオ以下の脇役の中では、エミーリアを歌った清水華澄がとびぬけて印象的でした。強烈なキャラクターの感じられないチョイ役で、登場場面も少ない中、これだけ自身の存在をアピールして、かつ、印象を残す歌を歌えているというのは、すごいことだと思います。

     

     合唱は、オーケストラに伍して譲らないだけのパワーがあり、かつ、ハーモニーが濁らないところが素晴らしい。ただ、響きの純度が高い分、てんでばらばらの多様な人たちの集まりとしての民衆という存在の猥雑さとか、その中の個人個人の振る舞いというようなものがあまり感じられず、オペラ小屋ならではの興奮とは少し距離を置いていたところがある。それは長所でもあり、物足りないところでもある。日本の音楽家たちって皆さん真面目だなとつくづく感心したりしてしまいました。

     

     演出は、私が「オテロ」の「音楽」を聴きたいという願いを決して邪魔することなく、それでいて、密室の中で起きる悲劇の核心の部分がプロジェクトマッピングで表現されているところが気に入りました。イアーゴが第2幕のクレドで「嫉妬のモチーフ」を歌った瞬間に、オーチャードホール舞台後方の反響板が歪み始め、ドラマが進行するにしたがって崩壊していくさまは唸りましたし、悪が成し遂げられる過程で、指揮者の動きに合わせて細胞が分裂していくような画面を出していたのもなるほど、と頷きました。また、第1幕の二重唱で大きな地球が映し出された後で、キプロス島にフォーカスが当たっていく場面、そしてヨーロッパやアフリカで戦火が起こるさまを映す場面にはハッとしました。なかなかいいアイディアだと思います。

     

     演出という意味では、大詰め、オテロが自刃して指揮台の前で倒れ、そこで死にゆくさまを、横でイアーゴが見ているという構図になっていましたが、96年のキーロフ歌劇場の来日公演で、ジャンカルロ・デル・モナコ(マリオの息子)の演出がそれに近いものになっていたのを思い出しました。特に目新しいものではないですが、普通に考えて、「お前、逃げたんちゃうんか」と言いたくなる演出ではあります。ゼッフィレルリの映画のようにオテロに投げ槍で殺される方が、まだ理解できる、かも。

     

     今回の上演で、「オテロ」というのは本当に魅力的なオペラであると同時に、本当に難しい、音楽家にとてつもないものを要求するオペラなんだなと改めて実感しました。今回だけにとどまることなく、またいつかバッティストーニがこのオペラを取り上げてくれることを心の底から願いたいと思います。ただ、その時にはやはり文句なしに「主役はオテロ」であるということを、その演奏から実感させてくれる歌を聴きたい。その頃には、どうでしょうか、もはや人間がオテロを歌うことは不可能で、「モナコ君」とか「初音プラシド」みたいなテノール・ロボットがオテロを歌うことになるんでしょうか。でも、それじゃあまりに悲しすぎるので、オテロ歌手養成ギブスを開発するとか、オテロ歌手虎の穴を創設するとかして、もはや絶滅してしまったオテロ歌手を蘇らせるしかないのかもしれません。冗談じゃなくて。

     

     ところで、私がバッティストーニに聞いてみたかったもう一つの点は、第3幕の幕切れで、ヴェルディが後に改訂した版を使うかどうかという点でした。リッカルド・ムーティがずっとその版を使い、音楽的にそちらの方が優れていると言っているようですが(私は賛同できない)、彼が従来の版を使うのか、あるいはカットしてしまうのか、その部分をどのように考えているかを聞きたかった。

     結果的には、予想通り、通常版が使われていました。私は彼の選択を支持したいと思いました。そちらの方が聴きなれているせいもありますが、英雄にして統治者であるオテロが、あろうことか公衆の面前で妻を罵り、ねじ伏せるような信じがたい場面を目にした民衆の戸惑い、驚き、そして混乱が、こちらの方が正確に表現されていると思うからです。

     あと、慣習的にカットされることのあった第2幕中盤過ぎの一節も楽譜通り演奏され、パリ上演のときに追加されたバレエ音楽はカット。エディション的には何の新機軸のない一般的な選択がなされており、クリティカルエディションを用いるべしという主張を持つ向きからは物足りなく感じられたかもしれませんが、私はそのことはまったく瑕にはなっていないと思いました。

     

     とにかく、バッティストーニのヴェルディを、いや、イタリア・オペラをもっと聴きたい、心の底からそう願いつつ、このエントリーを閉じることにします。

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    2018.09.18 Tuesday

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