【演奏会 感想】イブラギモヴァ(Vn)& ティベルギアン(P)デュオ・リサイタル (2017.10.08 三鷹市芸術文化センター 風のホール)

2017.10.17 Tuesday

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    ・イブラギモヴァ(Vn)& ティベルギアン(P)デュオ・リサイタル

     (2017.10.08 三鷹市芸術文化センター 風のホール)

     

     

     

     

     

     

     

     

    <<曲目>>

     

    ・モーツアルト:ヴァイオリン・ソナタ ト長調K.379

    ・シューベルト:幻想曲ハ長調D.934
    ・ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第9番イ長調op.47「クロイツェル」

    (アンコール)

    ・モーツァルト: ヴァイオリン・ソナタK.296 第2楽章

     

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     先週の日曜、三鷹で聴いたアリーナ・イブラギモヴァとセドリク・ティベルギアンのリサイタルの感想(というか思い出)を書こうと頭を整理(するほどの脳味噌はないのですが)していたら、テレビからこんな言葉が聞こえてきました。

     

     「大事なのは芝居じゃないの。あなたのリアルなの」

     

     アメリカのミュージカルの大御所が来日し、若い人たちにレッスンをつける番組で、その「レジェンド」の女性が、若い役者さんに向かってそう言っていたのでした。

     

     そう、イブラギモヴァとティベルギアンの演奏も、「演奏より大事なリアル」に貫かれた演奏ではなかったでしょうか。


     モーツァルトのソナタ、シューベルトの幻想曲、そしてベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」という王道の三曲とも、彼女たちはレコーディングも済ませているし、何度もライヴで演奏してきている。私自身も、彼女らのモーツァルトとベートーヴェンを実演で聴くのは二度目。そうした過程で、彼女らはそれぞれの曲に対して解釈を煮詰め、細部にわたって完成度を高めてきたし、実際そういう演奏を聴くことができたのは間違いない。もちろん、CDでの演奏ともいろいろと違う部分はあるだろうし、前回聴いたときからコンセプト自体に修正が入ったところも少なくはないでしょう。
     でも、彼女らの演奏が何よりも私の胸を打ったのは、その演奏の技術的な質の高さとか、解釈のユニークさとかいうところ以上に、それがどうしようもないくらいにリアルなものとして音楽家の内奥から迸り出たものであるということでした。いま、この瞬間、「こうでなくてはならない」という抜き差しならない実感のこもった音が、歌が聴こえてきたということ。それこそが、私にとって、彼女らの演奏の最大の魅力でした。これが聴きたくて横浜からはるばる三鷹まで聴きに行ったのですけれど、でも、彼女らが聴かせてくれた音楽の実感の強度は私の事前の想像を遥かに超えていました。

     

     特に、「クロイツェル」。全体的に、二人の演奏家が激しく音楽の奥深くに斬り込んでいくさまは、胸が痛くなるほどにシリアスでした。「あなた方は一体どうしてそこまで険しい道を歩まねばならないのか」と問いかけたくなるほどに。そして、火山の火口にグサリと刀を差し、真っ赤なマグマと、大きな溶岩を一気に噴出させるかのような凄まじい場面に何度遭遇したことでしょうか。

     もともと高いテンペラメントの音楽を指向する傾向にあるイブラギモヴァは、弓の毛を何本も切りながら一心不乱に音楽に没入し、どちらかといえばクールで優しい音楽が身上のティベルギアンも彼女と同化し、音楽に突き刺す刃物のキレを加速する。

     一方で、静かなところでは十分に繊細な弱音と、柔らかな歌を聴かせて酔わせてくれるのですが、それでさえも、核心の部分で音楽に挑みかかる彼女らの姿を見れば、ああ、あれはここで全力を注ぐための伏線で、来たるべき時のため、エネルギーを蓄積していたのかと思い至る。その即興的ともいえるほどに瞬間瞬間に燃焼する音楽は、これが緻密な分析と設計、冷静な熟慮から生まれてきたものではあるということを考えるいとまを、私たち聴き手には与えない。聴き手にも、その刹那の音に完全燃焼することを要求する。

     もちろん、そうした演奏をするには、音楽が粗雑になったり、場合によっては演奏が破綻したりしてしまう大きなリスクがある。ほんの少しテンポが前のめりになるとか、逆に緩んでしまうとか、ほんの僅かなミスによって音楽全体のフォルムが崩れることもあり得るし、もとより自らが目指したであろうものが壊れてしまう可能性もある。過ぎたるは猶及ばざるが如しという結果を招きかねない。

     それでも、彼女らは、そんなリスクを冒してでも、音楽にすさまじいほどのリアルさを求め、音楽の真実を駆け抜けようとする。その潔さというのか、音楽家としてのありようの部分に、私はただひたすら打たれ聴き入っていました。強烈な緊張感が漲った演奏にのめり込んだ末に、第3楽章の最後が輝かしく結ばれた瞬間の解放感はもはやエクスタシーに近かった。トルストイが、この曲を素材に性的な暗示の多い小説を書かずにいられなかったのも、気持ちがわかるような気がする。私がいくらイブラギモヴァ・ファンだからと言っても、贔屓が過ぎるのかもしれませんが、でも、演奏終了後の会場の熱狂的な拍手(昨年の所沢ほどではなかったですが)からすれば、それは、あながち私だけの勝手な興奮ではなかっただろうと思います。

     

     コンサート前半、モーツァルト、シューベルトでも、基本的には「クロイツェル」と同じ聴体験を得ることができました。

     

     もちろん、これらの曲は、「クロイツェル」とは性格がまったく異なる音楽で、もっと穏やかな曲調をもっていて、時には可憐に、時には典雅な雰囲気をたたえて進んでいきます。当然、彼女らもそれらの要素を大切にして、それぞれの作曲家の持ち味を優先させて演奏をしている。でも、やっぱりその音楽が「リアル」であるということにはまったく変わりがない。頭の中でひねり出し、こねくり回して拵えた表現は一切なく、歯が浮くような美辞麗句や、ありきたりのイディオムを持ち出してやり過ごすような空疎さとも無縁。

     モーツァルトの音楽が泉からとめどなく無尽蔵に流れ出すさまや、シューベルトの音楽の主体が濃やかな陰翳の境界を漂流しながらその内面に沈潜し、奥底深くから「歌」をすくい上げる過程が、一切嘘のない真実の響きとして現出する。

     特にシューベルトは、曲の規模の大きさ、内容の深さに見合うだけの充実した演奏だと感じました。冒頭のどこにも行かない茫洋とした静謐な歌が、徐々に形を得て、躍動と停滞の間を揺れ動きながら、最後の喜ばしい歌に到達していく。その息の長いプロセスを、一篇の散文詩のような起伏と、豊かなファンタジーを感じさせながら体感させてくれたのが嬉しかった。彼女らが、シューベルトの音楽にクレバスのようにちりばめられた恐ろしいほどの翳りを、きちんと描きだしているのも。

     また、最後のカンタービレも、ダクティルのリズムを硬めに聴かせることで、輝かしい肯定へとしっかりと大地を踏みしめながら歩んでいくような確かな足取りが感じとれて、良かった。きっと彼女らが読み取った楽譜の風景の中では、その強いリズムこそがリアルなものだったに違いない。そう思わずにいられないほどに、切羽詰まったような真実味のある演奏でした。シューベルトの音楽を愛する私にとって、彼の音楽をそんなふうに切実なものとして演奏してくれる音楽家の存在、これほど望ましく、嬉しいものはありません。

     

     でも、何だかんだといっても、やはり私はイブラギモヴァの「音」が好きです。モーツァルトのソナタ、彼女が発する最初の音を耳にしたとき、「ああ、この音が聴きたかった、この音をずっと心待ちにしていたんだ」という思いが駆け巡り、一瞬にして目の前が曇ってしまいました。いや、実のところ、ティベルギアンのピアノの最初の音を聴いた瞬間にも同じことが起きていました。どうしようもないくらいに好きな歌手の声(ジャンルは問わず)に触れたとき、身がとろけてしまう思いがして、その場にへたりこんでしまう、あの時の感覚とまったく同じものを、彼女らの音から感じてしまうのです。ほんの一つの音だけで、私という弱弱しい人間に、ポッと自己肯定感を灯してくれる音楽家は、セラピストであり、マジシャンでもあります。神格化してしまうとロクなことにならないので避けたいとは思うのですが、でも、やっぱり、イブラギモヴァは私の女神様、かもしれない。

     

     アンコールでモーツァルトのソナタの楽章を弾き終えた後、イブラギモヴァは拍手にこたえて深々とお辞儀をしながら、あの満面の笑顔をふりまいて私たち聴衆を魅了しました。ティベルギアンも彼女を紳士的にエスコートし、好青年らしい態度で答礼をしていました。この人たちの実演やディスク、あと何回聴けるだろうか、できるだけ多く聴けるように、長生きしなくてはと思いました。そして、今日は、王子ホールで、その彼女らのオール・シューベルト・プロを聴きに行きます。心を鬼にして仕事を切り上げ、またこの上もなくリアルな音楽に涙したいと思います。

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    2018.05.25 Friday

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