【演奏会 感想】クリストフ・エッシェンバッハ指揮NHK響  第1868回 定期公演(C)  (2017.10.20 NHKホール)

2017.10.23 Monday

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    ・クリストフ・エッシェンバッハ指揮NHK響  第1868回 定期公演(C)

     (2017.10.20 NHKホール)

     

     

     

     

     

     

     

     

    <<曲目>>

    ・ブラームス/交響曲第3番ヘ長調Op.90

    ・ブラームス/交響曲第2番ニ長調Op.73

     

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     屈折した音楽が聴きたいと思った。

     

     輝かしい才能と卓越した技術、優れた感性を持ち、胸のすくような華麗な音楽を聴かせてくれる指揮者は、たくさんいる。衝撃的とも言える斬新な演奏で、その曲に対する価値観や既成観念を叩き壊してくれるような天才も、いる。
     でも、いつもどこかに暗い翳りをたたえ、時に、ぎょっとするほど深刻な表情を見せる音楽、あるいは、深く静けさに沈み込み、聴き手を一瞬にして呑み込んでしまうブラックホールのような音楽、そういったものを聴かせてくれる指揮者はほとんどいなくなってしまった。ひたすら内向きの強いベクトルをもった音楽表現は、もう流行らない時代なのかもしれない。今活躍しているほとんどの指揮者は、内から外へと力を放射させる技術を磨いているし、演奏会でもディスクでも、そういう音楽が求められている。

     でも、演奏者に対して、「あなたはどうして私にそんな暗い瞳を投げかけるのか」と問いを投げかけ、「ああ、この、どこまでも深く沈んでいく力にすべてを預け堕ちるところまで堕ちてしまいたい」という願いに淫することのできる音楽も、たまには聴きたい。

     

     私の中のそんな思いが、私をエッシェンバッハ指揮N響の演奏するブラームスの交響曲のコンサートへと導いたのかもしれない。彼の指揮よりも、かつて期待の若手ピアニストとして売り出していた頃の演奏や、最近、ゲルネやティモスSQらと組んで演奏したドイツ歌曲のピアノ伴奏など、彼のピアノでありありと感じることのできる、そうしたどこか折れ曲がった感性で捉えられた「ネクラ」な音楽が聴けるのではないか、そう考えたから。

     

     実際に演奏を聴いてみて、その願いは、全体的には完全に満たされた訳ではなかった。なるほどその演奏には、一筋縄ではいかない、複雑な味わいがあった。時折、大きなアゴーギグがあったり(第3番の両端楽章)、抒情的な旋律でテンポをやや抑えてデリケートに歌う(第2番第1楽章第2主題)場面があったり、あるいはゆっくりやるだろうと思ったところで早めのテンポをとる(第2番第2楽章)など、ユニークな場面はあった。全体的に見ても、両翼配置をとった弦を始め、各楽器のバランスには独特のものもあり、これまでN響から聴いたことのないような響きも耳にした。ちょっと不器用で風変わりな棒から生まれるフレージングには、相応の武骨な手触りもあり、ただ耳に心地良い歌が滔々と流れるようなハッピーな音楽ではなかった。
     でも、それも想定の範囲内というか、常識の範疇に収まっていたような気がする。テンポも中庸からやや早めから遅めという範囲内に収まっていた。エッシェンバッハという指揮者が振っている割には、オーソドックスな演奏を聴いたというのが正直な感想。

     第3番は「ブラームスの英雄」などという的外れな論評とは無関係に、また、往年の大指揮者が聴かせた巨大な音楽とも違って、室内楽的なアンサンブルを主体にした親密な音楽になっていた。第2番は歓喜が爆発するような喜ばしく活力に満ちた音楽という訳ではないにせよ、第4楽章のコーダのクライマックスに向けて、じわじわとヴォルテージを上げていくその道筋には、至極まっとうな分かりやすさがあった。両曲とも第1楽章の提示部を繰り返し、音楽のスケールを2割増しくらいにはしていたけど、圧倒的というよりは、しみじみと味わいのある音楽を聴かせてもらったという充実感の方が強い。

     

     では、私の願いはかなわず、演奏が不満だったかというと、そうでは、ない。第3番の第3楽章で、私が望んだような、まさに「ネクラ」な音楽に出会えたから。

     

     冒頭、チェロが有名な主題を、フレーズの終わりのあちこちでため息のように間をとって、ためらいがちに歌う。もうその最初の一節を聴いただけで、「私が聴きたかったのはこういう音楽だ!」と心の中で叫ばずにいられなかった。

     その後も音楽は、後ろ髪を引かれるような思いに満ちて、なかなか前に進まない。弦楽器が弱音に沈みこめば、完全に時間が止まってしまう。長くとられた間合いの隙間から、オーボエが、潤んだ目で、痛みを孕んだ思いを心の奥底に押し込めながら、抑えた表情であの旋律を切々と歌い始める。
     中間部のパッセージでも、音楽の表情は沈んだまま、木管の軽やかな旋律に合いの手を打つ弦楽器の足取りは重い。そして、また消え入るようなピアニッシモがクレバスのように現れる。そして、聴き手が暗くて深い闇へ堕ちてくるのを、口をあんぐりあけて待ち受けている。

     やがて冒頭の主題がホルンによって歌われて思いは高まり、ヴァイオリンとチェロがユニゾンで歌う。でも、その時も、決して感情は開け放たない。むしろ外側には固く身を閉ざし、内側へと閉じこもっていく。その先にはもう、失ったものはもう二度と手に入らず、憧れていいたものは永遠に憧れでしかないのだと言い聞かせ、我が身の敗北を受け容れるような静けさしかない。
     その陰鬱な音楽の景色は、シューベルト(例えば「冬の旅」)やシューマンの音楽(例えば交響曲第2番)からまっすぐに続くものだし、例えば、フルトヴェングラー、ベーム、あるいは、バーンスタインの晩年の演奏などでずっと親しんできたもの。
     私はそういう音楽をいつも心の奥底で求めていたのだと思う。自分の心の状態とは関係がない。むしろ調子のよいときだからこそそんな音楽を聴くことができるのかもしれない。間違いなく言えるのは、私自身がそういう音楽の中に居場所を見つける人間であるということ。

     とにかく、そんなふうに私が心から欲している音楽を、思いがけずブラームスの3番の3楽章で聴けた、そのことだけで、エッシェンバッハとN響の演奏会を聴いて良かったと心から思う。


     それは、もしかすると、音楽の歪んだ聴き方なのかもしれない。健康的な音楽を、健康的に味わうことが大事なのかもしれない。でも、音楽って、そんなに一面的なものでもないのではないか。時には公序良俗に反するほどに、人間のネガティブな部分に訴えかけるような沈んだ音楽があっていい、いや、なくてはならないのではないか。この闇を知らなければ、光を感じることなんて意味はないんじゃないか。息が止まりそうなくらいに時間の流れが澱んだ音楽に心を震わせながら、そんなことを考えた。


     今回、急遽ゲスト首席奏者として客演した吉井瑞穂のこの楽章でのオーボエのソロは、もしかすると一生忘れられないのではないかというくらいに、哀しくて、優しくて、美しい音楽だった。それはもちろん指揮者のコンセプトを深く理解した上での表現だろうけれど、間違いなく彼女自身の内側から出てきた音楽に違いないと思わせる切実さがあって、だからこそひどく胸を打つものになったのだろうと思う。そして彼女の音楽が、N響の全団員(特に木管奏者たち)に強い刺激を与えていたことがひしひしと感じられた。

     

     こんなにも深沈たる音楽を聴けるのなら、他の楽章でも、もうちょっと過激な演奏を聴きたかったかなという気も、ちょっぴりしてしまう。でも、そんなことをしてなおかつ音楽として成立させることは至難の業だし、エッシェンバッハ自身も望んではいないのだろう。だから、私のそんなひねくれた不満は脇に置き、忘れがたい第3番第3楽章を体験できたこと、その幸せを噛みしめていたいと思う。

     

     N響は、正直、エッシェンバッハの独特の指揮ぶりにはまだ慣れていないような気がした。例えば、第3番、第2番とも、第1楽章の提示部では、1回目はどこか流れがギクシャクしていて決まらないもどかしさがあった。恐らく重みのある響きを求めて曖昧に振るような場面では、アンサンブルが乱れるケースもいくつかあった。
     けれど、提示部の繰り返し後は見違えるように音楽はスムーズに流れ、ここぞという場面でも重量感のある表現を生んでいたし、楽章を追うごとに指揮者とオケの一体感は増し、最終的には充足感に満ちた終結を迎えていた。

     

     エッシェンバッハという人は、最初はとっつきにくい指揮者なのかもしれない。でも、呼吸さえ合いだせば、大きなうねりをもった音楽をオーケストラから引き出す力がある。だから、これほどまでに世界中のオケから求められているのかもしれないと、そんなことを思った。これなら年末の「第9」も面白いかもしれないと、聴きに行くことを画策している。

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    2018.11.10 Saturday

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