【演奏会 感想】アレクセイ・リュビモフ ピアノ・リサイタル  (2017.11.05 文化シャッター BX ホール)

2017.11.06 Monday

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    ・アレクセイ・リュビモフ ピアノ・リサイタル

     (2017.11.05 文化シャッター BX ホール)

     

     

     

     

     

     

     

     

    <<曲目>>

    ・モーツアルト/ピアノ・ソナタ ハ短調KV 457

    ・ストラヴィンスキー/ピアノ・ソナタ 1924
    ・ハイドン/ピアノ・ソナタロ短調Hob. XVI:32.
    ・シルヴェストロフ/ ソナタ2番
    ・ショパン/ バラード3番、舟歌op.60、バラード4番

     

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     アレクセイ・リュビモフのピアノ・リサイタルを聴いてきました。プログラムは、モーツァルトのソナタハ短調K.457、ストラヴィンスキーのソナタ、ハイドンのソナタロ短調Hob. XVI:32、休憩を挟んで、シルヴェストロフのソナタ2番、ショパンのバラード3番、舟歌op.60、バラード4番。場所は、後楽園近くにある文化シャッターBXホール。

     

     「達人」の音楽を聴くことができました。その言葉の定義そのままに、技芸の奥義に達し、かつ、深く物事の道理に通じた人の音楽を聴いた、と感じたのです。

     

     前半は、ウィーン古典派の作曲家のソナタに、新古典派への転向直前のストラヴィンスキーのソナタを挟んだ絶妙のプログラム。モーツァルトとハイドンは短調の曲が選ばれていましたが、鳴り響いていたのは、デモーニッシュな激情でもなく、ゼスチャーとしての哀しみでもなく、ひたすら純度の高い音でした。その音の連なりや重なりは、もはや何かを表現しておらず、何かを伝達することを目的ともしていない。アインシュタインは、「思考すること、それ自体が目的だ。音楽と同様に」と言ったそうですが、まさに、今ここで鳴り響くことのみを目的とする音楽が存在しているかのようでした。

     

     どの曲も、これ以上削ってしまったら音楽ではなくなってしまうというほどに虚飾を排し、とことんまで切り詰めた引き算の音楽。しかし、そのことで却って聴き手のファンタジーを最大限にまで広げる。まさに俳句の世界を音楽にしてしまったかのような演奏を立て続けに聴いたと言っても良いのかもしれない。

     

     リュビモフは、背筋を伸ばし、節約した体の動きで、表情を一つも変えずにピアノを弾いていました。でも、その淡々とした姿とは裏腹に、彼は、その内側で、音楽と戯れているかのようでもありました。モーツァルトでは一つ一つの音を慈しみ、ストラヴィンスキーではチェスを打つかのように音と知的なゲームを繰り広げ、ハイドンでは音と対話し、その愉悦がさほど大きくないホールの空間を満たしていたのです。

     

     会場の大きさに合わせてダイナミクスを抑え、ペダルも控えめに使い、彼自身が楽しんでいる音との戯れを、より親密で、オープンなものにする。そして、それを聴衆と分かち合う。彼は、そのことに最大の注意を払っていると私には感じられました。

     

     リュビモフのそうした音楽との向き合い方は、後半のシルヴェストロフとショパンにおいても一貫していました。


     シルヴェストロフのソナタは、6年前にすみだトリフォニーホールでも聴きましたが、彼自身の変化、そして聴く側の私の変化もあってか、感銘の度合いを深めていたように思います。その音楽が何を表現しているかは分かりませんが、ピアノの低音部の弦を左手で叩き不気味な響きを作り出すと、それに応えて高音部で千変万化する和音が、ひそやかに鳴り響く。対立するかのような緊張感をもった対話が、徐々に甘くセンチメンタルな調べへと変質していく。天上的に美しい音楽と、低音の不気味なトリルとが混じり合いながら、音楽の位相を少しずつ変えていくさまは、シューベルトの最後のソナタや即興曲と構造がどこか似ている。だから、私はこの作曲家の音楽に惹かれるのだということを、改めて認識することができました。


     そして、ショパンは、もう何を言えば良いでしょうか。バラード2曲、舟歌、いずれも、大ホール向けの演奏ではなく、やはりサロンコンサートにこそふさわしいコンパクトな音楽でした。「舟歌」の高貴にして儚い歌には、参りましたし、抑制された音の運びの中から凛とした抒情が立ち昇るバラードも心に残りました。じっくりと耳を傾け、その音楽の流れに乗って浮かんでいるだけで、もう幸せで幸せでたまらない、そんな時間を過ごしました。散々聴いて耳にタコができたこれらの名曲たちには、まだこんな美しさがあったのかと驚きました。音楽の底知れない奥深さを思い知った気がします。

     

     アンコールもありました。彼はまずモーツァルトのソナタの楽章、そして、シルヴェストロフのポストリュードを3曲弾きました。後者は、完売となった9日のシルヴェストロフ80歳記念コンサートを聴けない人のためにと、当初2曲追加と発表されていたのですが、結局は3曲を披露してくれた。私は、もうただ恍惚の境地でその美しい音楽を楽しませてもらいましたが、「もう1曲」とばかり、彼は、徐にシューベルトの即興曲D.899-3を弾き始めました。それは、まさにシルヴェストロフのソナタ同様に、不気味に蠢く左手のトリルと、どこまでも美しい天上の音楽が共存する音楽。リュビモフは、とてもゆったりしたテンポをとって、大きな呼吸を見せながら、ダイナミクスを抑え、繊細で儚げな弱音を駆使して演奏していました。私にとっての「命の水」ともいうべきシューベルトの音楽の真髄に触れることができました。この曲を聴けるとは予測しておらなかったので、思いがけないプレゼントを贈ってもらえてこの上もない幸せを噛みしめながら、演奏を味わいました。こうなったら、リュビモフには最後のソナタだけでもぜひ弾いて聴かせてほしい。その日が来ることを願わずにはいられません。

     

     演奏会を通して、リュビモフは、先ほど述べたように、ただ鳴り響くことを目的としたような純粋無垢な音楽を奏でていました。しかし、私という聴き手は、その音楽からさまざまなイメージや印象を広げて音楽を味わい、心を慰められたり、形而上学的な啓示のようなものを得たりする。音楽の美しさの根源は、言うまでもなく、音そのものにあります。でも、私たちは、音楽理論や科学で説明できることだけに美を見いだしたり、心を動かされたりしている訳ではない。音が動き、重なり、連なって音楽となっていく過程のなかで、生きていく上で感じているものと重なり合うものを見いだし、そこから何がしかの糧となるようなものを得ることもある。今日のリサイタルは、そのことをまざまざと実感させてもらったような気がします。そんな稀有の体験をさせてもらったから、私はリュビモフを達人と呼びたいのです。

     

     私が人生の終わりを迎えようとするとき、窓から外の景色を見ながら、リュビモフのシルヴェストロフやシューベルト、そしてモーツァルトを聴いた時の幸せを反芻したい。「ああ、そんなに悪くない人生を送れたな」と思えるかもしれないからです。

     

     ところで、今回のリュビモフのリサイタルは、様々な紆余曲折があって、急遽開催が決まったのだそうです。よくぞ困難な状況を乗り越え、こんなにも素晴らしい演奏会を開いて頂けたものだと、関係者のご尽力に感謝するしかありません。リュビモフの優しい気遣いにも胸を打たれました。そして、今回の演奏会の形態は、今後の東京(あるいは日本)の演奏会のあり方に、何かヒントを与えるものがあるかもしれないと思います。それが具体的にどういうものかは、いずれブログで書きたいのですが、音楽の場を確保するために、公共の支援を頼るのがますます難しくなっている折、新しい流れが生まれてくる予感があります。きっともうどなたかがそんなことは見抜いて書かれているかもしれませんけれど。

     

     そうそう、会場では、リュビモフがロシアから持ってきたという日本未発売のCDが即売されていました。中には弟子の若いピアニストと録音したストラヴィンスキーの4手のピアノ作品集があって、「春の祭典」(リュビモフ自身が2台のピアノ用に拡張したバージョン)も入っていたので、購入しました。事情があって、いま「ハルサイ」を聴きまくっているので、ちょうど良い。楽しみに聴きたいと思います。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     それから、もう一つ。最近、リュビモフは、私の大好きなヴァイオリニスト、アマンディーヌベイエ率いるリ・インコーニティと共演したらしい。何と刺激的な組み合わせでしょうか。是非ナマで聴いてみたいし、CDもほしい。

     

     

    Facebook "Niusic - Artist Management & Communication Agency"より

     

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    2018.09.18 Tuesday

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