【演奏会 感想】アンドリス・ネルソンス指揮ボストン響、ギル・シャハム(Vn) (2017.11.07 サントリーホール)

2017.11.24 Friday

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    <<曲目>>

    ・チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.35

    ・J.S.バッハ/無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番〜ガヴォット(アンコール)

    ・ショスタコーヴィチ:交響曲第11番 ト短調 op.103 「1905年」

    ・ショスタコーヴィチ:ミュージカル「モスクワ・チョムリョーシキ」〜ギャロップ(アンコール)」

    ・バーンスタイン/オーケストラのためのディヴェルティメント〜ワルツ(アンコール)

     

    アンドリス・ネルソンス指揮ボストン響、ギル・シャハム(Vn)

    (2017.11.07 サントリーホール)

     

     最近、「コミンテルンの陰謀」という言葉を何度か見かけました。それは昔からよくある話ではなくて、新バージョン。「日本死ね」で大きく取り上げられた待機児童問題は、息を吹き返しつつあるコミンテルンの陰謀なのだと主張する方がいたのです。

     

     もしかすると、その人からすれば、ボストン交響楽団が来日して、ショスタコーヴィチの交響曲第11番を演奏するなどというのは、まさに「コミンテルンの陰謀」に見えたかもしれません。
     だって、ショスタコーヴィチの11番は、ロシア革命40周年を記念して書かれた、バリバリの共産主義プロパガンダ音楽(※注)なのですから。しかも、演奏会が開かれた11月7日は、まさにちょうど100年前に「十月革命」が勃発したその日で、我が国の首相は、最近、毎日のように「革命」という言葉を連呼している。そして、その筋の人たちから「反日左翼」とまで攻撃される皇室から、皇太子ご夫妻が、演奏会場のサントリーホールにご臨席。

     ロシア革命を熱烈に賛美し、日本人を革命思想で洗脳するために仕掛けられたプロパガンダ演奏会ではないかと勘繰る人が出てもおかしくないような状況ではなかったでしょうか。でも、幸いにして、皇室お付き警備の人たち以外は、ものものしい状況は見られなかった。この演奏会は、その筋の人たちの関心を引くことはなかったのかもしれないと、内心ホッとしました。

     

    注:バリバリのプロパガンダ音楽と捉えられていたのは、ヴォルコフの「証言」出版(70年代末)くらいまでのこと。以降は、同時期のハンガリー動乱でのソ連の横暴に対する抗議として書かれたのではないかという見方も出ており、文字通りの革命賛美、プロパガンダ音楽とは見なせないという考え方が一般的。ただ、作曲者本人は公式発言以外にはこの曲についてあまり触れておらず、ハンガリー動乱との関連は実証はされていないとのことです。

     

     それにしても、ショスタコーヴィチの11番を、一流の外来オケで聴ける日が来るなんて夢のようです。偏愛するこの交響曲に大学生の頃に出会ってからから、それなりの回数の実演に接してはきましたが、来日公演に持ってくるオケはボストンが初めてと記憶します。編成が大きく、体力を消耗する大曲である割には、数字が読めなさそうなマイナーな曲なので、リスクを負ってまでやろうという団体がなかったのでしょうか。

     そこを敢えて、アンドリス・ネルソンスとボストン響が日本に持ってきたのは、来日直前に地元で演奏し、レコーディングも済ませたので、リハーサルが少なくて済むという事情もあるかもしれない。いずれにせよ、苦節30年、この曲を、超一流の指揮者とオケで聴きたいという願望が叶えられる日が、いや、私の時代がついにやってきた。

     

     その彼らの演奏するショスタコーヴィチの11番は、どんな演奏だったか。

     

     指揮者のネルソンスが示してくれた音楽の姿は、実にオーソドックスなものでした。私がこれまで聴いてきたすべて演奏のド真ん中に位置するというか、すべてを平準化してみたらこんなのになりましたと、いうような。まさに正攻法の音楽というしかない。

     全体的にゆったりしたテンポをとり、要所要所ではオーケストラの手綱を締め、ドラマティックな音楽を作りながらも、常に安定した音楽の流れを絶やさない。どこか突出したエキセントリックな表現を追い求めることもない。
     第1楽章のティンパニのモチーフを、ゆらぎをもって叩かせ、何かもの言いたげな雰囲気を醸し出すとか、第2楽章の「血の日曜日事件」での一斉射撃を描写したフガートを極端なテンポ(超特急もしくは重戦車のように遅く)で弾かせるとか、第3楽章を綿々と歌うか、逆に、不気味なくらいに早いテンポでやったりとか、あるいは、第4楽章の最後で鐘を響かせたままにしたりはしない。第4楽章冒頭、革命歌「圧制者よ、激怒せよ」の旋律を、遅いテンポで金管に吹かせ、続く低弦のリズムでテンポを早めるのも常識の範囲内。ましてや、指揮台から客席にクルリと向いて・・というようなパフォーマンスもない。ちょっとユニークだったのは、第3楽章189小節からのトランペットとティンパニの頭欠け6連符で少しテンポを早めた(最近出たスクロヴァチェフスキ盤がかなり過激にやっている)くらいでしょうか。
     ネルソンスから見たこの交響曲は、第一義的には、ベートーヴェンからマーラーの流れを汲む純粋な器楽交響曲。コミンテルンの陰謀などが入り込む余地皆無の、政治を持ち込まない、ソビエト臭ゼロの音楽でした。このところ、そんなショスタコーヴィチの演奏を聴く機会が増えているので珍しかった訳ではありませんが、これほどまでに親しみやすく、あたたかい血の通った演奏は多くはないと思います。ショスタコーヴィチの最もマイナーな部類に入る交響曲が、長い年月をかけ、「特殊」を通過して、もはや「普遍」にまで達したのだという宣言を聞いたような気がしました。そして、それでいて決して安易な音楽づくりにながれることなく、高い次元でやってのけたネルソンスという指揮者の力量をまざまざと見せつけられた気がしました。

     オーケストラも素晴らしい。その隅々まで磨かれた響きは、濁りがなく美しかった。柔らかい暖色系の音色は味わい深い。アンサンブルも鉄壁。いささかの乱れも見せず、さりとて、指揮者がガチガチに制御した形跡はなくどこまでも自然。管楽器のソロはべらぼうに巧く危なげない。各楽章のクライマックスでの爆発的な強音から、聴こえるか聴こえないかというような最弱音まで、ダイナミックレンジも広い。音のソノリティも十分。無理なく、ムラなく、各パートが楽器を鳴らし切っているので、音圧のものすごい高さの割に、詰まった感じは皆無。

     

     そんなボストン響の音を聴いていて、正直なところ、自分でもびっくりしたのですが、私が感じたのは、日本のオケとの差が大幅に縮まっているのでは?ということでした。学生時代、来日したアメリカのオケを聴いた(当時は貧乏学生でも普通に聴けたのですが・・・)とき、日頃聴いている在京オケのレベルとの余りの差に愕然としました。これをオーケストラと呼ぶのなら、私たちはいつも何を聴いているのかと。

     ところが、今回のボストン響の演奏を聴いていて、そういう感覚を覚えることはほとんどなかった。これと互角とまではいかないまでも、かなりいいところまで勝負できる音楽を、私たちは日常的に聴けているのだなとしみじみと実感しました。

    しかし、そうは言っても、やっぱりボストン響が奏でた音楽は、何ランクか上のものと思わずにいられなかった。いったい、日本のオケに比べて何が優れているのかと聴きながら考えていたのですが、「基本がしっかりできている」、いや、「基本が美しい」ということなんじゃないかと思いました。
     例えば、第2楽章の225小節以降、第1Vnと第2Vnが三度できれいにハモリながら革命歌「おお、皇帝われらが父よ」のメロディを歌うのですが、ここは信じられないくらいに響きが美しかった。ただ音程が良いというのだけでなく、響きが痩せない程度の音程の幅は許容しつつ、各奏者のイントネーションが完璧に揃っている。三度でハモるなんて西洋音楽の基本、プロオケならどこでもきれいに響かせられるはずですが、それをこんなふうに陶然となるほどに美しく、しかも、それをごく普通のルーチンとしてやってのける、それこそ超一流の証だろうと思いました。何でもないドリブルやパスを見ているだけでうっとりさせてくれる名サッカー選手のような。

     これに限らず、こういうシンプルな基本が、いちいちきちんとできている。そして、その上で難度の高いことをやっている。だから凄い音が生まれてくる。日本のオケが更なるレベルアップを図るためには、こうした「基本中の基本」「オーケストラのさしすせそ(そんなのあるのか?)」みたいなところに磨きをかけ、一つ一つ積み重ねていく必要があるのだろうなと思いました。勿論、日本のオケの楽団員の方々の、血の滲むような長期間の努力の末、相当に高いレベルにまで到達したことは本当に嬉しい限りなのですけれど、上には上が、ということなのでしょうか。

     

     脱線してしまいました。

     

     このように、数え上げればきりがないくらいに、美質と魅力とをたくさんもった演奏を聴くことができました。何かのレコードの宣伝文句の如く「これ以上何をお望みですか?」と聞かれたら、何と言えば良いかわからないくらいに。ただ、もうこれは好みの問題というか、認識の相違というしかないのですが、モゴモゴと口ごもりながら、「これ以上の演奏はないかもしれない。ただし、これ以外のものを望みさえしなければ」と。

     

     もうこれは好みの問題、認識の相違というしかないのですが、私はこれだけ質の高い演奏を聴きながら、あまり心が動なかった。ゆとりある運びの中で、とことん調和した音楽として響く「1905年」は、私のイメージと違うというよりも、私とは関係のないよそよそしいものだった、としか言いようがない。
     私が求めていた「これ以外」とは何かと考えたのですが、たぶん、「第一人称の音楽」なのだろうと思います。
    あの「血の日曜事件」のときにサンクトペテルブルグ宮殿の前に集まったたくさんの「私」。皇帝の軍隊による一斉射撃で容赦なく降り注ぐ銃弾の中、慌てふためき、逃げまどい、やがて斃れていった「私」。目を覆いたくなる阿鼻叫喚の中で、すべての「私」が発したであろう「なぜ?」という自問。悪夢が終わって鉛のような沈黙が広がる中、死体が累々と重なり、宮殿前の広場が鮮血で染まる光景を前に、あるいは、脳内で想像して、呆然とする「私」。そして、非人道的な行いへの激しい怒りと、死者への鎮魂の祈りを、五線譜に書きつけた「私」と、楽譜の背後にあるものを肚の底で感じながら音にする「私」・・・。
     それら無数の「私」が複雑に混じり合い、まさに群衆の姿として立ち現れる音楽。扱いを誤れば悲惨な事態を招きかねない、非常にきわどいギリギリのところで成り立った音楽。そういう「特殊」な「個」を、高圧力の容器の中で融合させ、ついに「普遍」へと昇華させてしまったというような音楽を、私は聴きたかった。演奏のスタイル、細部の扱い、そうした音楽の表層は、どうでもいい。ソビエト臭、政治臭があろうがなかろうが構わない。ただ私は、音量とかテンポには表れない「気」のようなものの中から、はらわたがちぎれるような痛み、声も出ないほどの激しい慟哭、「個」を薙ぎ倒していく「全体」への「甘く見るな」という警告、そういったものを私の心の中で生み出してくれるような激烈な音楽が聴きたかった。そしてその音楽と完全に一体となりたかった。


     ネルソンスとボストン響の面々は、そうした私の思いとは全く別のところで、この曲を演奏していたとしか言いようがありません。あくまで彼らは、「第三人称の音楽」を追求し、それによってこそ「普遍」の地平へとこの曲を導くことができると信じて疑っていないようでした。でも、最初に普遍ありきの音楽の中では、パーソナルな人間の痛みや葛藤、苦悩は、大きな音のうねりの中に溶け込んでしまうし、大音量を伴って演奏される音のドラマからは生々しさが消え、リアルな痛みを聴き手にもたらすこともない。恐らく、ショスタコーヴィチの音楽が苦手だという人にとっては、こういう演奏でこそ聴きやすいのでしょうが、長年にわたって自分の偏った好みを築き上げてしまった私にはどうしても物足りない。

     でも、演奏者たちにとっては「それ以外」のものを私が望んでいるのですから、それはお門違いの不満でしかありません。ですから、このギャップを残念だとも思わないし、ましてや、演奏が良くなかったなどというつもりはまったくありません。実際素晴らしかったのですから。
     ある音楽を聴いて、自分が聴きたいものが聴けなかったというのは、結局のところ私にとっては「予定調和ではない」演奏だったということですから、それは、とてもつまらない聴き方なのかもしれません。でも、曲に対する思い入れが強ければ強いほど、自分の狭い了見の中から出て、新しい視座から曲を聴くというのはなかなか難しい。それを人はこだわりと呼ぶのでしょうが。でも、だからこそ、自分のこだわりを超越したところで共感できる音楽に出会ったときには、とてつもなく深い感銘を受けるのだということもある。ただ今回はそうはならなかった、ということ。まあそんなこともあるさと思うしかありません。

     

     前半は、ギル・シャハムを独奏者に迎えたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。こちらは屈託のない、明るく、楽しいエンターテイメントに徹した演奏と聴きました。管楽器のソロなどとろけそうなくらいに美しい(特に第2楽章)。シャハムは、興に乗ると指揮台のすぐ傍まで近寄り、オーケストラの面々とアイコンタクトをとりながら起伏の大きなソロを弾く。独奏者が仕掛けると、指揮者とオケは敏感に反応し、まさにコンチェルタンテな愉悦をふりまきながら、演奏は進んでいく。甘美な旋律、豊かなハーモニー、沸き立つリズム、そして、翳りのあるメランコリー、いずれも誠実に、そして柔らかに表現し、音楽に彩を添えていく。聴き終わって、ああ、楽しかった、と声が漏れそう。
     アンコールで弾いたバッハのガヴォットは、それこそ「ピリオド奏法って何それおいしいの」タイプの演奏でしたが、最近出たCDよりも少し落ち着いたテンポで弾いた楽しいものでした。

     

     アンコールは2曲。まずショスタコーヴィチのミュージカル「モスクワ・チョムリョーシキ」からギャロップ。この曲は、シャイーの組曲版CDが出たときからの私のお気に入りのもので、実演で聴いたのは初めてかもしれません。途中で出てくるクラリネットの旋律は、山本直純作曲の「歌えバンバン」のサビ「歌 歌え 歌 歌え 歌えバンバンバンバンバン」の部分の元ネタ(つまり、山本がここから拝借したのでは?)だと一人で騒いでいる(まったく反応なし)のですが、そんなことはどうでもいい。ネルソンスはテンポをゆっくりめにとって、タテノリよりも、旋律のスイング感を大事にしていて面白かった。オケも羽目を外しすぎず、でも十分に弾けて演奏していて嬉しかった。

     

     そして、最後はバーンスタインがボストン響のために書いた「ディベルティメント」からワルツ。チャイコフスキーの「悲愴」の5拍子のワルツに敬意を表して、7拍子で書かれたワルツなのですが、これもバーンスタインの熱狂的なファンである私には偏愛する音楽なのです。自分の結婚式の披露宴の退場の音楽として、このワルツをエンドレスで流したくらいに。ボストン響ゆかりの作曲家が書いた、楽団ゆかりの音楽を、指揮者もオケも慈しむように大切に演奏していて、そのあまりに優しい響きに打たれました。ああ、私は何とバーンスタインの音楽を愛しているのだろうか、と改めて痛感した次第です。

     

     演奏会がすべて終わって、ネルソンスへのソロカーテンコール後、皇太子夫妻が客席を出ていきました。

     

     そのお二人の後ろ姿を見ながら、ショスタコの11番の題材である「血の日曜日事件」の後、ロシア最後の皇帝ニコライ二世とその家族がたどった運命を思い、ニコライ二世と縁の深い日本の皇室の方々がこの交響曲を聴くのは、酷な状況だったのでは?などと要らぬ心配をしてしまいました。でも、皇太子夫妻は、それら史実を踏まえてもなお、素晴らしい音楽を満喫されたのだろうと(勝手に)想像します。特に、第3楽章の「同志は斃れぬ」引用部分では、ヴィオラを嗜む皇太子にとっては、ひときわ胸に響く音楽だったに違いありません。
     でも、それより何より、皇太子妃がお元気そうに見えたことが、とても嬉しかった。メンタルに問題を抱えて立ち止まった経験のある私には、彼女の苦境はまったく他人事ではないからです。どうか、愛する家族に囲まれ、素晴らしい芸術にも触れ、心身ともに健康に過ごしてください、と祈るような気持ちで、お二人の後姿を見送りました。

     

     この演奏会が、「コミンテルンの陰謀」だったかどうかは、コミンテルンの回し者ではない私には、わかりません。そうだったかもしれないし、そうじゃない可能性の方が高いような気もします。それよりも、「コミンテルンの陰謀だなんて言わせない」というくらいにピュアな音楽に不満を持っている私こそ、実は何かで「コミンテルン」に洗脳されてしまっているかもしれない。確かに私は絶滅危惧種の、サヨク、リベラル思想に染まった人間ですから。

     でも、コミンテルンなんてものはこの際関係なく、ショスタコーヴィチの11番がこれからもっと実演で取り上げる機会が増えますように、そして、作曲家バーンスタインの残した音楽も、来年の生誕100年を機に、もっと価値が認められますようにと祈りつつ、このエントリーを閉じます。

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    2018.11.10 Saturday

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