【雑記】クラシック音楽はイベント化しているのか?

2017.11.27 Monday

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    ・雑誌「東京人」2017年10月号

     「クラシック音楽都市?東京」

     

     

     


     

     

     少し前、上岡敏之指揮新日本フィルの演奏会を聴きに行きました。目当ては、中プロの協奏曲の独奏者だったのですが、それ以上に、前プロとメインのオケだけの曲の演奏を楽しみました。それらはどちらかというとマイナーで、さほど聴きやすい音楽でもないのですが、彼らはそれをまったく飽きさせずに聴かせてしまった。これまで上岡の指揮は実演では聴いたことがなかったのですが、これは人気が出て然るべき人だと遅ればせながら認識した次第。

     

     

     客席で上岡の後ろ姿を見ながら、私は少し前の雑誌に載った彼のインタビューの記事を思い出していました。

     

    質問者:東京は果たして音楽都市と言えるでしょうか。
    上岡:僕は言えないと思いますね。イベント都市だと思います。クラシック音楽のイベント化って今、激しいじゃないですか。

    雑誌「東京人」10月号「クラシック音楽都市?東京」p.91

     

     続けて彼は、外来のものはチケットが高くても売れる、そういう傾向には対抗したい、そして、新日フィルとトリフォニーホールが、街の誰にとっても自分の人生に関係のある場所だと思ってほしいと言っています。

     

     私は、この「イベント化」という言葉に引っかかりました。引っかかったというのは、その言葉に反感を抱いたとか、東京がイベント都市だというのと違う意見を持ったという訳ではありません。一ファンにすぎず、とてもコンサートゴーアーとは呼べない私は、音楽業界の事情に全然通じていないし流行にも疎いからです。そして、何より、彼がどういう意味でこの言葉を定義しているのかさえも実はよくわかっていない。

     

     クラシック音楽の「激しいイベント化」とは、具体的に何のどういうありようを指すのでしょうか。例えば、ポピュラー畑の人たちとのコラボとか、初心者向けにもアピールする大衆的なコンサートとかを指すのでしょうか?あるいは、人気音楽家を呼んでの演奏会もイベント?ゴールデンウィークに銀座でやっている音楽祭はどうなのでしょう?どの辺に「イベントとしての演奏会」と「イベントではない演奏会」の境目があるのでしょう?

     いろいろ考えてはみたけれど、よくわからない。なぜわからないかと考えてみるに、私は、そもそも演奏会にはイベントとしての性格があると思っているからだと気づきました。私にとって、コンサートとは、豪華に贅沢を楽しむものでも、仲間と時間を共有し語らう社交の場でもなく(あ、そもそも友達が少ないのだった)、よほど目玉が飛び出るくらいの高額入場料のものでなければ、ごく普通に日常の暮らしのなかにあるものです。

     しかし、そこで鳴り響く音楽、音楽家との交流はきわめて非日常的な「ハレ」のものであり、出来事、事件としての「イベント」そのものです。そして、今流行りの言葉を使えば、モノでもカネでもなく「トキ」を楽しむもの。私だけでなく、多くの聴衆にとっても、それは共有可能な考え方ではないかと思います。

     

     だから、その意味において考えれば、クラシックに限らず、音楽を聴くならディスクやラジオよりライヴという志向が非常に強まっている今、音楽が「イベント化」するのは当然のこと。しかも、音楽の作り手としても、自らの活動の後ろ楯となるものを獲得するための「営業」は必要であり、音楽の作り手が営利団体でもある以上それは避けられない。

     

     でも、上岡は、「イベント化」という言葉を良くないニュアンスをもったものとして捉えていることは、前述のインタビューの文脈から明らかに読み取れます。「イベント化」が、とにかく解決すべき問題として設定され、我々に提示されている。

     

     そもそもコンサートはイベントだから、そんなのは問題じゃないんだと訳知り顔でイケノブ的態度をとるだけの理屈も、作り手も聴き手も問題だと上から目線で指摘だけしてドヤ顔するルリー的スタンスをとる度胸もない小市民たる私は、「クラシック音楽のイベント化」がとにかく良くない事態を引き起こす問題なのだとして、その「イベント化」という言葉の意味が何なのかを、愚直に考えたいと思いました。

     

     言葉の意味は分からないながらも、上岡が投げかけた危機意識にはどことなく共感するものがあるからです。

     

     でも、それは音楽ファンとしてではなく、一人のサラリーマン、技術者としてのものです。自分がその外側にしかいないなかで提起された問題に対しては、何か自分にも共通する土俵に載せて自分の言葉に変換して考えるのでないと、実感のこもったものとして感じ、何かを考えることなど不可能だからです。

     

     では、上岡の言葉が、私の中で、どんな波紋を生み、いったい何がどう共鳴したのか、答えが出ないままぼんやりと考えていたときに、地上波で初めて放送された映画「シン・ゴジラ」を見ていてそこで発せられた言葉にハッとしました。

     

     スクラップ・アンド・ビルド。

     

     ああ、これかもな、と思いました。映画では、竹野内豊演じる官房長官代理が「日本はこれまでスクラップ・アンド・ビルドでのし上がってきた。また立ち直れるさ」と言います。その前に「せっかく崩壊した首都と政府だ」とも言っているので、「作っては完全に壊し、壊しては作り」くらいの意味をもった言葉として、(震災からの復興を意識し)登場人物に言わせたセリフだったと思います。経済や政治の世界でいう専門用語(非効率な組織や部品を新しいものと交換するなどの意味)としてではなく。

     

     

     この映画、私は昨年に映画館でも見ました。そのとき、私は、この映画のテーマは「日本を救うことができるのは、調整型リーダーと、オタク的知識をもつ専門家集団たる優秀な現場であり、スクラップ・アンド・ビルドの手法だ」ということだと思いました。

     日本の国家においては、強いリーダーシップをとる大統領的リーダーは危機には役に立たない。むしろ弊害となる。
    日本の社会においては、グローバルで広い視点から物事を俯瞰でき論が立てられる人よりも、一つの分野に恐ろしく通じ経験を積んだ専門家が力を発揮する。

     そして、日本では、それらの人々の力を最も活かせるのは災害や戦争ですべてが崩壊してしまい、そこからの再建をするとき。最悪の事態を避けるためにリスク管理をおこない、物事を堅牢にビルドする考え方は風土に合わない。これまでの日本の歴史を振り返れば、何度もそうした「再建」があったのだけれど、第二次世界大戦での「スクラップ・アンド・ビルド」では、経済的に大成功を収めた。そもそもそういう物事の進め方が得意。

     

     

     映画では、そのような「日本」の姿が、ほとんどコミカルなまでに的確に描かれている気がして、私はほとんど笑いながら映画を見ていたのでした。

     

     自分のいる業界でも事態はあまり変わりません。我々ソフトウェア業界では、まったく新規の開発案件にたずさわることは稀なケースで、ほとんどの場合は既存のものを修正し、追加、削除して要求を満たす派生開発。それは新規のものとは違うプロセスで作るべきで、安定させる部分はゆるぎなく堅牢に作り、変化させるところは柔軟に作るような設計と、プロセスによって開発を進めるべき。
     しかし、我々の雇用形態や組織のあり方などが足かせになり、まるで新規案件のようなプロセスで、つまり、スクラップ・アンド・ビルドに近い状況で開発せざるを得ないことがあります。お金がないので人が減らされ、プロジェクトの知識のない新しいメンバーが(外部から)かき集められるのですが、前のプロジェクトの知識が可視化・体系化されていないがために、現場は混乱する。以前の成果物をうまく使えれば手間が省けたところ、それがどこにあるかわからない、あってもメンテされていないというような状況では、結局、前と同じ罠に再びかかって同じ失敗をしたりする。まったくもって時間の無駄。

     そうしたことが度重なっていくうちは、組織には、知識やスキルが蓄積されません。それらは人に蓄積されていくばかりです。しかも、その人たちは、プロジェクトが終わるとちりぢりになる。となると、非常に残念なことに、開発のたびごとに大部分がリセットされ、前の成果物がスクラップ同然になって、得られた知見も消えてしまう。根本的に設計を見直して、もっと流用性の高いものを作ろうとしても、結局工数がないので先送りになり、抽出された問題も宙ぶらりんのままになる。

     

     私のいるソフトウェア業界では、こういう問題を随分前から指摘する人は何人もいます。多くの人たちがその問題の所在を認識してもいます。派生開発において、特に上流工程での成果物とプロセスの品質向上は急務であり、それに関する本も出ているし、研究会なども盛んです。でも、そこからなされる提案が、現場にはなかなか反映されない。日々のスクラップ・アンド・ビルドをこなすのに精一杯だからです。
     一時期、プロトタイプを作っては壊しながら成長させていくアジャイルという開発手法が大流行した(今も信奉者は結構いる)のも、そういうスクラップ・アンド・ビルド的気質をもった人たちに大ウケしたということなのかもしれない。ちゃんと上流工程の品質を上げてからやらないと、結局はデスマーチにしかならないことの方が多いのだけれど・・・。

     

     思わず仕事の愚痴になってしまいました。

     

     話を戻すと、イベントというのも、本質的にはスクラップ・アンド・ビルド、つまり、作っては壊し、壊しては作りというプロセスでできあがるものです。
     ある一定期間の「催し物」、あるいはプロジェクトのためにヒトとカネとモノが集められ、なにもなかったところに新しいものがビルドされる。プロジェクトが終わったとたんに、ビルドされたものはあっというまにきれいに撤去され、携わった人たちも撤収し、完全な更地になる。スクラップ。そして次にはまた別のプロジェクトがやってきて、新しいものがあっという間にビルドされる。
     あるいは、コンサートそのものが、スクラップ・アンド・ビルドのプロセスで作られるとも言えます。ある決まった日時に音楽家と聴衆が会場にやって来て、終わったらバラバラにもとの場所に戻り、会場も空っぽになるからです。一度作ったものは、終わったらすぐに次のものへと替えられてしまう。

     ただ、そのコンサートには必ず準備期間があり、再演があり、音楽家、聴衆の「記憶」に残るものがあります。それらの記憶は、多くの人たちの間で共有されたまま堆積していき、時代が代わって世代交代が起きても、素晴らしき音楽の体験はずっと語り継がれ、記録されたものが聴き継がれていく。そうして文化が形成され、歴史となっていく。
     それは、歴史や文化のとても重要な側面だと思うのです。例えば、ベルリンやニューヨーク、ロンドン、あるいはウィーンといった音楽都市には、そうした記憶があちこちに残っていて、だから音楽の層がとてつもなく厚く、多様なものになっているのだろうと思います。その断面を見たときには、歴史の重みをひしひしと感じることになる訳です。

     

     上岡の発言が、昨今のクラシック音楽界では、そうした「積み重ね」が難しくなっている、あるいは不可能であるという認識にたってなされたものであるのなら、それは素朴に「やばい」んじゃないだろうかと思います。
     結局のところ、寄せ集め的単発イベントが、スクラップ・アンド・ビルド的に数多くおこなわれたとしても、それは都市、街、地方の「記憶」にはなりにくいからです。そこに集まる人も、イベントに吸い寄せられてくる人たちやツーリストばかりだと、本当に良いもの、価値のあるものに正当にしく日が当たらず、日蔭で枯れてしまうことにもなりかねない。

     音楽家の間でも、せっかく時間をかけて築き上げたものが都度リセットされてしまうのでは、またやり直しの時間がもったいないし、そもそも本当の意味での「新しいもの」は作れなくなります。「伝統」とは悪しき習慣と紙一重ですが、古いもの、更新されるべきものがあるからこそ、「新しさ」への要請が出てくるのであって、その古いものとの差分の中にこそ、新しさの種があるからです。我々の仕事の中でも、イノベーションの大部分はリノベーションから始まるということは日々実感していること。スクラップ・アンド・ビルドばかりやっていては、そのおいしい種を捨ててしまうことにしかならない。

     

     もし今、クラシック音楽の世界がそういう状況になってしまっているのだとしたら、例えば、東京でおこなわれているコンサートは、美術館で言えば企画展ばかりが商業的に成功して、常設展はガラガラという状況に似ているのでしょうか。例えば、今やっている「運慶展」とか「怖い絵」展とか。前者には行きましたが、平成館の考古学特別展などはガラガラでした。国宝や重文のお宝がたくさんあって実に面白かったのですが。

     

     

     美術館の本分は、どれだけ価値のあるものを「所蔵」するかというところにもあるのだけれど、結局「所蔵」できるだけの余裕がない。有名な絵画を他所から借り集めて、期間限定で展示にしか人々の関心が集まらない。だから、スクラップ・アンド・ビルドの企画展に力を注がざるを得ず、美術館の歴史がなかなか成熟していかない。


     あるいは、日本に本当の意味での「保守政党」が存在しないというのも同じことなのかもしれない。結局は選挙や政局がスクラップ・アンド・ビルド的イベントにしかなっておらず、「記憶」が都度塗り替えられるからかもしれない。戦争で完膚なきまでに叩きのめされたことと一緒に、どうしてそこまで叩きのめされたかも忘れて、その場その場の現実に適応することしか考えない。高々、明治維新のときに急ごしらえでひねり出したにすぎないものを「伝統」として受け取り、本当の「記憶」とすり替える。

     

     思えば、むやみやたらにスクラップ・アンド・ビルドを繰り返したがために、気が付いたらあらぬ方向へと向かい、軌道修正できないままに破局へひた走り、完全なるスクラップになってしまう、それをやったのが戦前の日本だし、バブル崩壊後の日本なのかもしれない。今もまた、同じことが繰り返されようとしている。製造業でも、音楽でも、政治でも、実はあらゆるところで「スクラップ・アンド・ビルド」的思考が蔓延っていて、それが音楽においては「イベント化」という形で露見している、ということなのかもしれない。

     

     そう考えると、上岡の「外来のものは高くても売れる状況を変えたい」「街の誰にとっても、自分の人生に関係のある場所だと思ってほしい」という言葉は、自然につながります。本当に地域に根差した日常の営みの中で生まれる、もっと親しみやすく、誰にも手が届くもの、それに継続的・持続的に磨きをかけていくことでしか本物の音楽都市にはなれないのだという警句のように響きます。

     

     ただ、先ほどから述べていますが、私自身、それが本当に今の日本のクラシック音楽界の中で起こっていることなのかは、実感としては分かりません。ましてや、私が考えたことが上岡敏之氏がインタビューで言いたかったことと同じである保証はまったくない。完全な勘違いという可能性も大いにあり得ます。
     でも、もしも、私が考えた意味での「イベント化」が本当にクラシック音楽界の中で激しく進んでいるのだとしたら、それは私たちの住む日本で広く共有されるべき問題が背後にあるということなので、我々は何らかの手を打たないと、私たちが次世代に残せる文化は、痩せ細った貧しいものになってしまうかもしれないという危惧があります。

     

     その危惧が現実のものにならないようにするためにはどうすればよいかは、きっとその業界によって、あるいは組織や団体によって違うのだろうと思います。クラシック音楽業界が、もしもその問題を抱えていて、解決すべきである状況なら、ふさわしい解決方法は、その業界をよく知る人、スキルをもった人が考えるべきこと(問題なのだとして、その責任を誰が負うべきかということも考えなければなりませんが、私の考えでは恐らく、弾き手側よりも、作り手、すなわちマネージメント側の責任、責務だろうと思います。直感的にそう思うだけなのですが)。
     基本的に考えなければならないこととは、粗く一般化してしまえば、「何をスクラップしてはいけないか、何を柔軟にビルドできるようにすべきか」を見極め、安定と変化を共存できる仕組みなり構造を生み出すようにすることではないかと思うのですが、その「何」の判断基準や、問題解決の手法は、それぞれの業界によって違うはずですから。

     

     東京が音楽都市と呼ぶにふさわしいかどうかとか、スクラップ・アンド・ビルド的イベント化なんて現実にあるのかという議論はさておいても、繰り返しになりますが、上岡の言うように、クラシック音楽が「誰にとっても、自分の人生に関係のある場所」で鳴り響くものであり続けてほしい、と私は願っています。昨今は海外の超一流アーティストのチケットが余りに高額すぎて売れ行きが云々という話も時々聞きます。それはそれで由々しき事態ではありますが、それはむしろ、日本国内の音楽の「常設展」を充実させるためのチャンスとして前向きに生かしてほしいと思います。そして、クラシック音楽のコンサートが、お金と時間と体力のある、ごく一部の特殊な人たちだけのものではなく、音楽を必要としている私たちすべてに、優しくて両手を広げてくれるものになってほしい。

     そして、我々聴き手側も、スクラップ・アンド・ビルド的なイベントばかりに目を向けるのではなく、地道に、継続的におこなわれている地味な活動を自分たちのものとして捉え、そこに生きる自分の人生の一部として愛し、参加していくようにすれば、もっと良い循環が生まれていくのかもしれません。

     

     我が身に置き換えて言えば、自分のやっている仕事で、本当にスクラップ・アンド・ビルド的なやり方でよいのか、一度立ち止まって見直してみて、何年後か先のことを見据えて考える、というところから始めるしかないかなと思います。というような結論が出ただけでも、グダグダと考えた意味はあったかなと、自己完結したところで、この独善的エントリーを閉じることにします。

     

     ←この人にはスクラップ・アンド・ビルドされてみたい、かも。
     

     

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    2018.09.18 Tuesday

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