【ディスク 感想】ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第30〜32番 〜 イリーナ・メジューエワ(P)

2017.12.27 Wednesday

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    ・ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第30〜32番

     イリーナ・メジューエワ(P) (若林工房)

     →詳細はコチラ(Tower/HMV)

     

     

     

     

     

     

    <曲目>>

    ベートーヴェン:

     ピアノ・ソナタ第30番ホ長調作品109
     ピアノ・ソナタ第31番変イ長調作品110
     ピアノ・ソナタ第32番ハ短調作品111
    J.S.バッハ:
     平均律クラヴィーア曲集第1巻より プレリュードヘ短調BWV857

    (2017年6月9日、京都コンサートホール〈アンサンブルホールムラタ〉におけるライヴ録音)

     

     

     先日、脚本家であり演出家でもある三谷幸喜がテレビ番組にゲスト出演していたのを見たのですが、実際の演劇の一部分のセリフをアナウンサーに読ませ、彼が演技指導するという企画がありました。

     

     最初、呆れ返るほどの棒読み(それも演技かも)をしたアナウンサーに対し、三谷は「セリフの話し方にはそんなにパターンはない、高いか低いか、強いか弱いか、早いか遅いかくらい」と言い、これは一つの方法だけれどと断った上で、センテンスごとにそれらのパラメータを指示して、再びセリフを言わせました。

     

     するとどうでしょう、棒読みは「演技」になり、登場人物の心の動きまでもがそれなりに伝わってくるようなドラマの一場面になっていました。

     

     三谷曰く、最初に「型」を作っておけば、あとはそれに従って演技するだけで自然に気持ちも乗る、とのこと(ただし、役者さんによってはそれよりも、最初に役になり切ってから、形を作っていく方がうまくいくケースはある、とも)。

     

     それを見て思い起こしたのは、まず往年の名指揮者カール・ベームのこと。私は、彼のリハーサル風景を収録したものをいくつか持っていますが、彼が楽団員に口を酸っぱくして言っているのは、まさにその「高いか低いか、強いか弱いか、早いか遅いか」のようなことばかり。聴いていて正直つまらないし、中には厭味ったらしいクソジジイ的な場面もあり、居心地も悪かったりする。

     

     でも、これがいざ本番になると状況は一変する。かっちりとリハーサルで作り上げたものの形はそのままに、音楽は俄然生き生きとした生命を得て、ツボにはまったときには言語に絶するような凄みのある演奏になることがあります。

     

     もう一人思い出したのは、私が最も敬愛するピアニスト、イリーナ・メジューエワ。彼女が日本文化の「型」の重要性についていろいろなところで語り、それを音楽でも実践しているからです。

     

     彼女は、どんな作曲家の作品であれ、その「高いか低いか、強いか弱いか、早いか遅いか」を楽譜に対して見極め、結果を「型」にまで抽象化した上で演奏に臨んでいる。気持ちから入るとか、音楽以外の物語から解釈を作り上げるというようなことはしない。確かに、音と音のつながりのなかに、何らかのドラマを見いだすことはできるかもしれませんが、それはあくまで音楽のロジックを、自らが実感をもって体験するためのメタファーでしかない。コンサートでもか楽譜を見ながら弾くのも、「型」を忘れ、メタファーにからめとられることを厳しく戒めているからなのかもしれない。

     

     彼女のそうした姿勢は、最近出版されて大きな話題になっている、彼女初の著作(語り下ろしですが)となる「ピアノの名曲 聴きどころ弾きどころ」(講談社現代新書)でも如実に表れています。彼女がどれほど楽譜を濁りのない目で読み込み、そこで得られたものを豊かな想像力をもって自らのうちで再構築し、作品の持ち味や作曲家の語法として肉体化しているかは、そのたった一文を読んだだけでも一目瞭然です。

     

     だから、彼女にとって、同じ曲を何度も繰り返して演奏するというのは、その時々に楽譜を音にすることによって、自らが楽譜からつかみとった「型」に磨きをかけ、より良いものへと高め、創造行為の中で作曲家が体験したものに近いと思われるものへ近づけるということに他ならないのだろうと思います。

     

     彼女の最新盤、今年6月に京都でライヴ録音されたベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30〜32番で聴ける音楽もまさに同じことが言えます。

     

     「高いか低いか、強いか弱いか、早いか遅いか」といった点を事細かに見ていけば、彼女は相当に細かいところにまで神経を遣い、いかにして作曲家が楽譜に書き記したものを漏れなく具現化するかを考え抜いた上で、一つ一つの音をどう弾くべきか、音と音をどうやってつなげるかを熟慮した演奏であるかはたちどころに見てとれます。第32番に関しては、前述の新書を読めば、彼女がこの曲にどんな「解釈」をしているかもよく分かります。彼女は演奏にあたって、やはり「型」を最初に決めて演奏しているに違いない。

     

     しかし、不思議なことに、聴き終えて「高いか低いか、強いか弱いか、早いか遅いか」というような表面的なことは実はあまり印象には残っていない。例えば、第31番の第2楽章はテンポがちょっと遅かったな、というくらいしか印象にない。つまり、彼女は何一つ変わったことはしていなくて、実にまっとうな、オーソドックスな演奏をしているということ。しかも、それぞれの局面において、演奏が極端へと傾くことはなく、最近流行のデュナーミクやテンポのレンジを恐ろしく大きくとって、そのコントラストで音楽のダイナミズムを明らかにするようなことは一切ない。

     

     ですが、さらに不思議なことには、これほどまでにベートーヴェンの音楽の大きさ、偉大さを、身をもって感じさせてくれる演奏は、他にはさほどないのです。ごく一握りの名演奏家たちが残したとびきりの名盤や、特別な実演の記憶くらい。

     

     ベートーヴェンの音楽の何が偉大なのか、どこがほかと冠絶した凄さがあるのか、そんなことは音楽を専門としない私にはまったく言葉で説明することなどできないのですが、しかし、ベートーヴェンの音楽とは、その音の背後に何か形而上学的なもの、思想としか言いようのない何ものかを孕むものであって、それが聴き手の私の内部を揺さぶらずにはいられないのだということを、彼女の演奏は、まったくもって彼女だけのやり方で実感させてくれるのです。

     

     例えば、各曲の最後の楽章がどれほど崇高な調べをもった音楽であるか。あるいは、その前の楽章がその清冽な音楽を導き出すためにいかに重要な役割を果たすのか。そうしたことの一つ一つを丁寧に解きほぐし(といっても説明的という訳ではない)、明快に、そして、しみじみと実感させてくれるのが彼女の演奏なのです。こまごまとした演奏の表層のあれこれはすべて、時が経つのも忘れて、ベートーヴェンの音楽の偉大さに触れることの感銘の中に包摂されてしまうのです。

     

     どうしてそんな技が可能なのかは、音楽の専門家の方々の分析にお任せしたいところですが、彼女自身が、きちにんと作った「型」にはまることなく、舞台の上では、むしろそこから自由になって音楽を生み出ししているからなのかなと素人ながら思います。音楽家として、「守破離」の「離」のステージに足を踏み入れたというべきか。

     

     このような境地に至るまでには、彼女がどれほどの研鑽を積み、どれほどまでに彼女自身のものごとを見る「目」を鍛えたのかまったく想像もできませんが、この険しい芸術の道を彼女が休むことなくひたすら歩み続けている姿を目の当たりにして、ありきたりな言葉ですが、感動せずにはいられません。

     

     メジューエワは今年、日本デビュー20周年を迎え、コンサート、録音を精力的にこなすだけなく、前述の著作を発表するなど、まさに大活躍の一年でした。私は、さすがにコンサートはすべてを聴く訳にはいきませんでしたが、発売されるディスクはすべて聴き、新書も読んで、彼女の音楽を存分に味わってきました。その一年の締めくくりにこんなに素晴らしい演奏を聴くことができて、幸せです。

     

     ところで、今年の彼女の活動の中で、「メジューエワ・プレイズ・ベーゼンドルファー」というアルバムと、新書が、パートナーである明比幸生氏との共同作業だったことが、私には印象に残りました。特に、ディスクのクレジットで、プロデューサーとして氏のお名前を拝見するのは久々のように思います。しかも、件のディスクは、お二人の古巣であるコロムビアの録音チームと組んだことも、ファンとしては胸の熱くなる思いで聴きました。そんなこともあって、我々ファンとしても、この一年は忘れられない「メジューエワ・イヤー」になりました。

     

     輝かしい記念の年を経て、これからの20年へと歩みを進めるメジューエワの音楽を、楽しみに聴き続けたいと思います。

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    2018.07.19 Thursday

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