【ディスク 感想】目の届かないところ(Out of Sight)  エーテル・メルハウト(S)  ベラ・コレニー(P)

2017.12.29 Friday

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    ・目の届かないところ(Out of Sight)

     エーテル・メルハウト(S)    ベラ・コレニー(P)
     →詳細はコチラ(Tower/Amazon)

     

     

     

     

     

     

    <<曲目>>

     1)エルシュタイン/母さん、あたし恋をしたの

     2)シュピールマン/ウィーンは幾千倍も美しくなる

     3)エルシュタイン/健康でいれば大丈夫

     4)レオポルディ/何事も、かつては美しかったから

     5)エルシュタイン/二つの眼

     6)ノイマン/恋を少し、酒を少し

     7)エルシュタイン/夜のように底知れず

     8)コレニー/マルタに捧ぐ

     9)コレニー/目の届かないところ

    10)ルムシンスキー/恋を少しと、幸せを少しと

    11)ユールマン/ウィーンはいつまでもウィーン

    12)ノイマン/考えるのは自由

    13)オルシャネツキー/こんなにもあなたが好き

    14)コレニー/目の届かないところ(ボーナス・トラック)

     

    <<参加ミュージシャン>>

    ・ジュリアン・ラクリン(Vn)

    ・ロビー&ロベルト・ラカトシュ(Vn)

    ・サラ・マクレラヴィー(Va)

    ・ボリス・アンドリアノフ(Vc)

    ・ヘルヴィヒ・グラディシュニッヒ(Sax)

    ・べルーシュ・コレニー(P)

     ときどき、私の前世はユダヤ人だったんじゃないかと思うことがあります(というようなことは一度このブログで書いた気がします)。理由は簡単で、ユダヤ人の音楽家の音楽に惹かれることが余りにも多いからです(そもそも「前世」などというものを信じてはいない)。クラシック音楽ならレナード・バーンスタインを筆頭にいくらでも名前を挙げられるし、ポピュラーでは、ポール・サイモン、ビリー・ジョエルと並んで、昨年からボブ・ディランにのめり込んでいる。

     

     そんな私にとって、とびきりのごちそうともいえるアルバムが出ました。Gramolaレーベルから発売された、ユダヤ人作曲家が書いたウィーンにまつわる歌を集めたアルバムで、タイトルは“Out of Sight(輸入元のインフォでは「目の届かないところ」と訳されています)”。

     

    「ウィーンのユダヤ人たちの歌〜祖国のドイツ併合時代を生きた作曲家たち〜」というサブタイトルがついているように、1920年代から戦争の時代、ウィーンと何らかの関わりを持っていたユダヤ人作曲家が書いた歌。戦後に書かれたものもあって作曲年代はバラけていますし、ジャンルもごった煮で、歌曲、オペレッタの中の曲、流行歌、映画音楽など、ウィーンの大衆が愛していた音楽が集められています。

     

     何と言っても、作曲家の顔ぶれが、すごい。アブラハム・エルシュタイン、フリッツ・シュピールマン、ヘルマン・レオポルディ、エゴン・ノイマン、ヨゼフ・ルムシンスキー、ワルター・ユールマン、アレクサンダー・オルシャネツキー(あと、コレニーの自作曲もあります)。無知を晒しますが、誰一人名前を知っている人はいないのです。ましてや、知っている曲も一つもない。これは興味を持たずにはいられません。

     

     ここで歌っているのは、ウィーン出身のソプラノ歌手エーテル・メルハウト。まだあどけない表情を残した若手で、活躍の場はまだ限られているようですが、コレニーらと組んで、ユダヤの音楽をコンサートで取り上げたりしているらしい。ピアノを弾くコレニーは、ブダペストでジョルシュ・シフラの下で学んだという経歴の持ち主ですが、主に作曲家として知られている人らしい。写真を見る限り、白髪の、穏やかな初老紳士といった風情。

     

     オーストリアのドイツ併合の時代を生きた人たちの歌だからと言って、何か悲劇性を孕んだ音楽が聴けるわけではありません。歌詞にも特に社会告発らしきものは見当たらなそうです。

     

     でも、いや、だからというべきでしょうか、私の「前世はユダヤ人」という妄想を裏付けてしまうような、ユダヤ満載の音楽を満喫しました。それらはいわゆるクレツマー音楽というジャンルに分類しても良い音楽でしょうし、ツィンバロンは使われていませんが、泣きの入るヴァイオリンが大活躍する曲が多くてジプシー音楽のテイストもたっぷりあり、ちょっと暑苦しくて、粘っこくて、味の濃い、やっぱり「ユダヤ音楽」としか言いようがない。きっと嫌いな人はとことん嫌いな音楽だろうなあと思いますが、私には猫にマタタビ、大好物です。何か社会的メッセージを発した音楽ではないという気楽さもあって、ひたすら私の「前世」を刺激する音楽に心を躍らせ、メルハウトの可愛らしい声にうっとり聴き入りました。

     

     そんな逸楽に満ちた音楽を聴き終えた後には、やはり、戦前のウィーンで、「オーストリア人」「ウィーンっ子」として楽都での享楽に身を浸していたユダヤ人たちの「悲劇」にも思いを馳せずにはいられませんでした。

     

     ウィーンは歴史的に反ユダヤ的な空気の濃い街だと聞いたことがありますが、とはいえ、こういう音楽も、街の中でごくごく日常的に演奏されていた訳で、それがウィーンという街の音楽、文化の重要な「部分」となり、多くの音楽家たちに影響を与えていたのは間違いない。これがあるからこそ、マーラーの後期の交響曲があり、レハールのオペレッタがあり、新ウィーン楽派の作曲家やシュレーカー、コルンゴルドらの曲も生まれた訳です。ライナーノートでも書かれている通り、街が持っていた「多様性」こそが、文化を育て、成熟させていたのです。

     

     それが、ある時期からナチスにより排斥されたことで、どれほどの損失があったことか。人間の生命が奪われたというだけでなく、多様性によって担保されていた文化の爛熟が断ち切られてしまった。以降、ウィーンは、確かに魅力的な音楽都市ではあり続けているでしょうが、ハイドンやモーツァルトの時代から100年ほど続いていた、「創造の最先端の都市」としての地位は失ってしまった(いや、クラシック音楽において、いま、「創造の最先端の都市」なんてものがどこにあるのかは分かりませんが)。

     

     そう考えると、文化というのは作り上げるのは本当に何百年もかかることですが、破壊することなんていとも簡単に、あっという間にできてしまうことなのだと痛感します。

     

     というような御託はともかく。

     

     このアルバムについて絶対に書いておかなければならないのは、バックで演奏している音楽家の顔ぶれの豪華さと、その演奏の素晴らしさです。

     

     ヴァイオリンには、ジュリアン・ラクリンと、ヴィオラはサラ・マクレラヴィー、チェロはボリス・アンドリアノフのアンサンブルに、ロビー・ラカトシュとロベルト・ラカトシュが参加。そして、クラリネットにはベルリン・フィルの首席、アンドレアス・オッテンザマーも出演。

     

     在京オケへの来演でもお馴染みのラクリンが率いるアンサンブルは、イタマール・ゴランのピアノを加えて頻繁に演奏会をおこなっています。ラカトシュと言えば、ジプシー音楽の大家。そしてオッテンザマー。

     

     何という布陣でしょうか。オッテンザマーは、彼が、先ごろ亡くなった父のエルンストと、ウィーン・フィル首席の兄ダニエルと組んだザ・クラリノッツのアルバムで、コレニーの曲を演奏した縁でゲスト出演と相成ったのでしょうか。

     

     どの曲でも、この豪華演奏家陣の、ため息の出るようなプレイを楽しむことができます。ラクリンの艶っぽいヴァイオリンの音色、ラカトシュ親子の蠱惑的な歌い口と超絶技巧、そして、ほのかな翳りをたたえた柔らかなオッテンザマーの音色、どれも超一流の奏者からしか聴くことのできないものばかりです。そこにコレニーのメランコリックなピアノが、アンサンブルに陰翳の濃い輪郭を与え、まだ少し蕾のような固さをもった若いソプラノ歌手の歌を鮮やかに、しかし、愛情たっぷりに彩る。

     

     ちょっとした雰囲気の良いバーなんかで音量を抑えてBGMとして流したら、結構さまになるんじゃないかと、下戸でバーなんて行かない私ですが、思います。特に、トラック9のコレニーの「目の届かないところ」とか、トラック4の「何事も、かつては美しかったから」なんかはいいんじゃないでしょうか。

     

     ところが、このアルバムは、日本語解説つき国内盤仕様ではリリースされていません。正直、ショップでこのアルバムを手にしたときは、がっかりしました。柔らかい「試訳」「補訳」できちんとライナー読みたかったからです。オッテンザマーのファンなんていっぱいいるだろうし、ラカトシュも人気があるし、ラクリンだって知名度は十分。しかも、企画自体も意欲的だし、演奏も歌もすこぶる魅力的。

     

     ここは国内盤仕様にして多くの人の目に留まるようにすべきでは?なのに、なぜ?というのが私の正直な感想ですが、間に合わなかったのでしょうか?それとも、現実にはやっぱり「売れない」ディスクなのでしょう。だから、これは「いまだにCDなんか買って喜んでいる時代遅れのファンが、独善的、極私的に愛する秘蔵盤」としてこっそり楽しむのが吉、ということなのでしょうか。

     

     彼の地ウィーンでは、もうすぐ、恒例の「ニューイヤーコンサート」が開かれます。シュトラウス一家周辺の音楽を「ウィーン音楽」の中心として大切にするのは結構なことですし、シュランメルやオペレッタを愛でるのも素晴らしいことですが、歴史の日陰に隠れてしまった音楽にも耳を傾けることで、ウィーンという音楽都市がもつ文化の奥行きを知ることができるはず。そこから我々が学ぶことができるものも何かあるのではないでしょうか。

     

     そのためにも、このアルバムで演奏している人たちを、まずは日本に呼んで、コンサートをやってもらえればいいのにと思います。それも、クラシックのコンサートホールじゃなくて、もっと我々の日常の暮らしと密接に結びついた空間で。あるいは、例えば、クレツマー音楽を積極的にとりあげているチェリストの新倉瞳のアンサンブルと組んでもいいかもしれない。何とか実現できないものでしょうか。

     

     

     

     

     

     

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    2018.06.18 Monday

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