【演奏会 感想】広上淳一指揮NHK響、五嶋龍(Vn) 第1876回 定期公演 Cプログラム(2018.01.12 NHKホール)

2018.01.15 Monday

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    ・広上淳一指揮NHK響、五嶋龍(Vn) 第1876回 定期公演 Cプログラム

     〜バーンスタイン生誕100年〜

     (2018.01.12 NHKホール)

     

     

     

     

     

     

     

     

    <<曲目>>

     「マインドフルネス」という言葉をよく耳にするようになりました。

     マインドフルネス学会なる組織のHPを見ると、それは「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」だという定義なのだそうです。さらに、ここでいう「観る」とは、「見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、さらにそれらによって生じる心の働きをも観る」という意味とのこと。

     

     先週金曜日、広上淳一が指揮するNHK交響楽団の定期演奏会を聴いていて、オーケストラの人たちはまさにこの「マインドフルネス」という状態で音楽をやっているのではないかと思いました。

     前半のバーンスタインの政治的序曲「スラヴァ」、セレナードにしても、後半のショスタコーヴィチの交響曲第5番にしても、それは一貫している。

     指揮者もオーケストラも、そしてソリストとして登場したヴァイオリニスト五嶋龍も、とにかく自分たちが存在する「いまここ」に集中し、全身全霊を傾けて音を生み出し、同時にその音にただ耳を傾けていることが痛いほど伝わってくる。自分の内部にある思考や、その都度湧き起こる感情にとらわれることなく、かといって、自分の外側にあるものに必要以上に気を取られてしまうこともない。常にたっぷりと呼吸し、リラックスした状態で、今起きている事象にのみ集中する。その結果、質の高いパフォーマンスが生まれ、バランスのとれた満ち足りた音楽が鳴り響く。

     そんな幸福な音楽の誕生のプロセスを楽しませてもらったというのが、この演奏会を聴いて得られた最大の満足でした。

     

     めったにプロのフルオケが演奏しない「スラヴァ」が聴きたくて足を運んだ演奏会でした。

     

     その「スラヴァ」は、後姿を見ているだけで楽しくなってしまう広上のアクティヴな指揮ぶりにオケも最善を尽くして応えて、とてもいい演奏を聴けたと思います。正直言うと、もう一つ突き抜けたような楽しさ、ハチャメチャなくらいの猥雑なエネルギーがあればという気もしないではありません。でも、この曲を初めて実演で聴けた喜びは格別なものです。バーンスタインイヤーの幕開けにこれ以上ふさわしいものはないんじゃないでしょうか。

     

     ところで、この曲の途中の4人の男の声による演説は、CDでもお馴染みのアドルフ・グリーンらの声を記録したテープが使用されていました。

     ここは、以前、アマオケの野外演奏会でこの曲をやったときには、団長さんかどなたかが、「公園におられる皆さん!」とか何とかマイク片手に演説やって大ウケしたという話を聞いたことがあります。

     その故事(?)にならい、ばかばかしい妄想を。例えば、内村光良扮するNHKゼネラル・エグゼクティブ・プレミアム・マーベラス・ディレクターの三津谷寛治がここで登場。「さて、ここにお集まりの皆さん、受信料はかならず払ってください!」とか何とか演説させる。横でイカ大王とかゲス記者が何かを叫び、ドーモ君が「ドーモ!」と言う。演奏は、NHKホールから代々木公園に大きなスピーカーでこの曲の演奏を放送される。公園にいた人たちは何事と振り返り、事情を知って大拍手。なんていうのはどうでしょうか。

     でも、絶対やらないでしょうね。なにしろ、「NHKなんで」。

     

     バーンスタインの「セレナード」は、レニー教の熱狂的信者を自認する割に、これまでそんなに好きな曲ではありませんでした。というか、印象が薄かった。自作自演盤は全部持っていて、聴いているはずなのに。

     今回の演奏は、なぜこの曲の魅力に気づけていなかったのかと、自らの不明を激しく恥じながら聴きました。あそこにもここにも、こんなに魅力的な、そしてバーンスタイン以外の誰も書けなかった個性的な音楽があるというのに!と。

     特に第4楽章のヴァイオリンのカデンツァ(チェロソロとも絡む)あたりなど、聴いていて胸が熱くなるほどに私の心に訴えかけてくる重くてシリアスなものがある。フィナーレでオーケストラがジャジーなフレーズを奏でるあたりの、ねっとりとした官能も美しい。そして、全体を通して感じられる透明な抒情は、50年代のバーンスタインの指揮する演奏からもの実に感じとれるもの。エリアフ・インバルが80年代に来日したときのインタビューで、「50年代のレニーが指揮する演奏は、詩情にあふれ、バランスのとれた美しいものだった」と述懐していたのを思い出しました。

     

     私がこの曲にようやく本当に出会えたのは、演奏が良かったからに違いありません。

     五嶋龍の独奏は、何しろ三階席最後列で聴いたのでいろいろなものを聴き落としているでしょうが、とても真面目で、踏み外しのない堅実なものだったと思います。でも、だからといって無味乾燥な演奏という訳ではく、しっとりとした抒情的な表現の美しさが気に入りました。彼はとても繊細な感性の持ち主なのではないかと思います。

     広上指揮N響も、素晴らしかった。特に、全部の音符が生き生きと躍動しているさまが面白かった。プラトンの「饗宴」をテキストに、五嶋のヴァイオリンと一緒になって、実にエキサイティングな「対話」を繰り広げていたと思います。

     

     演奏会の後、作曲家自身がクレーメルと共演し、イスラエル・フィルを指揮した新盤の方を久しぶりに聴き直してみました。やっぱり素晴らしい曲だし、文句なしの名演だと思いました。旧盤も聴き直さねばなりませんが、いずれにせよ、やっぱりこの自作自演を超える演奏を成し遂げることは、誰にとっても至難の業だろうなと思いました。

     

     自作自演のCDを聴いてみて気づいたことがあります。それは、私はバーンスタインという音楽家の中にある非常にネガティブな部分、暗くて、陰気で、屈折したもの、そこに非常に惹かれているのだということ。

     五嶋と広上の演奏ではほとんど感じなかった、そのブラックな部分が、自作自演にはあるように思えたのです。

     表面的には闊達明朗な音楽の中に「心の闇」があちこちでクレバスのように潜んでいる。それに足をとられたら最後、ただ堕ちていくしかない。激しい叫びや、絶望にまみれた祈りの声に包まれながら、なすすべもなく救いを求めずにいられない。

     でも、不思議なことに、どういう経路をたどってか、最後の最後には、「肯定」の響きへといつしか運ばれていく。すべてを受け容れてくれる存在に抱かれる。

     そのプロセスを体験することが、私にとってのバーンスタインの音楽を聴く醍醐味なのかないと思いました。だからこそ私は歳を重ねてもいつまでも彼の音楽なしには生きていけない。そのことを改めて実感しました。

     

     後半のショスタコーヴィチは、前述の「マインドフルネス」を実践した演奏というに尽きます。

     第3楽章までは遅めのテンポでじっくりと一つ一つの音符を丁寧に演奏し、第4楽章にきて初めてそれまで溜めていたエネルギーを放出する。その道筋が、苦悩を通じの勝利なのかどうなのかなんてことは、この際、脇に置いておく。「カルメン」の引用と思しき部分も、思わせぶりな身振りを入れずにストレートに演奏する。とにかくこの楽譜に書かれた音を、まっさらの状態で鳴らし、味わいながら、進んでいく。

     そのこだわりのなさこそ、さまざまな歴史がしみついたこの交響曲を演奏するのには最も大切なことである、指揮者もオーケストラも心底そう信じ切ったような演奏だったと思います。

     その意味では、とてもいい演奏だったと思いますし、恐らく広上という指揮者からしか絶対に生まれてこないユニークな演奏だったに違いありません。

     

     ただ、私が改めて思ったのは、この交響曲の中にショスタコーヴィチはどこにいるんだろうか?彼の肉声はどこにあるんだろうか?ということでした。

     広上がショスタコーヴィチの交響曲をどれくらい取り上げているのか、全曲やっているのかは分かりませんが、彼のスタンスは、私が思う「ショスタコーヴィチ指揮者」というよりも、「交響曲第5番を得意とする指揮者」であるように思えました。つまり。他の交響曲、器楽曲、室内楽曲、オペラ、声楽曲、それら作品を見わたしてすべての要素を帰納し、この曲のどこに彼の作風や語法があるのかを探り、それを再び演奏に演繹した結果生まれた演奏とはあまり思えなかったのです。

     その点が、恐らくショスタコーヴィチの5番を最高傑作と考える人にとっては美質と映っただろうし、私のように違う意見を持つ聴き手にとっては物足りない結果になったのではないかと思います。

     

     見方を変えると、この交響曲は、そういう演奏を可能としてしまうほどに、作曲家自身の本当の語法やスタイルを見事なまでに隠蔽、偽装した音楽なのかもしれない。だとすれば、広上とN響はそうした作曲家の意図を暴いて見せたものすごい演奏という見方も可能かもという気もします。

     でも、心技体すべてにバランスのとれた満ち足りた演奏の中に、どうにも自分のいちばん心地良い場所はついぞ見つけきれないまま、あれよあれよと時間が過ぎていったというのが正直なところ。もうそろそろこの曲をナマで聴くのはやめにした方が健康的かもなあなどと、トボトボと肩を落としながら帰路についたというのが正直なところでした。

     

     今回の演奏会を聴きながら、いくつかの思い出が私の脳裏によみがえってきました。

     

     まず一つは、私が最初に広上の指揮する演奏会を聴いたときのこと。あれはちょうど30年前、彼が日本のオケの定期演奏会に初めて登場したコンサートだったと思います。まだ若かった彼が、元気いっぱい、そしてとっておきの演出(ハンマーの部分)をした個性的なマーラーの6番を聴かせてくれました。恥ずかしながら、広上指揮の演奏会を聴くのはそれ以来のことだったと思います。CDや放送などでは何度も聴いていたのに。これはもう星のめぐり合わせとしか言いようがない。

     

     そして、バーンスタインの「セレナード」では、五嶋龍のお姉さん、五嶋みどりのことを思い出さずにいられませんでした。

    彼女は、1986年のタングルウッド、そして1990年の第1回PMFで、バーンスタインとこの曲を演奏しました。特に前者では、14歳の彼女が演奏中に2回弦を切りながらも、演奏の中断を最小限にとどめて弾ききった。その堂々たる演奏ぶりは「タングルウッドの奇跡」とたたえられ、アメリカの教科書にも載りました。

     後者も、バーンスタインが、ロンドン交響楽団との札幌での演奏会で彼女と共演しました。残念ながら、私が聴くことができたバーンスタインの2回の東京公演では当初からプログラムにはありませんでした。その代わりという訳ではないのですが、1日目のサントリーホールでの演奏会で、私は2階のロビーで彼女の姿を見かけました。傍らには同行したマイケル・ティルソン・トーマスもいました。

     五嶋龍と広上の演奏する「セレナード」を聴いている間、あの時、サントリーで見たまだ少女のあどけなさを残した五嶋みどりの姿、不治の病を抱えて大粒の汗を流しながら指揮をしたバーンスタインの姿など、あの猛暑の夏の余りにも強烈な体験が、何度もフラッシュバックしてきて、困りました。とても冷静な状況で音楽を聴けたとは言えない。

     聴き手がそんな思い出を胸に自分の演奏を聴いているなどというのは、五嶋龍にとってみれば迷惑なことかもしれません。でも、音楽の聴体験の中には、どうしたって自分が人生のさまざまな局面で経験したこと、感じたことが映り込むのは避けられない。そのことが音楽体験を豊かにしてくれることもあるし、逆に邪魔をしてしまうこともあるけれど、今回の演奏の場合は、私が「セレナード」とちゃんと出会えるきっかけとなってくれたことは間違いない。だから、どうか大目に見てほしい、と思います。

     

     演奏会が終わって帰途に着き、渋谷駅ハチ公前の交差点に差し掛かった瞬間、たくさんの大型プロジェクタから流れてくる宣伝の音声がけたたましく頭上で交差しました。俺は聖徳太子じゃねえ、うるせえ!と呟こうとした瞬間、「あ、これ、スラヴァみたい!」と思いました。まあスラヴァは一人一人交代で喋るので、厳密にいうとその連想は間違いなのですが、いろんな人が怒鳴ってる構図が似ているなと。まあ、そんなことはどうでもいいことなんですが、とにかく今年はバーンスタインの音楽にどっぷり浸ろうと思います。

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    2018.07.19 Thursday

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