【ディスク 感想】ベートーヴェン/ミサ・ソレムニス ニ長調 Op.123 〜 鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパン

2018.02.25 Sunday

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    ・ベートーヴェン/ミサ・ソレムニス ニ長調 Op.123

     鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパン (BIS)

     →詳細はコチラ(Tower/HMV)

     

     

     

     

     

     

    アン=ヘレン・モーエン(S)、ロクサーナ・コンスタンティネスク(A)
    ジェイムズ・ギルクリスト(T)、ベンジャミン・ベヴァン(Bs)
    寺神戸亮(Vn)  

     

     

     

     BISレーベルから発売された、鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)の最新盤、ベートーヴェンのミサ・ソレムニスを聴きました。ここ数年、この音楽にのめり込んできた私にとって、そして、昨年の実演を聴き逃してしまった私にとっては、待望、必聴のアルバム。聴かない訳にはいかない。

     

     当然、古楽器による、いわゆるHIPの演奏。編成は最小限で、やや早めの引き締まったテンポを基本に、オケと声、オケの楽器間のバランスを事細かに調整し、ベートーヴェンの書いたすべての音をクリアに響かせている。時に、古楽器らしいシャープな音で激しい楔を打ち、またある時には、柔らかく慈愛に満ちた響きで空間を満たしながら、局面ごとに本当に必要とされる音を、本当に必要とされる強度と音価をもって生み出し、音楽に生命を吹き込んでいく。

     

     様々な性格をもった音が絡み合い、立体的に交差し響き合う中で、古い旋法や形式、ロジックと、ベートーヴェンが惜しげもなく投入した斬新な音の双方があぶり出され、くっきりと浮かび上がる。聴き手は、古いものと新しいものが分かちがたく融合、拮抗しながら巨大な音の構造物をつくりあげていくさまをリアルタイムで追体験する。すべての夾雑物が削ぎ落されたこの曲の核心に触れたという確かな手ごたえと、この異形のミサ曲を聴くことの醍醐味を存分に味わわせてもらえる、という訳です。

     

     それは、バッハの音楽を体系的に取り上げるだけでなく、バロック期の音楽様式全般に通暁し、しかも、ロマン派から近代の音楽をも取り上げ高い成果を上げてきた鈴木の指揮だからこそ可能になったことに違いありません。

     

     鈴木の熟達の指揮に応え、オーケストラも声楽陣も、その持てる力をすべて注ぎ込み、完成度の高い演奏を成し遂げています。緻密さとのびやかさを兼ね備えた柔軟な合奏力、澄み切った清冽な響き、音量や表現のダイナミックレンジの広さ、いずれも。穏やかで柔和な響きの管楽器の歌とアンサンブル、十分な量感を保ちながら厚みのある音楽を生み出す弦(寺神戸亮の弾く「ベネディクトゥス」の気品溢れるヴァイオリン・ソロも忘れ難い)。美しく訓練・統制された合唱と、個性豊かな独唱者たちの歌。重要な局面で存在感を示すオルガン。何をどう切り取ってみても、一級のものと言えるのだろうと思います。

     

     もうそれだけでも恐るべき名演奏だと思うのですが、鈴木とBCJの演奏する「ミサ・ソレムニス」を聴いて最も印象に残ったのは、音楽と言葉の美しい結びつき、です。

     

     典礼文の言葉一つ一つに相応しい音が当てられ、それらが一まとまりの音楽の「必然の」ドラマとして成立しているように聴こえる。そこが、何よりも素晴らしいし、これまで聴いてきた演奏の中でも飛びぬけて美しいと思ったのです。

     

     この曲においては、それを実現するのは相当に難しいことのはず。

     

     一つの言葉には、次の言葉を導きだす役割がある。典礼文の場合は、それが神への賛美であったり、信仰告白であったり、キリストの生誕、受難と復活の叙述であったりする。その言葉と言葉を繋げる役割を果たすのは、例えば聖書やキリスト教の教義の知識や、信仰といったものです。

     

     同じように、一つの音は、次の音へとつながる何かを孕んでいる。確かに、その音と音とのつながりには、ベートーヴェンが用いた古い教会旋法や、宗教音楽の伝統的なポリフォニックな語法と深く結びついたものがあるのは間違いない。ですが、純粋に音楽的に考えると、それはあくまで後付けのものでしかなく、典礼の進行と音楽の進行をごく自然なものとして一致させるのはとても難しい。

     

     実際、ベートーヴェンがこの曲を作曲した時に最も心を砕き、最も苦労したのはそこだと伝えられています。特に、「クレド」は、その切り詰めた言葉の選択ゆえに、言葉から言葉への意味的な飛躍の幅が大きく、言葉に誠実であればあろうとすればするほどに、音楽の局面の変化を、言葉の変化と同じ次元で必然のものとするのは至難の技だろうということは、素人の私でも容易に見てとれます。

     

     結果的に、私自身、この曲を聴いて偉大な音楽であるというのは何となく分かる。けれど、冷静になって聴いてみると、分かりやすい展開はなく、かといって定型的でもなく、古いものと新しいものが同居しながら、謎の進行を遂げながら大団円へとたどり着く。難解というよりも、摩訶不思議な音楽という感覚からはなかなか逃れられない。その訳の分からなさに圧倒され、いつも、何にも分かっていないのにうっかり感動してしまうし、時に何だか煮え切らない演奏にもやもやしながら、「この曲は難解だ」などと眉間に皺を寄せて呟いてみることもある。だからこそ魅力的で、いろいろな演奏を次々と聴きたくなってしまう訳ですが。

     

     この曲に取り組む演奏家も、その音楽の流れをいかに自然にするかに、とても苦労しているように思えます。音と言葉の間のぎこちない距離感は、交響曲の弁証法的なドラマトゥルギーでも、一般的な宗教曲のような様式感をもって埋めることは困難。何もしなければ解決できないし、かと言って、策を弄せば弄するほどに音楽は異様なものになってしまう。

     

     実際、なかなかうまくいかずに中途半端な結果にしかならない場合も少なくないし、その特異さを強調することで、この曲の聳え立つような偉容を明らかにしようとする「あざとい」演奏もいくつかはある。この曲の必勝法というべき確立したセオリーは、交響曲やソナタ、弦楽四重奏とは違って、まだ一つもないと思ってしまう。

     

     ところが、この鈴木とBCJの演奏を聴いていると、音と言葉の関係性に、そうした「特異さ」が感じられないのです。テキストを離れ自立した音楽として聴いても、音楽の推移が「そうであらねばならない」というロジックを伴ったものと感じられそうなのです。

     

     例えば、「クレド」の、キリストの死を暗示する沈黙の後、その復活を高らかに宣言するアカペラ合唱の輝かしい叫び。ここは、ミサ典礼文による歌詞を知らなければ、一体どうしてこのような衝撃的な場面転換がここに存在するのかは理解できないはずで、音楽の流れとして決して必然のものとは言えない。

     

     しかし、鈴木/BCJの演奏を聴いていると、この鮮やかな転換に不自然さがまったくないのです。歌詞をまったく知らずに聴いたとしても、ここはそうであってほしいと思えそうなくらいに納得感がある。これは、聴き手にショックを与える目的で唐突にこしらえられたものでも、言葉に合わせるため、音楽の生理を無視して妥協した結果でもない、と腑に落ちるような。

     

     それよりも、この演奏から感じとれるのは、キリストの復活という想定外の奇跡、事件への驚きではなく、旧約聖書の予言の成就、神が永遠の存在として偏在してくれることへの喜びと感謝のように思えます。合唱が、十分に力感を保ちつつ、決して刺激的にならず、輝かしい響きと、喜びにあふれた表情をもって歌っているからでしょうか。

     

     だから、この音楽の運びは、あらかじめ神によって用意され、導かれていくべき道をただ辿った結果生まれたものと思えるのです。何も不自然なところもないし、難解といえそうな要素はどこにもない。

     

     この「クレド」の一瞬の表現と同じことが、曲全体に対しても言える。物語から離れても必然的な流れをもったものとして感じられる音楽なのです。だから、今度は言葉を意識して聴けば、なるほどこの音楽はこうであらねばならないと頷けるのは言うまでもないこと。これまで音盤を中心に相当数の演奏を聴いてきたはずなのですが、こんなに「腑に落ちる」演奏は聴いたことがありません。

     

     一体どうしてこんな演奏が可能になったのでしょうか。

     

     私が思うには、指揮者、オケ、声楽家すべての人たちが、ベートーヴェンの音楽の「正しさ」に熱狂的なほどに厚い信頼を置いているからではないでしょうか。

     

     実際問題として、演奏するにあたってはさまざまな技術的なハードルもあり、作曲技法、オーケストレーション的な観点から見て必ずしも成功していない部分はあるのでしょう。それに対して、批判的な考え方を持つことはあるのかもしれない。

     

     しかし、それでも演奏家はベートーヴェンの「正しさ」はまったく疑っていない。音と言葉が一体となった、宗教音楽の真正な姿を、ひたすら追求している。

     

     ベートーヴェンが創作時に苦労したというような話は、この際、脇に置いておき、彼が自らに課した課題はすべて見事にクリアされていて見事な結果を生んでいる。この音楽にはただ「正しさ」しか存在しない。演奏家は、作曲家を信頼し、彼の意図をでき得る限り公正に理解し、それを誠実に音にしさえすればいい。なぜなら、この音楽は、典礼の言葉と同じく、ただ神の意志と、神の摂理をただ音として表現したに過ぎないのだから。そうすれば音楽の内包する「正しさ」は自然に表現できる。そんな姿勢で臨んだ演奏であるように私には聴こえるのです。

     

     演奏者のそうした姿勢から生まれたのが、この名演奏なのだろうと思います。私はキリスト教とは無縁の無神論者ですが、少なくともこの音楽を聴いている間は、その必然の流れに導かれ、うっかり「神」などという存在を信じてしまいそうになる。

     

     それはベートーヴェンの「聴き手に宗教的な感情を持たせ、持続させること」という狙いに、私がまんまと嵌ったということかもしれません。でも、それ以上に、私は痛感せずにはいられないのは、ベートーヴェンという作曲家が、音楽は何を表現することが可能なのか、何を聴き手に伝えられるのかを生涯を通して追求し続けた人であるということ。そして、彼がその晩年に至り、音楽を通して、人間の思考や思想といったものが伝達し得ることを証明したのだということ。

     

     この曲の冒頭の総譜に「心から出でて心へと伝わらんことを」という願いは、宗教や時代、民族を超え、ただその「音」によって叶えられているのです。

     

     だからこそ、終曲の「アニュス・デイ」で聴こえてくる戦争の足音、戦場の阿鼻叫喚は、私たちが目をそらしてはならない現実として立ち現れてくる。同曲の総譜にベートーヴェンが書いたという「内と外なる平和への切なる願い(ライナーノートに“plea for inner and outer peace”という言葉で引用されている)」という言葉が、私たちの言葉として響く。この名曲が私たち聴き手に与えてくるものはまだ無限にあるし、いつまでもアクティヴであり続ける。それが良いことなのか悪いことなのかは分からないけれど、それは真実なのだと改めて感じずにはいられません。

     

     期待を遥かに超え、深い感銘を受けた音盤でした。この音楽をこよなく愛する私にとって、古今東西の名盤たちと同列の、最も大切な音盤の一つになることは間違いありません。何度も繰り返し聴くことで、この曲が一体どういう音楽なのか、私にとって何なのかを考えるヒントを与えてもらえるだろうと強く確信しています。鈴木/BCJは、来年にはいよいよ「第9」を取り上げるのだそうです。どんな素晴らしい演奏が聴けるのか、「このような音ではない」という言葉の次にどのような音が聴けるのか、今から楽しみでなりません。

     

     独唱者についてあまり細かく書きませんでしたが、私の大好きなソフィーとメアリーのベヴァン姉妹の弟にあたるベンジャミンが歌うバスの充実した響き、透明でのびやかな美声が印象的なソプラノのモイエンの歌に胸を打たれました。アルトのコンスタンティネスクも、目立たないけれど重要なパートをしっかり歌っていて良かった。歌曲のディスクなどで耳にする機会の多いギルクリストのテノールも、声自体はあまり好みではないのですが、理知的で、抑制的な歌唱に好感を持ちました。大変レベルの高い独唱が聴けるのも、BCJの演奏の大きな楽しみです。今後も、優れた人材を私たちに紹介してほしいものです。

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    2018.09.18 Tuesday

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