【ディスク 感想】ショスタコーヴィチ/交響曲第11番「1905年」(ピアノ4手連弾用)ほか 〜 伊賀あゆみ&山口雅敏(ピアノ・デュオ)

2018.06.15 Friday

0

    ・ショスタコーヴィチ/交響曲第11番「1905年」(ピアノ4手連弾用)ほか

     伊賀あゆみ&山口雅敏(ピアノ・デュオ)(Virtus Classics)

     →詳細はコチラ(TowerHMV) 

     

     

     

     

    ・交響曲 第11番 ト短調 《1905年》Op.103 作曲家自身によるピアノ4手連弾版
     1.第1楽章:王宮広場
     2.第2楽章:1月9日
     3.第3楽章:永遠の追憶
     4.第4楽章:警鐘
     5.第4楽章:警鐘・・・終結部のエキストラ・バージョン
    6.タヒチ・トロット Op.16

     

     

     

     ショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」には、作曲者自身が編曲したピアノ4手連弾版が存在します。総譜完成直後に作成され、オーケストラ初演に先立つ1957年9月に、作曲家自身とメイエロヴィッチによって試演されたものです。

     

     そして、このバージョンの世界初録音盤がリリースされました。演奏しているのは、伊賀あゆみと山口雅敏の「ピアノ・デュオ」。高久秀明氏が所有していたという初版譜をもとに演奏しており、既に2015年には実演でも披露済みなのだとか。しかも、最終楽章コーダで鳴り響く鐘の音は省略されているので、そのコーダ部分だけ、鐘の音を追加したバージョンを作成して全曲に続けて収録しています(本当に鐘を鳴らしているのではなくて、高音で鐘を模した音を鳴らしている)。

     

     聴く前は、作曲家自身の手による編曲とは言え、この交響曲をピアノで弾く意味などあるんだろうかと思いました。何しろ大編成のオーケストラによって奏でられる音楽なのです。1905年1月9日に起きた「血の日曜日事件」を描写した第2楽章では、打楽器が大活躍。一斉射撃を想起させる小太鼓の激しいリズムと、ティンパニと大太鼓、そして銅鑼の強打をピアノで再現できる訳がない。ならば、それはもはやショスタコ―ヴィチの11番ではない。カレーのないカレーライスは白米にすぎない。白米は間違いなくおいしいけれど、カレーを食べるという目的を持っている場合には、それでは満たされない。むしろ不満が増大する。

     

     ですから、正直なところ、ほとんど怖いもの見たさのような、マイナスの好奇心をもってディスクを入手し、聴きました。

     

     しかし、私はこのピアノ版のショスタコーヴィチの交響曲第11番に、激しく心を揺さぶられました。聴く前に抱いた危惧は、まったくの杞憂でした。ピアノ版であっても、この曲を聴くのに必要な情報は十分に聴きとれる。クライマックスでの迫力、響きの質感も申し分ない。ああ、確かに私はショスタコーヴィチの11番を聴いたという大きな満足感は確実に得られたのです。

     

     なるほど、打楽器群の不在による欠落感は、あまりにも大きい。あのリアルで激烈な場面描写は、やはり大編成のオーケストラでこそなし得たものであることを痛感せざるを得ません。来てほしい音が聴こえないもどかしさを感じてしまう場面も多い。

     

     特に第2楽章の弦楽器によるフガートからクライマックスにかけて。打楽器の音が、ピアノの音に置き換えられることで、曲全体が少し間の抜けた音楽になっていることは否めません。短二度の音程のぶつかりを含む音を使って緊張感の高い音響を生んではいるものの、バチやスティックで大きな楽器を叩く音のインパクトには、及ぶべくもない。通常は渾身の力を込めて叩かれるドラの音がピアノではまったく表現できないのも痛い。

     

     また、第1楽章以降何度も繰り返されるトランペットの信号音、第3楽章で革命歌「同志は斃れぬ」を引用して歌うヴィオラ、第4楽章コーダ近くでモノローグを奏でるコールアングレなどの音がピアノに置き換わるのを聴いていると、ショスタコーヴィチが当初からオーケストラの響きや、楽器の音色、機能を想定して作曲をしたであろうことがありありと分かります。

     

     なのに、どうして私はこの演奏に強く惹かれたのか。

     

     やはりショスタコーヴィチの音楽が、素晴らしいのだとしか言いようがありません。まず、ショスタコーヴィチがふんだんに引用したロシア革命時に民衆が歌った「革命歌」の旋律が魅力的であるということ。そして、それを交響曲という枠組みの中で組み合わせて、壮大なドラマを築き上げてしまうショスタコーヴィチの力量が確かなものであるということ。つまり、曲の骨組み、構築の中にこそこのシンフォニーの美点があるということ。

     

     見方を変えて考えてみると、それは、この交響曲が和声や響きの豊かさ、音色の多彩さで聴かせる音楽ではないのかもしれないと思えます。ユニゾンも結構多く、使われている和声も、その進行も基本は至ってシンプル。100人のオーケストラ団員が出す音のハーモニーは、実は、20本の指と1台のピアノで十分に表現できてしまう。実質的に、そういう音楽だということなのでしょう。

     

     その代わりに、この交響曲が線と線のぶつかり、重なりによって出来上がっていることが分かります。件の第2楽章の激しい部分も、大きなな暴力の塊が人々を押し潰していくような重圧感はない。フガートの部分も含めて、あくまで単旋律のぶつかりあいだけで(対位法ではない)、凄まじい阿鼻叫喚が表現されている。

     

     そうやって聴いてみると、この曲は、本質的にはかなりグロテスクな響きに支配された音楽なのだということが見てとれました。でも、その創作の原点では、もっと鋭角的で、もっと猟奇的な響きをもった曲として鳴り響いていたのでしょう。その原初の鋭角的な姿の魅力に触れることができただけでも、このディスクを聴いた価値があろうと言うもの。

     

     でも、言うまでもなく、やはり演奏に強い訴求力があるのは間違いない。レコーディングにあたって、このデュオはムラヴィンスキーのディスクを参考にしたとのことですが、それもこの引き締まった凄演には大きく影響を与えているのかもしれません。とにかく全編テンポが小気味よく、停滞するような場面は皆無。あのムラヴィンスキーの仮借のない厳しさは、この演奏で正しく受け継がれています。

     

     それだけではありません。恐ろしさや不気味さを孕んだ静けさも印象深いのです。これがあるから、ひたすらカタストロフへと一直線にひた走るあたりの凄みのある表現が可能だし、第3楽章でも感傷に色塗られない深い哀悼の感情が抑えた形で音に染み出す。第4楽章の息もつかせぬ展開には、絶望的な破局から立ち上がることのカタルシスが込められている。

     

     面白いなと思ったのは第1楽章。そうでなくとも音が少ない楽章で、長い和音をトレモロで弾く場面が多く、グロテスクな不気味さは際立っているのですが、時折、何かの拍子にエレニ・カラインドルーの映画音楽のような静謐な音のランドスケープが立ち現れるのです。確かにそこには、大きなものを前にして立ちずさむ一人の人間の姿が描かれている。

     

     また、第2楽章の前述の線の重なりで構成された音楽は、音域のせいか、時折、コンピュータゲームのBGMのピコピコ音みたいな、乾いた無機的な音になっていました。

     

     その光景はなかなかに強烈なイメージを与えてくれるものであると同時に、違和感もある。でも、この演奏には、そうした異物感を打ち消してしまうほどのスピード感と、真摯な音の構築があって、聴き手をいっぺんにねじ伏せてしまう力があります。言うまでもなく、それは演奏者の優れた演奏技術、音楽の把握力、ゆえのものでしょうけれど、何よりも演奏者の楽曲とその作曲家への愛情と敬意ゆえに可能になった演奏だと思います。もちろん、我々アマチュアがやるような熱意だけで押し通す演奏でないことを前提に言いますが、この人たちは、ショスタコーヴィチの交響曲第11番をめちゃくちゃに愛している、そう思わずにいられない「熱」があるのです。私は、その彼女ら二人の音楽への愛に、何より打たれますし、こういう人たちにこそ、この私が偏愛する交響曲を演奏してほしいと思います。それはオーケストラでもまったく同じこと。どんなスタイル、どんな温度で演奏するにせよ、ビジネスライクに、しれっと白々しく演奏されるこの交響曲になんて、何の魅力があるでしょうか。

     

     そして、骨組みにまで捨象されたピアノ版では、演奏者の冷厳にして熱い演奏によって、この曲の核心にあるものが裸形のまま剥き出しになって提示されている、そのことに何よりも深い感銘を受けました。聴き手の耳目を引くスペクタクル、いわば「アメ」の要素が取り除かれて残った先には、私たちが普段見たくないもの、聴きたくないもの「ムチ」が残っている。そして、それは具体的な歴史的事実そのものと、そこで起こった悲劇ではない。作曲当時の指導者(フルシチョフですが)や体制への批判でもない。そこにあるのは、一人一人の人間の存在と尊厳を押し潰してしまう不条理への、言語化されない、むきだしの怒りです。それが、鍵盤を激しく叩きつけるピアニストの音から、まるで血しぶきのように吹きあげてくる。引用された革命歌からショスタコーヴィチの音楽の二重言語性とかいうものにも、この際、囚われたくはない。私は、時に映画音楽的とさえ評されるオーケストラのゴージャスな響きの背後に、いつもそんな苦い真実を感じるからこそこの曲を愛している。このCDを聴いていて、そのことをしみじみと実感できたのです。

     

     そんな観念にまみれた苦行のような音楽鑑賞の仕方は、邪道だと言われるかもしれません。でも、私は、このショスタコーヴィチの音楽にある「怒り」に同化し、自分のものとして持つことで、この曲を愛することができます。どんなに音楽的に優れた演奏でも、それができなければ私自身は心を動かされないし、このピアノ版のようなハンディを背負った演奏でも、十分に感銘を受けることができる。この聴き方はたぶん、死ぬまで変えられない。誰にも私のような聴き方は押しつけない代わりに、私はこの道を往く。そんな誰も聞いてやしない信条告白をしながら、このディスクを聴きました。

     

     購入前の一瞬の躊躇を振り切って、このディスクを聴いて良かったと心から思います。ショップでCDをレジに持って行ったときの自分をほめてやりたい。

     

    「鐘の音」つきの最終楽章のコーダに続いては、これもまた作曲者自身の編曲による「二人でお茶を」が収録されています。こちらの曲でも、彼女らは、作曲家の楽譜の指示に従ったという切れ味の良いテンポで、さくさくと進んでいく。でも、随所でショスタコーヴィチの音の遊びは、軽快に具現化していて、やはり聴いていて楽しい。

     

     ショスタコーヴィチの音楽の無尽蔵の面白さ、そしてこの交響曲第11番の純音楽的な素晴らしさを、これまでにない視点で実感することのできた演奏でした。これに懲りず、リヒテルとショスタコーヴィチが連弾して仕上げたという第9番とか、第8番といった曲も、これから順次録音してくれたらと願ってやみません。

    スポンサーサイト

    2018.06.18 Monday

    0
      コメント
      コメントする
      トラックバック
      この記事のトラックバックURL