【ディスク 感想】ウィリアム・バード&ジャパン 〜 中村恵美(Cemb)
2018.06.16 Saturday
クラシックのCDを聴いて声を上げて笑ったのは、久しぶりのような気がします。しかも内容は冗談音楽でも何でもない。れっきとした古楽ど真ん中のディスク、やっている人たちも至って大真面目。だけれど、というか、だからこそ楽しくて笑いがこみ上げてきてしまう。
それは、チェンバロ奏者中村恵美の新盤、「ウィリアム・バード&ジャパン」の中に収められた「戦い」でした。
チェンバロのみによる「兵士たちの招集」に続き、2曲目「歩兵の行進」で事件は起こります。チェンバロの和音に乗って、ものすごい音圧で吹かれた田楽笛の音が鳴り響くと、右チャンネルからは肚の底から振り絞ったような「イヨ〜〜」「ホッ!」という掛け声が聴こえてくるのです!ある時は、ひく〜い音からひねり出すように、またある時は、短く鋭く、そして絶妙のタイミングで声が発せられます。笛の音の方は、まったく違和感がないのですが、掛け声の突拍子のなさと、曲との意外なまでのマッチぶりに、思わず笑ってしまったのです。
後続の曲すべてが、そんな感じで進んでいきます。チェンバロが400年前のイギリスの音楽を鳴らしている横で、ピーヒャラピーヒャラ、ポンッ、「イヨ〜」、ポンッ、「ホッ」が絶えず鳴り響く。特に、太鼓や鼓と掛け声のタイミングのあまりの絶妙さに仰け反ってしまう。その名もずばり「横笛と太鼓」という曲が凄い。チェンバロが、目まぐるしく音程が上下する早いパッセージを弾く脇で、笛の音と、鼓、掛け声が、互いにジャブの応酬を繰り広げる。最後の「退却」の自由なテンポ感の中での絶妙のアンサンブルなど、そのありようはほとんどモダンジャズに近い。スリリングでクールなインプロヴィゼーションになっていて(実際に即興で演奏されているらしい!)、息を呑むばかりです。まさにコンチェルタンテ、あるいは、ジャム・セッションというべきか。
面白い。とにかく面白い。そして素晴らしい。何べんも繰り返して聴きたくなる、やみつきになる音楽。
バードの「戦い」はチェンバロの独奏曲ですが、当盤では、能管と田楽笛を吹く一噌幸弘と、邦楽打楽器を叩く望月太喜之丞との共演で演奏されています。ライナーの中村自身の解説によれば、もともとの曲に笛や太鼓を模した音型があって編曲しやすいことと、16〜17世紀を生きたイギリスの作曲家バードの音楽にある「なつかしさ」が日本の伝統音楽と共通するように感じられることから、このコラボを実現させたとのこと。
私の場合は、これら邦楽の響きには馴染んでいないので、正直「懐かしい」という感覚はありません。バロックと邦楽の組み合わせを聴くのは初めてではありませんが、こんなの今まで聴いたことがないという驚きの方が先に立ってしまいます。ただ、確かに、中村が書いている通り、バードの音楽の中に、日本古来の音楽と響き合うものがあるようには思いました。
それは、「雑音」を許容する音楽であるということです。雑音と言っても悪い意味ではありません。前述のように、原曲自身が、ラッパや笛、太鼓の音を意識して書かれた音楽であり、楽器や声以外の雑音が音楽の中に入り込んでいるのです。一方で、邦楽、邦楽器は、雑音を積極的に音楽にしてしまうもの。古来、声にも雑音がある方が美しいとみなされてきた。狭くて木造の建物の中では、響きが良すぎるとうるさくなるので、雑音を適宜織り交ぜることによってそれを抑えるのが良いとされている。まさに今読んでいる本の中で、そんな記述を見ました。
そんなふうに雑音が織り込まれた音楽の中で、雑音を生かした邦楽器が縦横無尽に大活躍している。バードが和楽器のために書いたのかと錯覚しそうになるくらいに愉しい笛の縦横無尽の躍動。次はどう来るのかとワクワクしてしまう鼓と掛け声。その声はたしかに「美しい」。それにあと1マイクロ秒ずれても台無しになりそうなくらいにぴったりの間。聴き手の私以上に、チェンバロを弾いている中村自身がこのセッションを楽しんでいるのではないかというくらいに、中村の演奏も生き生きしている。
こんなにユーモラスで、悲惨さなど皆無の「戦争」。私たちが生きる21世紀に、こんなものが現実にあってたまるものかとは思います。でも、その反面、妄想してしまいます。戦場に、このユーモアあふれる音楽がどこかから流れてくる。すると、武装した兵士たちがばかばかしくなって戦意喪失し、皆兵器を捨てて踊りだす。そして、皆が微笑み合い、手をとって、平和が訪れるのではないかという気もする。演奏者がそんなことを意図している訳ではないでしょう。実際にそんなこともあり得ない。だけれど、おもちゃの兵隊さんたちがドンパチやっているような可愛らしい音楽による戦争を聴いていると、戦争はこの音の世界の中だけにとどめておこうよと思う。
「戦争」以外のヴァージナル曲でも、日本の伝統音楽との共通点はあるのかもしれません。音の良く響く広い空間ではなく、日本家屋のように、狭くて、外界と遮断されておらず、音の通らないスペースで奏でられるのが相応しい音楽。宗教音楽を書き、王家ともつながりのあったバードが書いた世俗的な音楽が、自然の中で聖と俗がフラットに共存する和の空間の中でも、生き生きとしたいのちを得て、ゆたかに息づいている。和楽器とのコラボによる「戦争」の演奏で得た視点からは、そんな図式が、アルバム全体で見わたすことができます。とても素敵なビジョンだと思います。
思えば、ヨーロッパでは西洋の古楽とイスラム音楽をコラボさせるのが大流行しています。異文化が音楽の場で出会うことで生まれる新しさに注目が集まっているし、実際の歴史の中ではそれが起こって、かえってその土地独自の音楽文化を花開かせてきた。このアルバムのように、私たち日本人のルーツとなる音楽とバードのチェンバロ曲が出会うのも、そうした流れの一つだと考えれば、「雑音」で結ばれた当然の帰結だと言えます。
このアルバム、「戦争」に至るまでは、普通のバードのチェンバロ曲集です。ダウランドの「流れよ我が涙」を編曲した「涙のパヴァーヌ」を始め、「女王のアルマン(ド)」、「ウィロビー卿のご帰還」「ファンタジアBK62」などが収録されています。中村は、ヴァージナルに似た響きをもったチェンバロの持ち味を十全に生かし、生き生きとした表情を絶やさずに、丁寧な造形と、やわらかな運びを保って音楽を進めていきます。もし収録曲がこれだけだとしても、十分に素晴らしいアルバムだと言えます。
でも、やはりこの「戦争」が入ることで、このアルバムの魅力は二倍にも三倍にもなっていると言えます。センセーションを狙ったのでも、安易なコラボレーションでもなく、バードの音楽の本質って何だっけ?ということを考えさせてくれる。
私は、16,17世紀イギリスで生まれたバードの音楽に対して、「その時代の西洋音楽」の枠組みの中で語れるものを「本質」だと思ってきました。でも、もっと高い視点に立ってみると、その音楽の深層には、時代を超え、日本人、日本の音楽と共通するものがあるのではないかと、そんな気がしてきます。私は学者ではないので、これ以上深く考察する力もありませんが、音楽を聴いて安易に「本質を衝いた演奏」だなんて言うのも考えもの、気をつけようとは思いました。
ところで、このアルバムのジャケットは、屋外の椅子に腰掛け、赤ちゃんに哺乳瓶で授乳している中村のモノクロ写真です。デビュー盤のデュフリ曲集のジャケットは清楚なお嬢さんというふうでしたが、随分と雰囲気は変わるものだなあと思います。アルバムのタイトルやコンセプトと一体どういう関係があるのか分かりませんが、ほっこりと微笑んでしまう。「ジャパン」を、働きながら子供を育てる人たちにとっても、のびのびと暮らしやすい場所であるようにしたいなと、心から思います。
繰り返します。
実に、実に面白いディスクでした。これ、ナマで聴いてみたい、それが難しければ、せめて動画で見たいです。
CDのことをネットで探していて、こちらにたどり着きました。
この度は、とても嬉しいご感想をいただき、ありがとうございます。私としては、かなり冒険心を込めたCDに仕上がったので、とても嬉しいご感想に勇気づけられました。
もし差し支えなければ、私のブログでご紹介させていただいてもよろしいでしょうか?
またお礼に、もしご都合よろしければ、9月2日(日)に表参道の能楽堂で発売記念コンサートがございますので、こちらのほうをご紹介させていただきたいのですが、お時間いかがでしょうか?
どうぞよろしくお願い致します。