【雑記】音楽は直線的に進化するのではない、ということについての散漫で無意味な呟き

2018.07.22 Sunday

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    ・SWITCHインタビュー 達人達「宇多丸×畑中章宏」

     (2018.7.7 ETV放映)

     

     

     

     

     

     

     

     先日、民俗学者の畑中章宏さんと、ラッパーの宇多丸さんが、TV番組で対談していました。その中で、畑中さんの「死者は饒舌である」という言葉に続けて、宇多丸さんが大体こんなことを言っていました。

     

    「ずっと昔の、とっくに死んでしまった人たちの音楽が入ったレコードなのに、なぜか新しい音楽として響いてしまうことがある。音楽に古いも新しいもない。古いものの中に新しさはある。新しいと思っていたものの中に古さはある。音楽は直線的に進化するのではない」

     

     私の若い頃は、「〇〇なんてもう古い」「〇〇の時代は終わった。いま、時代は△△」みたいなことが、よく言われていました。○○には、クラシック、ジャズ、ロック、歌謡曲(J-POP)、どんなジャンルのどんな人やグループの名前が入ってもいい。とにかく、その時点で古いとされるものはダメ、最新のものこそが常にいい音楽なのだという価値観が、私たちの世代では幅を利かせていた。それこそ、音楽は直線的に進化するものという考え方が、広く浸透していたと言えます。古い音楽への愛着を口にした途端、白眼視とまでは言わないまでも、変わり者扱いをされることも少なくなかった。

     

     今は、そうした考え方こそ「古い」ものになっていると思います。YouTubeやサブスクリプションを通して、古今東西の音楽に気軽にアクセスできる時代。昔高く評価されていた、あるいは流行していた音楽を、ただ古いということだけで聴きもせずシャットアウトするのではなく、先入観なく新鮮なものとして面白がる方が楽しいに決まっている。もちろん、爆発的なヒットになることはないでしょうけれど、何かのきっかけで突如として昔の音楽に注目が集まることはよくある。それは特に技術の進化に伴い、古い音楽にアクセスしやすくなったことがもたらした現象なのに違いありません。

     

     だからといって、古い音楽こそ最高で、新しい音楽には価値がない、という考え方に傾いてしまうのも愚の骨頂。ちょっと前に「クラオタ老害分類図」なんてのがネットで出回って話題になりましたが、実在する一部の人たちのように、自分の勝手な思い込みで往年の巨匠による歴史的名盤を神格化したり、それを若い人たちに押しつけてマウンティングしたりするようなのはもっと良くない。

     

     確かに、古い音楽には、現代の音楽家が逆立ちしたって生み出せない魅力がある。時代が変わっても、まったく価値の変わらない音楽は絶対に存在する。

     

     だけれど、それと同じように、ある側面から見れば、新しい音楽が古い音楽より優れている点はいくらでもある。そのことは決して忘れてはならないと思います。

     

     大事なのは、古いもの、新しいもの、それぞれの音楽が持つかけがえのない良さを味わう、ということと言えるでしょうか。それをするためには、まず宇多丸さんの言うように、「音楽は時代と共に直線的に進化するのでは、ない」と認識する。背景のまったく違う音楽を、全部おんなじ土俵に乗せ、同じ価値基準でふるいにかけて優劣を測るようなことはしない。日常体験の中で得られた、いろいろなものさしを活用し、古い音楽は古い音楽なりに、新しい音楽は新しい音楽なりに、自分が一番楽しめて波長の合う視点なり場所を見つける。

     

     私も、そんなふうにして音楽を楽しめればいいなと思いました。

     

     いいなと思ったということは、まだ実現できていないということ。言うは易し行うは難し。ヒストリカル音源を聴くと、感覚的な違和感に戸惑い、その面白さや価値になかなか気づけないことはよくあります。技術的に弾けてないと、耳がそこで止まってしまう場合も少なくない。正直、あからさまに「老害」をふりまく人たちの言説を目にして、意地になって「いま」の音楽を称揚したくなる気持ちも、心の奥の方にある。

     

     また、その反対に、ある特定の特別な私の聴体験を神棚に飾り、その後の新しい音楽を否定してしまうようなメンタリティも自分の中にはあるように思います。特に20代の頃までに聴いた音楽の感動を大切にするあまり、それらとはまったく違う「新しい」スタンスで成し遂げられた音楽を拒絶してしまうことはあります。

     

     人間には、過去の成功体験のようなものにしがみつき、それ以外のものを受け付けない性分はどこかにあるのかもしれません。今、リアルタイムで聴ける音楽に触れたとき、ただそれが私の愛する「古い」音楽と似ていないというだけの理由で、「最近の音楽家はみんな小粒になってしまった」と嘆いたりはしていないか。そう自問して、否定し切れる自信はあんまりない。

     

     私ももう「老害」と呼ばれる年齢層に入りました。せめて気持ちだけでも、ずっと若いままでいたいとは思うのですけれど、現実はなかなか厳しい。このブログやSNS、あるいはパブリックな場への執筆などで、十分に害を巻き散らしてきているのかもしれない。そう思うと、冷や汗が出てきます。

     

     ですが、世の中に目を向ければ、宇多丸さんの言う「無時代的に」音楽を楽しむスキルを身につけた人たちは、確かに存在しています。私が敬愛する幾人かのプロの評論家の方々、そして、ブログ勃興時代から、私が憧れの眼差しを向けていた本物の「通」の愛好家の方々。およそ現実味のない古い録音も、とれたてぴっちぴちの音楽も、それぞれに相応しい聴き方と味わい方で楽しみ、その上に的確で正当な評価まで下すことができる人たち。彼ら彼女らの文章や呟きは、雑誌でもネットでもいくらでも見ることができます(傾向としては、若い人よりもベテランの方が多いように思える。あくまで個人の感想ですが)。そのやわらかな音楽の聴取の仕方に触れて、ああ、自分も少しでもその「達人」たちの領域に近づきたいなあと、ため息が出てしまいます・・・。

     

     いや、人のことを羨んでも仕方がない。私は私。自分の道をみつけて生きていくしかない。

     

     古いものであれ、新しいものであれ、まずはまったく未知のものとして音楽を「知る」。その後、既に「知っている」音楽への体験を増やし、音楽をより深く「識る」。こうして音楽への「知識」を豊かなものにして、その中にある新しさと古さを共に感じとる。そうした技を身に着けられれば、音楽はさらに味わい深く、滋養に満ちたものになるのだろうなということは、ぼんやりと想像はできます。

     

     ならば。

     

     古いものを、その価値も分からないままにdisって、勝手に不要と判断して破棄しない(東大の生協の壁画のように)。自分の過去の体験を引きずって、新しいものの本当の価値に目を背けて拒絶しない。「あれか、これか」よりも、「あれも、これも」を基本として、音楽の非直線的な進化を楽しむ。そんな聴き手に、私はなりたい。

     

     いや、こんな場で誰も読みやしないだろう決意表明をしている時点で、私は老害クラオタ認定でしょうか。まあそんなことはどうでもいい。このまったく着地点のない、とりとめのないおしゃべりは、とりあえずここでいったん終わりにしておきます。

     

     ・・・以上、宇多丸さんのTVでの言葉に反応しての駄文でした。

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    2018.08.06 Monday

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