【ディスク 感想】1948 チェロとピアノのためのロシア作品集 ラウラ・ファン・デル・ヘイデン(Vc)ペトル・リモノフ(P)

2018.08.21 Tuesday

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    ・1948〜チェロとピアノのためのロシア作品集〜プロコフィエフ、ミャスコフスキー、他

     ラウラ・ファン・デル・ヘイデン(Vc)、ペトル・リモノフ(P)(Champs Hill Records)

     →詳細はコチラ(Tower/HMV)

     

     

     

     

     

     

     

     

     今、イギリスから若いチェリストが来日しています。ラウラ・ファン・デル・ヘイデンがその人。今日(8/21)は読売日響の「三大協奏曲の夕べ」でドヴォコンを弾き、8/24には武蔵野市民文化会館でリサイタル(昼と夜の二回)を開きます。その彼女のデビューCD「1948〜チェロとピアノのためのロシア音楽集」について感想を書いておきます。今年の初めに入手して気に入っていたのですが、ずっと感想を書けずに来てしまっていました。ピアノは、ペトル・リモノフ。

     

     このアルバムのコンセプトは、1948年の例のジダーノフ批判がロシアの音楽に与えた影響を、その近辺で書かれたチェロとピアノの作品から浮彫にしようというものです。プロコフィエフのソナタ(1949)、シャポーリンの5つの小品(1956)、ミャスコフスキーのソナタ第2番(1948)、そして、アンコール的位置づけでリャードフの前奏曲(1885)。

     

     ジダーノフ批判では、モダンな作風を誇った作曲家が西側かぶれの形式主義者と激しく非難され、自己批判と作風の転換を強要されました。ショスタコーヴィチも、プロコフィエフも、ミャスコフスキーも、カバレフスキーも、みんなやられた(真のターゲットはショスタコーヴィチだけだったという説もあるらしいですが)。

     

     猛威を奮った弾圧によって優秀な作曲家が次々失脚する中、逆に名誉をかち得たのがシャポーリンでした。ジダーノフ批判の矛先に立ったフレンニコフほどには彼が忌み嫌われておらず、最近復権しているのは、彼が自らの保身のためにえげつないことをした訳ではないからなのでしょうか。

     

     今回、ヘイデンのデビュー盤に収められたリャードフ以外の作品は、1948年ジダーノフ批判を受けて作風を変えた二人(プロコフィエフとミャスコフスキー)の曲と、作風を変えなくて良かった一人(シャポーリン)の作品が並んでいる訳です。モダンな作風で楽壇を賑わせていた前者は、保守的な作風の音楽を書くように仕向けられた訳ですが、後者はもともとそういう音楽を書いていた。その結果、3曲共に作曲家の個性がはっきり刻印されたものでありながら、いずれも同じ匂いのする音楽になっています。

     

     つまり、明瞭な調性があってメロディは平易でわかりやすく、要するに保守的であるということ。当時としては、既に時代遅れだったはずのリャードフの曲を並べてもまったく違和感がない。ですから、アルバムを通して、非常に耳当たりの良いハイセンスな音楽を楽しむことができます。

     

     このことをどう捉えればよいのか。弾圧された側の作曲家が、持ち前の革新的な音楽への志向を捨てた(捨てさせられた)がゆえに万人向けの美しい音楽が遺されたのだ、ジダーノフさん、よくやったと褒めてあげるべきなのでしょうか。

     

     それとも、天才作曲家にこんな魂の抜けたような保守的な音楽を書かせたことに怒り、ジダーノフやフレンニコフ、そしてシャポーリンを糾弾すべきなのでしょうか。

     

     ジダーノフを褒めるなんていうのはまったくの愚の骨頂。だって、もしジダーノフを賛美するなら、ショスタコーヴィチが最大の人気作である交響曲第5番を書いたのは、スターリンと、プラウダ紙にも感謝しなければならなくなる。ショスタコーヴィチに歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」やそれまでの交響曲のような前衛的な作風をかなぐり捨てて、親しみやすくて、しかも非常によくできた交響曲を書くように仕向けて「くれた」のだと。そしてその流れから、後年の様々な名作が生まれたのだからと。

     

     でも、どう考えてもそれはおかしい。もし彼を「人民の敵」と名指ししたプラウダ批判がなければ、ショスタコーヴィチはもっと自由に、すぐれた作品を書いたでしょう。交響曲第5番のようなポピュラーな作品も残したはずです。国家による弾圧で彼の活動はかなり制限を受けてしまったことは間違いない。創造をおこなう過程では、ある程度の制約や不自由はむしろ必要なのでしょうが、芸術であれ、我々の暮らしであれ、権力による恣意的かつ理不尽な締め付けが何か良いものを生んだためしはない。

     

     とは言え、ここに収められた音楽は、すべて一流の作曲家の手による優れた作品であることもまた間違いないところです。ジダーノフ批判のことを知らずに聴けば、曲の構成にもまったく無駄はなく、その音楽の凛とした立ち姿の美しさにはただただ耳と心を奪われてしまう。無理やり書かされた音楽かもしれないけれど、作曲家たちはその中で最善は尽くしている。体制に阿ったクソ音楽では決して言えない。

     

     であれば、やっぱりジダーノフにはそれなりの功績があったと認めるべきなのか。いや、やはりそうではない。芸術家の創作の自由を阻むような政治家を称えるようなことは、西から登ったおひさまが東へ沈んだとしても絶対にやってはいけない。さあ、どっちにするか。

     

     ・・・そんなふうにどうでもよいことで悩まねばならないのは、演奏者であるヘイデンとリモノフの二人のせいです。この二人が、収録された曲たちのもつさまざまな美質をはっきりと、そして説得力を持って引き出してくれているからです。

     

     ヘイデンのチェロは、太くて豊かな音色と、なかなかにスケールの大きな歌い口が魅力。明瞭な撥音で音楽の稜線をくっきりと描きながら、細部までニュアンスに富んだ節回しを見せ、それでもなおかつ息の長いフレーズをたっぷりと歌う。音量・表現ともにダイナミックレンジを広くとり、それぞれの楽想に相応しい強度と彩りを与えることに成功している。ロシアの音楽の演奏では絶対に欠かせないポイントは押さえています。

     

     しかし、それでいて彼女の演奏の味わいは無国籍風です。これらの楽曲の成立に深く関わったロストロポーヴィチを思わせるような「ロシア臭」はほとんどない。あらゆる面においてニュートラル、グローバルなスタイルで演奏されています。

     

     要するに、「今風」の演奏だと言って差し支えない。たぶん、かつて神保町にあった「新世界レコード」に入り浸っていたような、ロシア―ソ連のど真ん中の音楽を愛したマニアの方々にとっては物足りない演奏なのかもしれません。でも、そういう種類の人間ではない私には、彼女の演奏は魅力的に響きます。これらの作品を特殊なローカル性の中に閉じ込めておきたくない、ジダーノフ批判などという「物語」とは関係なく、美しい音楽を美しいままに演奏して聴き手に届けたいという姿勢が感じられ、そこにとても共感するからです。

     

     もうちょっと味付けが濃くてもいいかな、もう少し曲の深奥にまで踏み込んでほしいと思う部分もなくはありません。表現の引き出しの数や容量には限りがあるように思えて(最近出たヨー・ヨー・マのバッハの無伴奏の三回目の自由自在な表現を聴いたばかりという事情もありますが)、今後に期待したいかなと思うところもいくつかあります。

     

     ですが、トータルで言えば、非常に質の高い秀演を聴かせてもらったし、珍しい作品もこのディスクで聴けて満足しています。

     

     個々の曲では、気に入ったのはシャポーリンです。とにかく甘美でセンチメンタルな旋律が耳に残ります。そもそも、彼の交響曲や弦楽四重奏曲には結構好きな曲もあって、私の音楽的な好みと相性の良い作曲家ではありました。でも、今回のディスクにおける、ジダーノフ批判という文脈の中でとりあげられるという非常に不利な状況でも、彼の音楽が魅力的に響いたということは、やはりその作品には魅力があるということだと考えます。作風が保守的であるイコール悪というような思考は一旦横に置くべきだなとつくづく思います。

     

     プロコフィエフのソナタは、音色、表現ともに私がこの曲に対して抱いているイメージよりもちょっと温度が高い気がします。でも、その肉感的とも言える表現は曲とマッチはしていて、これはこれで好きです。

     

     一時期Ottavaで人気作曲家の座を獲得したミャスコフスキーのソナタも、歌心に溢れた佳品。第2楽章のわび・さびの境地を思わせる静けさが特に印象に残ります。

     

     ボーナストラック的に収録された最後のリャードフの前奏曲は、他の収録曲のある意味プロトタイプ的な位置にあって、どんな歴史があろうとも途切れない連続性のようなものを痛感しました。

     

     リモノフのピアノは音色が透明で美しく、リッチなヘイデンのチェロのサウンドとは好対照をなしていますが、両者の息はぴったりと合っていて良好なパートナーぶり。時にヘイデンを引っ張るようなかたちで音楽を形作っていくところもあり頼もしい。セッション中は両者の間にはタフなやりとりがあったらしいのですが、とても良いコンビネーションだと思います。

     

     何しろ若いチェリストですから、これからどんな活躍をしていくのかは分かりません。他にも素晴らしい音楽を聴かせてくれる若手チェリストはたくさんいて、彼女がその中でどんな位置を占めていくのかも未知数です。しかし、このアルバムで聴かせてくれたような豊かな音楽にもっと磨きをかけて、楽しませてくれたらと願わずにはいられません。

     

     結論。たとえ時の権力者が自分たちにとって不都合なものを排斥・弾圧したとしても、芸術家の中には困難な状況をしたたかに生き抜く人がいる。そうした芸術家の作品は、弱点を抱えたままでも、時代を超えて生き残る。一方で芸術を弾圧した権力側は、恥ずべき悪者として未来永劫記憶される。それから、ヘイデンさんは、ぜひ実演でチェロを弾く姿を拝みたい。以上。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     


     

     

     

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