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2019.06.03 Monday

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    【演奏会 感想】ベートーヴェン/交響曲第9番 〜 アントニ・ヴィト指揮新日本フィル(2018.12.14 サントリーホール)

    2018.12.15 Saturday

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      ・ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調Op.125「合唱」

       アントニ・ヴィト指揮新日本フィル

       盛田 麻央(S) 中島 郁子(A)

       大槻 孝志(T) 萩原 潤(Br)

       栗友会合唱団(栗山文宏指揮)

       (2018.12.14 サントリーホール)

       

       

       

       

       

       

       

       

       

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       ラケル・アンドゥエサのコンサートに行って久しぶりに演奏会のチラシをもらい、アントニ・ヴィトが新日本フィルに来演して「第9」を振ることを知りました。コンサートから足が遠のいているとは言え、情報に疎いのにもほどがあると自分に苦笑しつつ、慌てて初日のサントリーホール公演チケットを購入しました。幸いP席が一つだけ残っていたので、敬愛してやまない指揮者の指揮ぶりを正面から見られるのを楽しみに聴きました。

       

       それは一言で言えば実にオーソドックスな演奏でした。

       

       刺激に満ちた演奏に慣れきった私たち聴き手に、「いいかね、君たちが聴く演奏はどれもセンセーションを狙いすぎなのだよ。楽譜の通りに演奏するだけで音楽の偉大さは十分にわかるはずだよ」と教え諭すかのような演奏。

       

       他との差別化を狙って新機軸を打ち出し、18世紀末からヨーロッパを席巻した市民革命の芸術的帰結としての大作というような大風呂敷は広げていない。「苦悩を通しての歓喜」などという物語性を強調し、いやがうえにも感動を巻き起こそうとするような商売っ気など微塵もない。

       

       楽譜もクリティカルなエディションは使わず、随所でワーグナーやワインガルトナー以来の慣習的な楽譜の改変も見られるし、第2楽章の繰り返しも、ミニマム。第4楽章の「Vor Gott!」はティンパニもオケもディミヌエンドなし、トルコ行進曲の後のフガートでは、何か所かファーストVnが音を上げているように聴こえました。テンポも全体的に中庸で、ほぼインテンポを貫いている。これまで演奏された第9の全データを集計して平均値を出したら、ちょうど今回のヴィトの演奏くらいになるんじゃないかと思います。

       

       かと言って、すべてを削ぎ落し、「これは単なる交響曲にすぎない」とばかり、ゲンダイオンガク的な冷血冷徹な姿勢を守るという訳でもなくて、音楽が盛り上がるときにはドラマティックな力感を十分に見せるし、いつものヴィトらしく柔らかい中欧的な音色をオーケストラから引き出して耳を楽しませてくれてもいる。決して無味乾燥な演奏でもないし、微温的な煮え切らない演奏でもない。私は、終始、浴槽に浸かったときのように「ああ、いい曲だな」と心の中で呟き、いい音楽を聴いているという確かな実感をあたためながら、ヴィトと新日本フィルが演奏する「第9」を味わいました。

       

       これは何かの「伝統」を背負った「第9」なのだと私は感じました。80年代くらいまでは世界のどこでも普通に聴くことのできた普遍的なスタイル、解釈に基づいた演奏だと。

       

       私はいま、何気なく「伝統」という言葉を使いましたが、その「伝統」って何でしょうか?誰の、どこの「伝統」なのか?彼の指揮する「第9」の源泉はどこにあるのか?

       

       そんな問いが私の中で湧き起こったのですが、答えはまったく分かりません。そもそも本当に「伝統」などというものが根本にあるかも怪しいかもしれない。

       

       でも、ヴィトという指揮者が生まれ育ったポーランドという国の文化的、社会的な歴史と大きな関係があるような気はしています。第二次世界大戦でナチスドイツに蹂躙され、冷戦体制でソ連に押さえつけられ続けた歴史をもつポーランド。作曲家のペンデレツキやルトスワフスキ、グレツキ、映画監督のアンジェイ・ワイダなど、旺盛な反骨精神をもち作品に色濃く反映させた大芸術家を生んだ土壌が、1944年にクラクフに生まれたヴィトの人間的、音楽的なありように影響を与えない訳がありません。

       

      「第9」という音楽が呼び醒ます熱狂と興奮 −それもファシズムを想起させるような集団ヒステリーと紙一重のもの− への、ものすごく本能的かつ理知的な警戒感が、この常に冷静さを失わないザッハリッヒな「第9」を生んでいるのかもしれない。そして、非人間的な状況にあっても個人の尊厳と、高い理想を掲げて圧政の時代を生き抜いた求道的な姿勢が、血の通ったあたたかさに満ちた演奏を聴かせてくれたのかもしれない。

       

       それは、恐らく第二次世界大戦を経験した特に東欧諸国の人たちにとって、広く共感されるべき「第9」への姿勢であると同時に、世界的に見てもそれがスタンダードであった時期が長かったのだろうと思います。90年代以降、古楽の隆盛や社会状況の大きな変化により、もっと異なった複数の視点から「第9」を捉えることが普通になり、「伝統」はより細分化・専門家され、日々頻繁にアップデートされている。それが良いことなのか悪いことなのかは分かりませんが、その歴史の流れはもう変えられない。

       

       だからこそ、この「伝統的」な「第9」は貴重なのだと思います。ある意味、ガラパゴス的に世界の趨勢に左右されずに、そのままのかたちで保存された「終戦後の東欧の伝統」をこうして聴くことで、私たちはまたいろいろと思いを巡らせて、明日への布石とすることもできるのではないかと思います。

       

       しかも、その「伝統」を懐古的、反動的なものとしてではなく、「普遍」という言葉にとても近いところにあるものとして感じさせてくれるところに私は感銘を受けました。

       

       最近、ポーランドでは政治の右傾化が進み、EUとの対立を深めているというニュースを読みました。政治権力が、かつて自国を蹂躙した連中と似たようなことをやり始めているとも聞きますし、少年たちが「義勇団」なる組織に参加しているという報道もあります。もしかするとヴィトの振る「第9」に真摯に耳を傾けるべきは、私たち以上に、ポーランドの若者なのかもしれないと、クリスマス仕様のサントリーホールに集まった人たちを見ながら思ったりします(外国人の姿を多く見かけましたが、どういう人たちでしょう?)

       

       演奏の出来については、P席で聴いた以上、細部まではどうなのかよく分からないところも多いのですが、新日本フィルはヴィトの意図をよく汲んで、充実した演奏を聴かせてくれたように思います。

       

       対向配置をとり、14型、ピッコロとコントラファゴット以外は補強なしの二管編成のオーケストラからは、ヴィトが目指したであろう澄んだ響きが生まれていました。特に弦の内声部の充実は著しく、第3楽章や第4楽章の二重フーガの前の部分はとても美しかった。管楽器では、時にベルアップして熱っぽく歌うオーボエの音色が心に残りました(間接音でしか聴けませんでしたが)。

       

       声楽は、さすがにP席からは何も分からないのですが、舞台後方に並んだ合唱は、人海戦術に頼ることなく美しい響きを聴かせてくれたと思います。合唱の横、舞台下手側のひな壇に第4楽章の二度目のファンファーレの時に入場してきた独唱者たちの歌も悪くなかった。僅かにテノールの大槻がアラ・マルチアでかなり前のめりになってオケとズレがちだったのだけが気になりましたが、でも、4人ともヴィブラート過剰にならず、豊かな倍音を響かせた歌に好感を持ちました。暑苦しさがなくて、いい。

       

       プログラムの演奏者紹介の欄には、ヴィトは「多くに望まれての再登場」と書かれていました。前回客演時のシマノフスキの2番は確かに素晴らしかった。そして、今年のいつだったかに都響に来て振ったルトスワフスキの交響曲第3番も強烈でした。本当に彼が望まれているのなら、彼の指揮でシマノフスキ、ルトスワフスキ・チクルスをやってほしいと切実に思います。カルウォヴィッチ、ペンデレツキやグレツキも聴きたい。

       

       いやいや、Naxosに名演が残っているシューマン、マーラー、R.シュトラウス、チャイコフスキー、ヤナーチェク、ドヴォルザーク、メシアンも、そしてベートーヴェンやブラームスも聴きたい。

       

       とにかく、国内外の人気ピアニストの伴奏で中プロでショパンのピアノ協奏曲を指揮するというようなありきたりのプログラムではなくて、この名指揮者の実力を存分に堪能できるような演目の演奏会を聴きたいものです。恐らく、さほど少なくないと思われるヴィトの「隠れファン」は、それを心から待ち望んでいると思いますが・・・。

       

       それにしても、ヴィトなのかヴィットなのか。「ヴィットとはオレのことかとヴィトが言い」みたいな状況なのか、その逆なのか。新日本フィルはヴィットと表記しているし、ご本人もヴィットだと主張されているとのことですが、私はヴィトで慣れているし、彼のCDを多くリリースしているNaxosがヴィトなのでそうしておきます。

       

       なお、「第9」に先立ち、室住素子のオルガンで、バッハの「トッカータとフーガ」、ヨンの「ユモレスク」が演奏されました。さすがにオルガンの横の席ではちゃんと聴けたとは言えませんが、パイプの配置場所によって音の聴こえ方が変わり、私のいた舞台下手側の席からは時折聴き取りにくい音があったのが面白かった。チャイコフスキーの「悲愴」のフィナーレ冒頭のように、一つの旋律やパッセージが、左右からステレオ効果で聴こえたからです。ヨンの「ユモレスク」が文字通りユーモラスな曲で掘り出しものでした。

       

       とは言え、正直なところ、なんで「第9」の前にオルガンの演奏があるのか、私には理由がよく分かりません。普段、サントリーホールに来ることの少ない人たちのための、一種のデモンストレーションなのでしょうか?でも、計13分くらいの演奏が終わって、「20分の休憩」とアナウンスがあったとき、客席から「えー」という声とともに失笑が聞かれたのが面白かった。私も続けて演奏されるものと思いこんでいた(というか、会場に着くまでそんな曲がプログラムにあることを知らなかった)のですが。なかなか得難い経験をさせてもらいました。

       

       とにかく、もっとヴィトを。

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      2019.06.03 Monday

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        コメント
        通りすがりの者です。突然失礼します。昨年のブログに
        コメントヲつけてもご覧にならないかもしれませんが。。ネルソンスとヴィトのコメントがあまりにも私の印象とぴったりなので思わずコメントしてしまいます。 アマオケの団員なのですが10月にドヴォルザークの交響詩全曲というコンサートを控え、音源をいろいろ聞いています。特にマイナーな「英雄の歌」の音源を探したら、ヴィトとネルソンスのがあったのです。ヴィトで聴くとドヴォルザークの温かさが心に伝わってくるのですが、ネルソンスで聴くと全然伝わらないんです。特にどこといって演奏が悪いわけではないのに。それでネルソンスの演奏ってどんな傾向なのかなとブルックナーを聴いても全然面白くなくて、それでブログではどんなこと書かれているのかなと検索したらここにたどり着いたというわけです。そうしたらヴィトのことまで書かれていてビックリ。同じ感想持つ人がいるのだとなんだかうれしくなったというわけでした。これからヴィトをよく聴いていこうと思います。実は彼のモーツァルトのクラリネット協奏曲、火の鳥、田園というプロを群響で聴いたことがあり素晴らしい演奏でした。火の鳥はちょっと温かみがあり過ぎて緩かったですが。すみません長々とお邪魔しました。
        • by wagmahbru
        • 2019/06/07 12:01 AM
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