平成を代表するクラシック音楽 −「平成精神史 」をめぐってー

2018.12.22 Saturday

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    ・平成精神史 ー天皇・災害・ナショナリズム ー

     片山杜秀(幻冬舎)

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     最近、立て続けに片山杜秀氏の本が出ました。

     

    「ベートーヴェンを聴けば世界史が分かる」(文春文庫)、次に「平成精神史 天皇・災害・ナショナリズム」 (幻冬舎新書)、そして「音楽放浪記 日本之巻 」(ちくま文庫)の三冊。「音盤考現学」「音盤博物誌」の文庫化である「音楽放浪記」はともかく、私には「平成精神史」が抜群に面白かった。

     

    「思想史研究者」である片山氏自身の「思想」がナマな形で出ているからです。平成という時代をいくつかの視点から冷徹に俯瞰・総括し、ポスト平成を生きるためには、「マルクスを読め、機械打ち壊し運動をせよ」と呼びかける。そんな過激ながら的を射た着地点と、そこまでの話のもっていき方がいかにも片山氏らしい。最近はお忙しいのか、語り下ろしで書かれた本なので、氏のあの語り口調がそのまま文体になっているのもいい。

     

     ・・・というような、書評の真似事をしようと思っている訳ではありません。この本を読んで私の中で湧き起こった一つの問いについて、考えたことを書きとめておこうとしています(読書感想文は別途改めて書きたいとは思ってはいますが)。

     

     片山さんは「平成精神史」の中で、平成の文化の極北に位置するものとして「シン・ゴジラ」を挙げ、あの映画が炙り出した平成的なものを体現した人物は野村萬斎だと述べています。また、文学や演劇の分野でも、氏ならではの観点から平成を代表する人たちを選んで、その名前を挙げています(村上春樹は、平成と昭和のハイブリッド作家という位置づけ)。

     

     そう来れば、他ならぬ片山さんの本なのですから、次は「平成のクラシック音楽史」または「平成を代表するクラシック音楽」とくると思いきや、実際にはそうではありませんでした。日本会議の前身「日本を守る国民会議」の生みの親として、黛敏郎については結構紙数を割いて書いているのに。

     

     もしかすると、「平成の音楽史」については、別の本でまとめて書くつもりなのかもしれません。あるいは、元号より西暦の時間軸で進んでいるクラシック音楽には、「平成」などというものは関係がないという判断なのでしょうか。そのへんの事情は分かりませんが、ともあれ、片山さんを近現代の日本のクラシック音楽にめっぽう強い「音楽評論家」として知ったファンとしては、氏がどんな曲、誰を選ぶかが知りたいところです。

     

     でも、現実はそうはならなかったので、本書での論に則って、「平成を代表するクラシック音楽」とは何だろうかと自分なりに考えてみることにしました。

     

     しかし、これが全然分からない。平成初期にまだ存命だった武満から、細川俊夫、西村朗、望月京、藤倉大といった人まで、実演、音盤、評論など僅かな記憶を手繰り寄せてみるのだけれど、さっぱり思い浮かばない。そもそも私はいわゆる「現代音楽」を熱心に聴いている訳ではないのですから、分かりようがないのは当然。いかに自分が偏った一部の音楽しか聴けていないか、痛感します。

     

     でも、片山さんの文章を何度か読んでいて、ハッと思い当たる曲が一つだけありました。きっと色んな人から叱られ、非難されるに違いないので小声で震えながら言います。

     

     佐村河内守、もとい、新垣隆が書いた交響曲第1番「HIROSHIMA」。

     

     例のゴーストライター事件で単に世間を騒がせた曲だという以上に、この音楽ほど、片山さん言うところの「平成的なるもの」を色濃く反映したものはないのではないかと思うのです。いや、音楽の「価値」の話をしている訳でも、音楽学的な「品質」の話をしている訳でもないのです。ただただ、私たちが生きた「平成」という時代の「精神」から生まれ、称賛され、消えていった音楽であるということです。

     

     この曲が「平成的」であるという根拠の第一は、あの曲が、過去の作曲家たちが遺した交響作品のおいしいところを拝借して出来上がったパッチワーク的作品であるという点です。ちょうど「シン・ゴジラ」という映画が、「ゴジラ」のリメイクであるだけでなく、古今東西の名画からの引用、パロディで成立していたのと相通じるものがある。

     

     今は、何であれオリジナリティが尊ばれ、他とのちょっとした類似点もすぐに指摘され、非難される時代。音楽の世界でも、先鋭的な作曲家たちは、斬新な手法や、交換不可能な独自の美意識を武器に、日夜新しい響きを模索しています。そんな中、過去の作品からの影響や憧れを隠さずにいろいろな素材を再利用しながら、正面突破を図って「交響曲」に仕立て上げられた音楽は、確かに当時、ある意味新鮮に感じられたところもあります。

     

     でも、実際には、日本のお家芸的な「真似=学び」から生まれた音楽だったとも考えられます。同時に、ポストモダンが具体化したという平成の時代のあり方を、これ以上ないくらいに正確に映し出していたとも。そこに何かひどく深刻なものが結びつけられているような演出(結局はフェイクだった訳ですが)がなされ、多くの人たちが「聴きたい音楽」を聴きとり、「見たいもの」を見出し、消費した。片山さんが「シン・ゴジラ」に関して述べていたことことと、かなり重なるところがあるように思ったのです。

     

    「ニヒリスティックなコラージュのようでありながら、コラージュの仕方によって泣かせてしまう」

     

    「幾つかの世界を重ねて、その世界に思い当たる観客がそれぞれの仕方で喜んだり感動したりする」

     

    「重ねるために持ってくる世界が深刻だったり痛切だったりすれば、心情移入的なシリアスなつくり方をせずとも、引っ張ってこられた世界への反応として、われわれは笑い、怒り、悲しむのです」

     

    「たいした話ではありません。昭和の末期にポストモダンと呼びならわしていたものが本当に当たり前になってかたちになった。それだけのことです。脈略や主体性がない。組み合わせ方や仕掛け方で世界が生まれて膨らむ。それだけのことです」

     

     もう一つ、「HIROSHIMA」が「平成的であること」の根拠は、実体のある「中心」をもたない、言わば河合隼雄の言うところの「中空構造」をもっている点です。

     

     先ほど挙げた「脈略や主体性がない」という引用と重なるのですが、あの交響曲は長大で複雑な構造を持っていますが、その核にあって全体を貫くような強固な原理、思想といったものは希薄でした。

     

     勿論、まだ生々しい記憶にあるように、音楽の響きや展開に原爆や震災を重ね、激しく心動かされた人たちは多いようでした。でも、私の場合は、我が身に起こる不条理に憤り抗うのではなく、時が過ぎて一条の光が射すのをひたすら待ち続けるような、ぼんやりと曖昧で不思議な「主体性」に抵抗があり、当時そのことを文章にしたこともあります。

     

     今になって思えば、その漠とした「主体性」こそは、相次いで災害が起きてもひたすら耐え(それはもともと災害の多い国であるがゆえのことではありますが)、為政者にやりたい放題のことをされても、それを受け入れている平成の日本人の姿そのものであるようにさえ思える。あらゆるものを先送りにして答えを永遠に保留にしているという姿勢にも見える。この音楽の「主体」に対して、そんなありようを同族嫌悪を抱きつつ感じてしまいます。

     

     さらに、これは片山さんは仰っていないことですが、この交響曲が−結果的にはということになるでしょうが−、さまざまな「分断」を象徴しているという点で、いかにも平成という時代を象徴していると私は考えます。
     

    「HIROSHIMA」が世間で空前の大ヒットとなり、「クラシックブーム」などという言葉を頻繁に目にしていた頃、既にクラシック音楽のファンだった人たち(私もそうです)と、あの曲で初めてクラシック音楽を聴いて興味を持った人たちとの間に温度差がはっきりと見えました。

     

     まず、ゴーストライターの件が発覚するまでは、どちらかと言うと我々固定客の方が「あの曲の素晴らしさを解しようとしない人たち」と非難されることが多く、どちらかと言うと反知性主義的なトゲトゲした言説も少なからずあったように記憶します。

     

     ところが、新垣隆氏が作曲者であると分かった瞬間に、すべてが変わった。今までとは逆方向の非難や罵倒、嘲笑が猛烈に投げかけられた。非難する側の論理はネットやメディアでさかんに取り上げられましたが、非難される側のファンの言葉はぐっと呑み込まれたまま、闇の中へと消えていった感があります。

     

     あの事件発覚によって、以前からクラシック音楽を聴いてきた私たちファンと、新しくクラシック音楽を聴く人たちの間にもともとあった「分断」が可視化され、煽られてしまったような気がします。当事者も含め、あの事件で傷ついた人たちは少なからずいるはずですが、その後ろから石を投げる人たちが絶えずに「炎上」してしまうという状況は、これこそ、ネット社会を前提とした「後期平成的」を象徴するものだったように思えてなりません。

     

     ・・・というようなことを、今は考えています。

     

     忌まわしい一連の事件のことや、あの髪の毛モジャモジャでサングラスをかけた嘘つき男の存在は忘れたい、思い出すだけで吐き気がするという人も多いでしょう。それに、後味の悪い負の記憶ばかりが残る曲に、「平成」というものを代表させるなんて、やっぱり相応しくない。三十年に及ぶ一時代をあの曲に背負わせるのは、何より哀しい。純粋に音楽学的、美学的に優れた音楽、愛すべき音楽は他に山ほどあるはずなのですから。だから、別にあの曲が復活する必要はないと思います。

     

     ただ、平成が終わろうとしているこの時期、あのブームから事件に至る期間に私たちが見たもの、体験したものは何だったのか、音楽の周辺で私たちが何を感じ何をしたか、あるいは、何をしなかったかを思い出してみることは、決して無意味ではないと思います。

     

     なぜなら、この曲をめぐる顛末の背後には、間違いなく平成的な思想の流れがあるからです。そして、それは好むと好まざるとに関わらず、一人一人の人間の思考や嗜好と何らかの関わっている。つまり、あの音楽とその周辺のどこかに、自分の姿が、自らの意志とは関係なく映し出されていると思うのです。勿論、ほとんどの人はただの通行人、傍観者でしょうけれど、自分はその文脈の中でどんなふうに存在していたかを客観的に見てみることも、平成の「振り返り」として機能するはずだと思います。

     

     近年は、片山さんがしょっちゅう仰っているように、年々、クラシック音楽や、音楽に関わるビジネスの存在意義が問われ、主に経済的な理由で社会の中で居場所を見つけにくくなっているように思います(それは日本だけでなく世界的なレベルで言えることですが)。日本では、「ビジネスに効く」ということで西洋美術史やクラシック音楽に熱い視線が注がれているような流れもあり、片山さん自身もそれに類する本(「ベートーヴェンを聴けば世界史が分かる」)を出されてもいます。それに、コンサートビジネスも右肩上がりという話も聞きます。将来を楽観視したくなる材料がない訳ではない。

     

     でも、音楽に限ったことではありませんが、この先、超少子高齢化社会を迎えた10年後、20年後、クラシック音楽をめぐる状況をせめて現状維持できるようにするのも並大抵のことではない気がします。それこそ、音楽なんて聴いてるどころじゃない、「機会打ちこわし運動」でもやらないと生きていけない、そんな時代が到来するかもしれない。でも、それでも、音楽は社会にとってあった方がいいものだというふうに、社会の中でゆるくていいから一定のコンセンサスを得て何とか命脈を保ち、表現者たちが何とか創造活動を続けていける社会にしていかなければ未来はない。

     

     そんな状況で、あの交響曲越しに平成という時代を冷静に振り返ってみることには、価値があると思います。なぜあれほど多くの人たちがCDを競って購入し、コンサートで信じられないほどの静寂(クラシックの通常の演奏会ではほぼあり得ないほどのものでした)の中で集中して音楽を聴き、そして何より心から感動し力を得ていたのか。事件から得た反面教師も含めて、今後、クラシック音楽の居場所を少しでも大きくできるようにするためのヒントは、何かあるはずだと。

     

     私は誰かの肩をもつつもりも、誰かを非難しようとしている訳ではありません。目をそむけたくなるようなことだからと言って、まったく何もなかったように総括もせずついには記録からも消し去ってしまう。そんなことを繰り返していては、まるで政治家みたいで進歩がない気がします。「一人静かに自省する」ことも必要なんじゃないかと思っています。

     

     なので、このような駄文を連ねているという訳です。

     

     とは言え、やっぱり、平成を代表するクラシック音楽とは何かという問いに対し、この「HIROSHIMA」以外の曲に納得する答えを求めたいと思っています。そもそもそんな曲は存在しなくたって全然構わないのですが、一度考え始めたら止まらないので・・・。

     

     その答えの一つとして、ここ数年、聴き続けている武満徹の音楽を考えています。でも、私はどうしても彼の音楽からは「昭和」を感じており、それがまた彼の音楽の魅力だとも認識しています。最近聴いたバッティストーニと”のん”の「系図」があまりにも印象的だったので、もしかするとあの曲に「平成」を代表させることも可能な気がしていますが、でも、どうでしょうか・・・。

     

     若い作曲家の中では、藤倉大の曲におもちゃ箱をひっくり返したように面白いものがあって好んで聴きますが、彼は「日本」「平成」といったものから程遠いところで弾けている作曲家だと思うので、ちょっと違う。

     

     ・・・なんてことを考えていたら、止まらなくなってしまいました。改めて聴き直してみたい曲もたくさんあるし、聴いたことのない曲、存在自体知らない曲ばかりが私の目の前には山のようにある訳ですから、こうやってまた音楽の沼にハマッていく。そうこうしているうちに、あの交響曲「HIROSHIMA」も、カッチーニの「アヴェ・マリア」やアルビノーニの「アダージョ」くらいの位置づけで聴き直すことができて、また違う視点を得て自分の思考を広げられるかもしれないと思ったりもします。

     

     私が片山さんの大学の授業を受けて、こんな文章をレポートで提出したら、恐らくガンツ先生から叱られるロボコンのごとく「0点」を頂戴して落第になることだと思います。何と中味のない文章だろうかと自分でも可笑しくなります。でも、この個人ブログを片山さんが読むはずもないので、思ったこと垂れ流しの文章をこのまま書きっぱなしにしておきます。

     

     今日はこれから、片山杜秀さんの「平成精神史」の発売記念トークイベントを聞きに行きます。どんなお話が聞けるのか楽しみにしています。

     

    ・「らららクラシック」で控えめに番組の仕込みに参加する片山さん(私がTV画面を撮影したもの)

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    2019.03.17 Sunday

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