私はいつまでコンサートに行けるだろうか?

2018.12.23 Sunday

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    ・武蔵野市民文化会館小ホール
     

     

     

     

     先日、三鷹にある武蔵野市民文化会館の小ホールでコンサートを聴きました。ここは私の職場からも自宅からもかなり遠いのですが、まだ無名だけれど実力ある注目アーティストを招聘してくれるので大好きなのです。特に、音盤を聴いて目をつけている若手アーティストが来ると、どうしても足が向きます。音もなかなかいい。今年は、サックス奏者のファテエワ、チェリストのヘイデン、そしてチェンバロ・オルガン奏者のアラールを聴きました(このうちアラールは既に無名の若手ではなく、もはや古楽界を代表する鍵盤楽器奏者の一人になっていますが)。

     

     このホールのコンサートに行くと、客席の年齢層の高さにいつもびっくりします。都心のホールに比べれば、平均年齢は10歳くらい上になるでしょうか。この私とて決して若いとは言えない年齢になってしまいましたが、それでもこの客席の中では「若い世代」の聴き手のはずです。

     

     ヘイデンとアラールの演奏会では、係員の方に介助してもらって客席中央付近の自分の席にようやくたどり着く、というような方もおられました。その方は歩く速度がとても遅いので、席に着くまでかなり時間がかかります。でも、ホール側もこういう状況には慣れているのでしょう、係員の方々の対応は実に丁寧でした。通り道の客席に座っていた方々も、皆さん立って進路を作り、ご老人が通り過ぎるのをじっと待っていました。このホールでは、高齢者がコンサートを聴きに来るということが、ごくごく普通のこととして自然に受け容れられている。素晴らしいと思いました。

     

     そんな光景を見ていて、ああ、このご老人は本当に音楽がお好きで、コンサートを聴くのを何よりも楽しみにしておられるんだろうなと思いました。実際のところは、演奏が始まって数分もしないうちに居眠りを始め、最後までずっと首がポロンと落っこちそうな姿勢で爆睡されていましたが、まあ無音・不動だったので無問題でしょう。

     

     そして、私自身はいつまで、何歳くらいまで、どんな状態になるときまで、コンサート会場に足を運べるだろうかと考えずにはいられませんでした。

     

     言うまでもなく、コンサート通いにおいては定年もないし、高齢を理由に返上すべき免許や資格はありません。前述のご老人のように、移動以外には支障なくコンサートを聴ける健康状態で、周囲の理解とサポートも得られるのなら、聴衆となる権利は完全に保証されます。

     

     その意味では、例えば、先ほど述べたホール入口から客席にたどり着くまでの介助などは、「気にしなくて良い迷惑」です。誰もが明日は我が身、お互いさまだからです。

     

     でも、私の老いや病気が原因で、演奏家や他の聴衆に対して「かけてはいけない迷惑」をかけてしまうような状況があるなら、事情は変わってきます。

     

     例えば、演奏中に物音を立てたり、声を発したりして、何より演奏会の進行の妨げになるようなことをしてしまう可能性があるのなら、演奏会に行くのは断念せざるを得ない。体臭で他の人たちに不快な思いをさせたり、補聴器をつけて致命的なトラブルを起こす可能性もあります。あるいは、トイレが近くなり、演奏中に席を立たねばならないようになるかもしれない。もっと言うと、演奏会の途中で体調に異変を来たしてしまうリスクもあります。

     

     そうしたリスクが顕在化し、誰かに直接迷惑行為を注意されるような状況になったら、コンサートはもはや無理だと諦めがつきます。それでもコンサートに行き続けるというのは、まさしく老害でしかない。

     

     悩ましいのは、そうした事態の「予兆」が出始めた曖昧な状態で、自分はどの時点でコンサートへ行くことのを諦められるかです。

     

     人間誰しも、自分が出す物音や臭い、振動などが、他の人たちや、会場全体にどんな影響を及ぼしているかはなかなか認識できないものです。自分では「まだ人には迷惑をかけていないから大丈夫だろう」と高をくくっていても、他の人たちからは「迷惑なじいさん」と疎まれているのに気づけていない可能性があります。その状態で、ある日突然、「あんたは迷惑なんだよ」と引導を渡されてしまうのは相当に辛いものがある。

     

     やはり、自分できちんと線引きをして、人知れず自発的に引退できるようにしたいなと思います。演奏会の進行を妨げる存在が会場に現れなくなることを喜ぶ人はいても、私がコンサートに行かなくなることを惜しむ人などいないでしょうし。

     

     そうなると、今日がこれで生涯最後に聴くコンサートだと、覚悟を決めて会場に足を運ぶ日がいずれやってくるのかもしれません。本当は、今際の際に「思えばあれが人生最後の演奏会だったか。しまった、心して聴けば良かった」と悔しがりながら死ぬ方が自然で健康的かもしれないのですが・・・。ともかく、どうせ悔いと恥ばかりの私の人生、せめて大好きな音楽に関しては、必ず訪れる人生最後に聴くコンサートは悔いの少ない形で聴きたいとは、ぼんやりと思います。

     

     でも、そんなのはとても贅沢な話なのかもしれません。私たちの世代は70歳を過ぎても隠居などさせてもらえないようだし、年金をもらえるかどうかすら怪しい。今の高齢者の方々は、年金をまだ貰えている世代ですから、アクティブシニアなんて呼ばれて活発に投資や消費できる環境にありますが、出世もできず富裕層にはなれなかった私の20年、30年後、コンサートに通えるほど余裕のある生活ができているという未来予想図は描けない。セカンド、サードキャリアをどうするかさえも分からないのですし。

     

     そんなふうに考えていくと、私が「生涯最後に聴くコンサート」なんて、結構、近未来に訪れるのかもしれないなあなどと、何ともさみしいことを呟いてしまう自分がいます。でも、そればかりはどう抗っても何ともならないことです。なので、数は少なくても、一つ一つ、ただその場にいて音楽が聴けるということに感謝してコンサートを聴くようにしようと思っています。

     

     このことを少し視点を変えて考えてみれば、どんなコンサートの客席にも、それが生涯最後のコンサートになる人が一定数いるということに気づきます。もしかすると、これが人生最後と心に決めて来ている人もいるかもしれない。そんな人たちに向けて演奏する音楽家の方々の責任の大きさには測り知れないものがありますが、一方で、聴衆の方でもその一端をわずかながら担っているとも言えます。

     

     我が身に引き寄せて考えれば、人生の終わりに最後に聴いた演奏会を思い出すとしたら、演奏そのものより「ああ、あの時の客席の雑音は酷かったな」というような感慨が先に立ってしまったら哀しい。例えば、今年の5月のチョン・ミョンフンと東フィルの「フィデリオ」で起きたような実に不愉快な事件が、最後に聴いた演奏会の記憶に刻まれてしまっていたら、辛い。

     

     であるなら、せめて自分がコンサートに行けている間は、「この演奏会には今日が最後になる人がいるかも」と自分に言い聞かせ臨みたい。そして、自身も明日自分がどうなっているか分からないので、一回一回の演奏会を「これが人生最後になるかも」という気持ちを心の奥のどこかに持って、大切に聴きたいと思います。

     

     うだうだと書いてきましたが、最終的に、コンサートにいつどのような状態になるまで「行ける」かは、もちろんそれぞれの人の違った考え方があります。ましてや、誰かに強制されるものではありません。ともあれ、マナーとかいうような話ではなくて、なるべく幅広い年齢層の多くの聴衆が、幸せな空間の中でともに音楽を楽しく聴けるよう、互いに思いやれる社会であればいいなと心から思います。

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