拝啓 サスペンダーおじさん様
2019.02.06 Wednesday
拝啓 サスペンダーおじさん様
貴方のお名前を存じ上げないので、このような無礼な呼び名を使ってしまい大変申し訳ありません。
私は、今日(2019.2.5)、武蔵野市民文化会館で開かれた演奏会終了後、貴方に直接話しかけた者です。私は30年来、貴方の姿をコンサート会場やタワーレコード、テレビ放送などでお見かけして存じ上げておりますが、貴方は私のことなどご存知ないはずです。まったく面識もない、しかも貴方の息子ほどに歳の離れた若造(と言っても中年ですが)からいきなり非難され、さぞ驚かれたことと思います。
私は貴方にこう申し上げました。
「演奏が始まってから客席に入ってくるのは良くないです。やめてください」
それは今日の演奏会冒頭、ソリストが舞台に登場し、答礼の後にナッセンの無伴奏ヴァイオリン曲を弾き始めた瞬間のことでした。貴方は、下手側のドアから突如入場してきたのでした。いつものように大きな黒いリュックを背負い、杖をついて悠然たる足どりで、いつものように最前列の自席に向かって。そして、ヴァイオリンを弾く演奏家の目の前の席にたどり着くと、ゆっくりとリュックを下ろし、どっこいしょとばかりに着席したのでした。
時間にすれば、それは高々1分くらいのことだったかもしれません。でも、あなたが入ってくる直前には、ソリストは深呼吸して全神経を音楽に集中し、あの難曲の出だしを弾き始めていたのです。客席の聴衆も、頭角を現してきた若いソリストの音楽に、息を呑んで耳を傾けていたのです。これからどんな音楽が展開されるのかと、期待に胸を膨らませながら。
そこに貴方が突然入ってきて、私たちの視界をさえぎった。
すっかり台無しでした。
ソリストは突然の出来事に驚き、動揺していたように見えました。でも、彼女はプロフェッショナルでした。すぐに立て直し、見事に演奏会を完遂、私は彼女の弾く現代作曲家とバッハの無伴奏ヴァイオリン作品を存分に楽しみました。アンコールはなかったけれど、会場も沸いていました。
しかし、私は、演奏会冒頭の貴方の無神経、傍若無人な振る舞いがどうしても許せなかった。貴方が恐らく無意識にしたであろうことが、他人には甚だ迷惑な行為であることを伝えずにはいられなかった。誰かが言わないと、貴方はまた明日以降、どこかのコンサート会場で同じことをするだろうと思ったのもある。だから、演奏会が終わった後、貴方が長い時間かかってトイレから出てくるのを待ったのでした。
貴方を呼び止めて意見を伝えたら、悲しそうな顔をしてこう仰いましたね。
「今日は間に合わなかったんだよ」
私だってそこまでバカじゃない、そんなの見ればわかります。しかし、演奏はそのとき既に始まってしまっていたのです。貴方は1曲目が終わるまで(4,5分の短い曲でした)ロビーで待つか、席まで歩かずに客席ドア付近で聴くかすべきだった。なのに、そうしなかった。
貴方はいつも開始ギリギリになって客席に座るのでご存知ないかもしれないが、最近のコンサートでは「拍手は指揮者がタクトを下ろすまで待って」とか「拍手はすべての音が消えてから」などというアナウンスが放送されています。音楽を静寂の中で隅々まで聴きたいと願う人が増えているからです。
しかし、貴方のしたことは、演奏後のフライング拍手やブラボーという次元を超えている。演奏家と客席の「立ち合い」の瞬間を完全に壊してしまったのです。演奏家も聴衆もすべてを凍りつかせてしまうような由々しき行為をしたのです。多くの人がコンサートの終わりの静寂に気を遣おうとしているなら、曲が始まる時だって同じように気を遣うべきではないのでしょうか?
なのに、あんなことをする権利を、貴方はなぜお持ちなのでしょうか?誰もが納得できる理由をお持ちなのでしょうか?あるのなら是非とも教えて頂きたい。
言うまでもありませんが、貴方にはコンサートを聴く権利がある。ご高齢になられても、自力で頻繁にコンサートに来られているのは素晴らしいことです。日々のつましい生活の中からお金と時間をやりくりし、細々とコンサートに通っている私などからすると、まったくもって羨ましい限りです(貴方の座る席にまったく憧れませんが)。
でも、だからと言って、今日の貴方のように、ただ一人の身勝手な都合と欲求のために、演奏会の進行を邪魔して良いということには断じてなりません。貴方は、コンサートに足繁く通い、コンサートとはどんな場なのかを誰よりもよくご存じのはずなのに、どうしてクラシックの初心者でも、いや、小学生でもしてはいけないと分かるようなことを、平気でできてしまうのでしょうか?
まだまだコンサート通いは続けると仰るなら構いません。それを止める権利は私にはありませんから。ただ、多くの人が共有するコンサートの場を、そして何より音楽を大切にするお気持ちが少しでもおありなら、ほんのちょっとでいい、ご自身の行動を変えて頂きたい。まず、若い頃に比べて動作が遅くなり、すべてに時間が必要になっている現実を認識し、何かにつけ行動を起こすタイミングを五分早める、ただそれだけでいいのです。そうすれば、今日のようなことは防げるし、他の聴衆から注意され罵声を浴びることもないのです。
貴方はこれまで、高額なチケットを大量に購入することで、クラシック音楽業界に多大な経済的貢献をしてこられた。それは私だけでなく、首都圏に住む多くのクラシック音楽ファンが認めているはずです。音楽家、ホール関係者の方々にとっても、貴方は間違いなく「上客」だ。だから、あなたのコンサートゴーアーとしての晩節を汚すのは、どうかやめていただきたい。貴方の足元にも及ばない、ちっぽけなクラシックファンからの、心よりのお願いです。
不躾なお手紙、失礼いたしました。無礼をどうかお許し下さい。発言は撤回しませんが。
寒さ厳しき折、どうぞくれぐれもご自愛ください。
敬具
・・・などど書いてみたのですが、むなしい。この文章があの方の目にとまることなどないだろうからです。サスペンダーおじさんは、直接話しかけた後、言い訳ともつかない言葉を口ごもって、何ごともなかったかのように歩いて行ったので、私の意見など聞く耳を持っておられなかったでしょう。
でも、どうしても書かずにいられない。やっぱり今日の「堂々たる駆け込み入場」という行為は、あまりにもひどいと思うからです。演奏し始めたばかりのヴァイオリニストの目の前を横切るなどというのは演奏家に対して失礼千万、音楽と演奏家への敬意が完全に欠如しているとしか言いようがない。が、ご自分でひどいことをしているという意識はなさそうなので、当人に直接注意をしたところで何の効果もない。ならば、周囲で何か手を打たねばならないのかもしれません。
もし、ホール関係者の方がこのブログをお読みなら、「サスペンダーおじさん」のようなご高齢の方々の「開演間際の駆け込み入場阻止」の方法を御一考願いたい。今日のあの瞬間、私を含めて多くの人が「なんであの人をこのタイミングの客席に入れた?」と思ったはずで、何か打てる手はあったのではないかと思うのです。こんなのはレアケースかもしれませんが、最悪の場合、慌てて歩いて転倒、演奏会がストップ、中止になりかねない。そうなると被害はかなり大きいはずです。
「サスペンダーおじさん」は、これからもまだまだ、首都圏のホールに神出鬼没で姿を見せることでしょう。彼に続くご老人も今後増えてくるかもしれません(私自身、ああならないように気をつけねば!)。であるなら、演奏会の主催者側での、聴衆の多角的視点からの「超高齢化」への対策は、結構重要になってくるのではないでしょうか。
いつも通り、言いっぱなしでこのエントリーを閉じます。
私もホールスタッフに言おうかと思いましたが、当然すでにブラックリストに載っているでしょうし、昨日も制止を振り切って入った可能性もあるでしょう。
私はサイン会に並んでいて、みなさんが注意、抗議している声を聞き、溜飲を下げました。
なぜ毎回必ず前方の席を取れるのか、あの大きなリュックは何なのか、謎です。録音装置を入れて、スイッチを入れてぎりぎりに着席するのか、などと勘ぐってしまいます。
いつも粟野さんの発信を楽しみにしています。引き続きよろしくお願いします。つましく演奏会に通う者より。