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2019.08.15 Thursday

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    【演奏会 感想】ハンス・ロットの交響曲の実演二つ 〜 川瀬/神奈川フィル、P.ヤルヴィ/N響(2019.02.09 みなとみらいホール、NHKホール)

    2019.02.10 Sunday

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      ・ハンス・ロット(1858−1864)

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

      ■川瀬賢太郎指揮神奈川フィル みなとみらい定期第347回

      ・マーラー/リュッケルトの詩による5つの歌曲 藤本実穂子(Ms)

      ・ハンス・ロット/交響曲第1番ホ長調Op.35

      (2019.02.09 横浜みなとみらいホール)

       

      ■P.ヤルヴィ指揮NHK響 第1906回定期演奏会A

      ・R.シュトラウス/ヴァイオリン協奏曲 ニ短調Op.8 アリョーナ・バーエワ(Vn)

      ・ハンス・ロット/交響曲第1番ホ長調Op.35

      (2019.02.09 NHKホール)

       

       

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       今日は、昼間はみなとみらいホールで川瀬賢太郎指揮神奈川フィル、夜にはパーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK響の演奏で、ハンス・ロットの交響曲第1番を相次いで聴きました。

       

       本来、一日のうちに演奏会をハシゴするのは、二股かけている女性と次々と情事を重ねるみたいで嫌なのです。でも、今回ばかりは仕方がありません。ロットの交響曲を知って29年、一度ナマで聴きたいと願いつつ、日本で初めて取り上げられたとき(沼尻/日本フィル、アルミンク/新日本フィル)は都合がつかなくて聴けず、ようやく夢が叶うのですから。

       

       演奏の質だけを言えば、ヤルヴィ指揮N響の圧倒的な優位は明らかです。まずオーケストラの技術、特にアンサンブルや音程の精度、響きの豊かさには大きな開きがある。

       

       神奈川フィルは、近年の技術、士気の向上を今回も実感しつつも、時折アマチュアオケの練習でよく耳にするような響きが聴こえてくることもある(特に管楽器)し、弦の響きにはもう一歩膨らみと質感が欲しい。

       

       その点、N響は完璧な演奏とは言えないまでも、快速テンポでぐいぐいとオケをドライヴするヤルヴィの指揮に応えて、質の高い演奏を聴かせてくれました。

       

       しかし、音楽とは面白いものです。明らかに技術的に不利な川瀬と神奈川フィルの演奏には、ヤルヴィとN響の名演からは絶対に聴きとれない独自の魅力があり、どちらかというと私はそちらをより好むからです。

       

       そうしたある種捻じれた感想の原因は、主に指揮者のロットの音楽への視点に対する私の共感度にあります。もう少し具体的に言うと、この交響曲が孕む様々な「弱点」への視点、というべきでしょうか。

       

       ヤルヴィは、ロットの音楽の弱点は演奏のやり方によって克服できるものだという観点から、この交響曲にアプローチをしているように思えます。

       

       例えば、音楽が弛緩しないように早めのテンポをキープする。特に同じところをグルグルと逡巡するような冗長なパッセージも、事務的な足取りにならぬよう細心の注意を払いながら、スピーディに駆け抜ける。のちにマーラーが引用する箇所を、まるでアンダーラインを引くように強調し、音楽の未来志向性を明確にする。第4楽章終盤のダラダラと長いクライマックスでは、スコアにないシンバルの一撃を追加し、明確な頂点の位置を指し示す。あるいは、第2楽章のかなり無茶なティンパニのトレモロを二人の奏者で分担して叩かせ、音楽の響きに隙間ができるのを巧妙に避けたりもする。

       

       そうしたアプローチによってNHKホールいっぱいに鳴り響いたのは、あらゆる弱点を克服し、見違えるほどに立派な姿になったロットの交響曲でした。コミュ障気味だったはずの青臭い作曲家が、一念発起してプレゼン研修を受けて能力を高め、ジムに通って筋骨隆々のマッチョマンに変身、小洒落た装いにヘッドマイクを装着し颯爽とプレゼンをおこなっている。そんな姿が目に浮かぶようでした。そして、彼が音楽を通して指し示したのは、眩いばかりに明るく希望に満ちた新しい世界でもあった。

       

       何年か前に出たフランクフルト放響とのCDでの優れた演奏よりも何歩も踏み込み、マーラーの先駆けとなるこの交響曲の「偉容」を浮き彫りにすることに成功したと言えるでしょう。

       

       しかし、これが実に素晴らしい演奏であり、ごく一般的にはこちらの方が受け容れられやすいだろうとは十分認めつつも、ヤルヴィが、持ち前の合理的な解釈と演奏法を貫く上で捨象した「弱み」、そこにこそロットの音楽の魅力があるのではないかという気もする。

       

       ロットの交響曲を擬人化すれば、言っている内容は鋭く、言葉の選び方も時々斬新で心に響くのだけれど、いかんせん組み立てが下手くそな人と喩えられると思います。構成が型破りなのはいいとしても、軌道から逸脱してもう戻れないところへ行ってしまったり、展開しているように見えて実は同じところをグルグル回っているだけだったりする。あるいは、数少ない素材だけで音楽を構築しようとしてあちこちに隙間ができたり、思いが先行して音楽がすぐに沸点に達してしまい、クライマックスが分散して中心点が見えづらかったりもする。

       

       ヤルヴィが最高の知性と熟達の技術をもって排除したロットの音楽「弱点」は、川瀬と神奈川フィルの演奏ではほぼそのままの形で残されているように感じました。演奏者全員が、それらもひっくるめて全部がロットの音楽の魅力なのだと見定め、それをこそむしろめちゃくちゃに愛しているんじゃないかとさえ思えた。

       

       考えてみれば、ヤルヴィはロットの音楽を早い時期から取り上げ続け、マイナーだった作品を広く聴衆にアピールするある種の啓蒙的な役割を果たしてきた指揮者です。その点、川瀬は、既にロットの交響曲の魅力はある程度広まっている状態からキャリアをスタートした若い指揮者。無理に音楽の弱点を克服する必要性など感じておらず、むしろ音楽の良さも弱さも全部ひっくるめて演奏すべきという意志を持っているようにさえ感じました。

       

       最も顕著だった箇所を挙げれば、フィナーレの、ブラームスの交響曲第1番第4楽章の有名な主題を、露骨なまでに模倣した箇所直前の、弦楽器だけによる悲劇的なパッセージ。この部分、ヤルヴィはポーカーフェイスで厳しい音楽を生み出していましたが、川瀬は「慟哭」としか言いようのない悲痛な叫びをオーケストラから引き出していて胸を打ちました。それまでの長い序奏はここへと向かっていたのかと肚に落ちた気がしました。もっとも、直後にあの明朗な音楽が続いて完全に梯子を外されてしまう訳ですが・・・。

       

       あるいは、第2楽章、マーラーの交響曲第3番のフィナーレの原型とも言うべき緩徐楽章でも、両者のアプローチの違いは際立っていました。ヤルヴィとN響の切り詰めた表現の中から立ち上るのは、希望に向かって前進しようとする強い意志。一方、川瀬と神奈川フィルのみずみずしく繊細な表現の中から浮かび上がってくるのは、人間の心の弱さから発せられる祈りのような感情。どちらもこの音楽の真実であるには違いありませんが、私は後者の方に親近感を覚えます。

       

       川瀬と神奈川フィルの演奏は、音楽の行きたがる方向性に逆らわずに道なりに進み、その時間軸をできるだけリアルタイムで体感するようなものと言えます。聴いていると、私は確かにこのロットの交響曲の内奥部を深く探検し、その景色を実体験しているのだという気がしてくる。ああここにはこんな風景があったのか驚くこともあれば、ああダメだねえ、イケてないねえなどと微笑ましく思えたりもする。それがたまらなく愛おしい。

       

       世の中にはどうしても好きになるのはダメ男ばかりという女性がいると聞きますが、彼女らの心理はこんな感じだろうかと思えるくらいに、川瀬と神奈川フィルの演奏が聴かせてくれたロットのダメさ加減が好きなのです(神奈川フィルの演奏がダメということでは決してありません)。音楽は、立派だから愛するものもあるけれど、欠点もあるけれど愛するものもあって、そちらの方に情が移ってしまうことは、確かにある。

       

       そして先ほどは否定的なことを書きましたが、神奈川フィルは川瀬とがっちりと手を組み、素晴らしい演奏を聴かせてくれました。表現主義的な激しさを見せる部分でのささくれ立った荒々しさ、弦楽器を主体にしたみずみずしい歌は、まさしく「青春」の音楽でした。管楽器のソロも美しく、特にオーボエの薄くはあるけれど冴えわたった響きには心惹かれましたし、ホルンも健闘、トロンボーンが充実した柔らかい重奏を聴かせてくれたのも良かった。コンサートマスターの崎谷直人の、ヴィブラートのかけ方に特に心を配った清冽な音色も心に残ります。大活躍のティンパニも、与えられた役割を十全に果たしていたと言えます。

       

       比べてN響の方は、万全の演奏。神奈川フィルとは異なり対向配置、ホルン8本、木管も重ね、前述のようにティンパニを一台追加など、ロットの音楽のけた外れのパワーを表現するために打つ手はすべて打ったという感。フィナーレの対位法的なパッセージでの立体的な響き、ブレーキを踏まずにカーブを曲がり切るようなスリリングな場面も、難なく切り抜けるあたりはさすがとしかいいようがない。ティンパニの皮が破れそうな強打(時々両手で打ち込んでいたのが印象的)、音色の存在を感じさせるトライアングルのトレモロなども心に残る。第1楽章でのブルックナーの5番あたりを思わせる厚みと深みのある響きも、N響ならではのもの。これでもう一つ響きに冴えと彩りの豊かさがあり、さらにもう一つ突き抜けた表現の強度があればというのは贅沢な不満には違いありません(コンマスはゲストとして白井圭が務めていましたが、今後も登場するのでしょうか?それなら楽しみです)。

       

       ですから、良し悪しではなく、ヤルヴィとN響の演奏は尊敬すべき女性上司、川瀬と神奈川フィルの演奏は互いの弱みもすべて知っている長年の恋人くらいの距離感で聴いた、ということになるでしょうか。どちらも私にとっては必要で貴重な存在。第3楽章の最後に向けての追い込みや、フィナーレで狂気を孕みながら音楽が怒張していくあたりの緊迫感、ドラマ性はどちらの演奏からも等しく感じられて胸をかきむしられたのも忘れ難い。だからこそ、なおのこと一日のうちに両方と愛し合うような状況は避けたかった。

       

       でもまあ、ロットの交響曲の実演を一日に二つ聴くなどというスペシャルな機会は、今後二度とないでしょうから、こんな体験をさせてもらっただけでも感謝せねばなりません。ロットの交響曲を愛し続けて30年近く、ようやく夢が叶ったこの日を私はいつまでも忘れないでしょう。

       

       ところで、今日の川瀬賢太郎と神奈川フィルの演奏を聴いていて一つ気づいたことがあります。それはこの曲で信じがたいほどに多用されるトライアングルの意味です。

       

       もう何年前になるでしょうか、同じホールで私は名オルガン奏者マリー・クレール=アランの最後の来日の折の演奏会を聴きました。彼女は、アンコールで弾いたバッハのコラールで、ツインベルシュタインと呼ばれる、くるくる回る星形のストップを使って、鈴のような音を始終鳴らしていました。

       

       アランの感動的なコンサートの情景を思い起こしながら、ロットの交響曲におけるトライアングルは、このオルガンのツインベルシュタインの音をイメージして書かれたのではないか、と思ったのです。その選択の意味するところが何なのかはまったく分かりませんが、音楽の発想としてはまずオルガンがベースにあったのではないかと。事実、対位法的な書法によって書かれたパッセージでは、オルガンを思わせる響きもあったりしました。これはナマで聴かないと実感できないことで、この発見(思いこみかもしれませんが)ができただけでも、今日の横浜での演奏会を聴きに行った価値があったと思います。

       

       川瀬と神奈川フィルが演奏を終え、会場から惜しみない拍手を受けて答礼しているのを見ていて、この情景を天国のハンス・ロットにも見せてやりたいと思いました。前途洋々たる未来を思い描いて音楽を作り、やがて夢破れて心を病み、遂には命を失ってしまった才能ある若い作曲家の魂に、せめてもの慰めをと思いました。

       

       とむあれ、私たちに素晴らしい音楽を残してくれたロット、そして、それぞれのやり方でその音楽の魅力を伝えてくれた二組の音楽家たちに心から感謝を。

       

       ちなみに、川瀬と神奈川フィルの演奏会の前プロは、「世界の」藤村実穂子を独唱者に迎えてのマーラーの「リュッケルトの詩による5つの歌曲」、ヤルヴィとN響は、仙台のコンクールの覇者アリョーナ・バーエワを迎えてのR.シュトラウスのヴァイオリン協奏曲でした。

       

       特に藤村の歌う「リュッケルト」は素晴らしかった。初めて実演で聴くその声の美しさには惚れ惚れするしかないし、下手に子音を強調しない自然なディクテーションによって、詩と音楽の持ち味を実感できたのが尊い。オーケストラも細部の詰めには問題を感じつつも、のびやかな抒情に満ちた響きに魅了されました。木管楽器のソロも美しかった。そして、予定とは曲順を変えて最後に歌われた「私はこの世に忘れられ」、後奏でのヴァイオリンの最弱音のグリッサンドは非常に効果的で、かつて聴いたインバルとフランクフルト放響によるマーラーの6番の実演(1989)での第3楽章を彷彿とさせるもの。肌に粟粒が生じるのを感じたというのはこういうときに使う言葉なのでしょう。

       

       バーエワの弾くR.シュトラウスは、曲にさほど強い魅力を感じないのですが、バーエワの高い技術を背景にした細部まで克明な表現は優れたものだったと思いますし、ブラームスの影響下にある保守的な作風を、分厚く豊かな響きで音化した伴奏も美しかった。アンコールのイザイの闊達で妖艶な表現も悪くなかった。

       

       明日もヤルヴィの指揮のロットをもう一度聴いたいところですが、用事があるので行けません。次はヴァイグレ指揮読響がまた取り上げるので、是非聴きたいところです。

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      2019.08.15 Thursday

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        コメント
        はじめまして。CDでは何だかよく分からない印象のこの曲、神奈川フィルの実演に接して大変感銘を受けました。そして、なぜ感銘を受けたのか自分では何も説明ができないところ、上記の記事を拝見して、なるほどそういうことだったのかと得心が行きました。
        一点、教えていただきたいのですが、記事中の「フィナーレの例のブラームスの交響曲第1番第4楽章の露骨な模倣主題」というのは、ブラームスがベートーベンを模倣したという意味の「模倣主題」なのか、それともロットがブラームスを模倣したという意味の「模倣主題」なのか、どちらでしょうか。その後の「パクリ音楽」の意味もいくぶん変わってしまうかと思いますので。
        • by whiteparasol
        • 2019/02/11 8:04 PM
        はじめまして。私もはしごしました。
        本題とはズレたところの情報ですが、N響ゲストコンマスの白井さんは昨年12月定期もゲストで登場されてました。今後も登場されるなら、、、私も同じく楽しみです。
        • by zemlinsky
        • 2019/02/12 12:57 AM
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