【演奏会 感想】イリーナ・メジューエワ ピアノ・リサイタル  (2019.03.02 汐留ベヒシュタイン・サロン)

2019.03.09 Saturday

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    ・イリーナ・メジューエワ ピアノ・リサイタル

     (2019.03.02 汐留ベヒシュタイン・サロン)

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    <<曲目>>

    ・ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第24番 「テレーゼ」嬰ヘ長調 Op.78
    ・シューベルト:即興曲 変ト長調 Op.90-3
    ・リスト:愛の夢 第3番
    ・リスト:コンソレーション 第3番
    ・ムソルグスキー:展覧会の絵

     (アンコール)

    ・グリーグ/春に寄す

     

     

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     汐留ベヒシュタイン・サロンで開かれたイリーナ・メジューエワのピアノ・リサイタルを聴きました。80席限定の会場でのサロンコンサートで、作曲家の藤田崇文氏のプロデュースによるコンサートシリーズの第3弾にあたるもの。演奏会開始前にはナビゲーターの藤田氏の挨拶があり、「展覧会の絵」の前には氏とメジューエワのトークもありました(休憩はなし)。

     

     やや短めのプログラムは、彼女の得意中の得意の曲ばかりでした。ベートーヴェンの24番のソナタ、シューベルトの即興曲D.899-3、リストの「愛の夢」第3番、コンソレーション第3番、そしてムソルグスキーの「展覧会の絵」。メジューエワがベヒシュタインを弾くのを私は初めて聴きますが、彼女は子供の頃や学生時代にはベヒシュタインを弾いていたとのことで、とても懐かしく、優れたピアノだとMCで話していました。

     

    「展覧会の絵」が素晴らしかった。いや、凄かった。

     

     それは、ロシア音楽として、あるいは、標題音楽としての側面に配慮しつつ、倫理的なまでにストイックに自我を抑え、音楽の持つ「生命」に全力で奉仕した演奏でした。音楽の「生命」を明らかにするためには、耳に突き刺さるゴツゴツとした響きや、聴き手の背筋を伸ばすような厳しい音の運びに傾くことも辞さない。容赦ない強靭な打鍵、常に克明に鳴らされる弱音、振幅の大きな表現を自在に駆使して、脇目も振らずにひたすら音楽の核心へと斬り込んでいく。

     

     結果、音楽の外観は一見オーソドックスだけれども、その集中度の高さ、表現の猛烈な強度は、今のメジューエワからしか聴きとることのできないユニークなものになっていました。しかも、彼女はそれをほぼノーミスで克明に具現化していて、その高度にして凄絶な音楽にはただ息を呑んで聴き入るしかない。

     

     例えば、「ビドロ(ビドゥオ)」。彼女は、これまで複数リリースされているCD同様に、冒頭からかなり強い打鍵を見せ、最初から最後まで左手のリズムをかなり不規則に揺らして弾きます。しかし、そのリズムの揺れ具合にはその時のインスピレーションに任せてリアルタイムで決めているような即興性があって、スリリングそのものでした。一瞬一瞬の閃きに全身全霊を賭けたかのようなその音の僅か一瞬の揺れが、こちらの心臓の鼓動に影響を与えずにはおかない。

     

     聴いていて、鞭打たれながら重い車を引く牛がヨタヨタとよろけながら歩いている姿以上に、ロシアの農奴制の時代、ささやかな日常の喜びさえも避けがたい大きな力によって強制されていたロシアの民衆の姿が、目に浮かぶようでした。

     

     しかし、今回、実際にメジューエワがこの曲を弾く姿を見ながら聴いていると、ぐでんぐでんに酔っ払った人の千鳥足の映像がダブりました。演奏前のトークで、藤田氏が、ムソルグスキーが貧困とアル中の中で不遇のまま死んだという話をされたので、それが演奏の印象に影響を与えたのかもしれません。

     

     生きていく上で背負わねばならぬ荷物が余りにも大きく重すぎ、余りに理不尽で、将来に何の希望も持てず、酒でも飲まないととてもやっていけない。かつてのロシア人の中には、そうやって酒に溺れ中毒で身を滅ぼす人もいたのかもしれない。そんな余計な想像をしながら彼女の演奏を聴いていました。

     

     それにしても、彼女がこの曲で聴かせてくれた阿鼻叫喚の音響たるや・・・。小さな会場で、彼女が全力で弾いたからというだけではとても説明できない、言葉では表現し得ないような凄みがありました。

     

     他の曲でも、既存の録音と基本的な解釈や具体的な弾き方は基本的に変わりませんが、その表現のシリアスさ、重さは比較にならぬほどの真実味がありました。例えば、「カタコンブ」での気味の悪い不協和音、「ババ・ヤーガの小屋」での暴力的な音響による威圧や恐怖など、枚挙に暇のないくらいに、音響的にも、表現的にも、一切の綺麗事を排したささくれ立った音楽に満ち溢れていました。ペダルを踏みっぱなしにするような箇所でも、音が濁るのをかなりの程度まで許容して深く押し込み続け、表層の美しさよりも表現の切実さを優先させているのも印象に残りました。

     

     そんなふうにメジューエワが持ち前の音楽家としての高潔な姿勢に磨きをかけ、それを貫いて音楽の本質に肉迫しようとすればするほどに、ムソルグスキーの音楽の中にあるほとんど公序良俗に反するような、俗っぽくて、荒々しく、時には醜悪ですらあるような要素がくっきりと炙り出されてくる、そこがとても面白かった。

     

     演奏会前、私は早く会場に着いてしまったので、そのすぐそばにあるコーヒーショップで時間を潰したのですが、そこは競馬新聞を睨みボールペンで何かを書き込んでいる人たちで溢れ返っていました。このサロンは日本中央競馬会のウィンズ汐留のビルの中にあるのです。競馬や、競馬を楽しむ人たちがどうというのでは決してないのですが、私は、剥き出しになった人間の非常にプリミティヴな欲望が充満したその場の空気に圧倒されました。

     

     メジューエワの「展覧会の絵」を聴いていると、ついその光景を思い出してしまいました。音楽の中に、馬券売場内のコーヒーショップの場の空気にどこか相通ずる、非常にギラギラしたものを見出した気がしたからです。

     

     私の中で、既視感がありました。何だろうかと考えて思い至ったのは、ドストエフスキーの小説でした。聖と俗のはざまで、人間の清濁を呑み込んだストーリーが展開していく、あの作品を読んでいるときと同じ感覚が私の中で巻き起こった。シュミュイレが、マルメラードフかスメルジャコフになったみたいな感じでしょうか。

     

     つまりメジューエワという音楽家が、ムソルグスキーの音楽を通して、人間の美醜を併せ持った本性のようなものを描き出してしまっている。ギャンブルもアル中も、陰惨なストーリーとも完全に無縁の人に違いない彼女が、そうしたものを誰よりもリアルに音で表現できてしまうのは、彼女の鋭い直観力に根差した人間理解ゆえのことなのでしょう。

     

     音楽を作る(作曲・演奏)すること、あるいは聴くことというのは、煎じ詰めてしまえば、人間という存在への理解を深め広めるということなのかと思い至りました。何でもかんでも「人間力」みたいな雑な言葉で集約してしまうのは、知的怠惰に違いないのですが、この演奏を前にするとそう言わざるを得ません。

     

     脱線しましたが、人間の深部に根差したような、その音楽は美しかった。私が感じた「美」の源泉は、彼女が新書やCDのライナーノートに寄せた文章にもある通り、「死」なのでしょう。「死」は生命の終わりという意味では悲劇であるかもしれないけれど、視点を変えれば、それは現世の悲劇の終わりであり、人間のどうしようもない醜さ、弱さを包摂した救済である。苦しみのない天国への憧れを秘めた「死」への思い。それが音楽の中に表現されている。メジューエワの弾く「展覧会の絵」は、そんな思想のメタファーであるように感じました。

     

     例えば、終曲の「キエフの大門」。有名な主題が何度も繰り返し奏でられる合間に、ロシア正教の聖歌風の旋律が二度現れます。メジューエワは、それに強いキャラクターを付与して弾くのですが、二回目に現れる際には表現の強度をぐっと高め、胸に突き刺さるような痛切さを伴って奏でていました。既存の録音と同じことをやっているのですが、その表現の切実さが全然違っていて、これまでになく、喪失の痛みに満ちた祈りの所作が前面に出てきているように思います。

     

     やがて、鐘の音を模したような和音が響いて、「プロムナード」の旋律と「大門」の旋律とが絡み合いながら力を増し、壮大な大団円に向かって際限なく盛り上がっていく。あの鐘の音は葬儀の比喩であり、この曲はムソルグスキーが友人の画家の死に寄せた追悼の音楽なのだと思いました。夭逝した画家の魂が天高く昇っていくのを祝福する音楽なのだと。まあ、それもまた文学的な音楽感受だと言われるでしょうが、彼女の胸を締めつけられるほどに真摯な祈りを孕んだ音が、聴き手のイマジネーションをあまりに激しく刺激するからで私の責任ではない、と反論したくなります。

     

     いったい何という「展覧会の絵」でしょうか。ラヴェル編のオケ版も含め何度も聴いてきたはずの曲で、最近は「通俗名曲」として軽視していたところもありますが、この曲のもつ真の力を改めて知ったように思います。やっとのことで彼女の弾く「展覧会の絵」を実演で聴けた喜びを、今もまだ噛みしめています。こんな凄絶な音楽が、土曜の昼下がり、サロンで演奏されるべきものなのかどうかという気もしなくはないのですが。

     

     ベートーヴェンは、彼の中期から後期への過渡期の作品という、音楽の「位置づけ」がとてもよく分かる演奏でした。標題の「テレーゼ」という固有名詞にまつわる物語にとらわれ、外面的な規模に応じて小さくまとめるのではなく、ライオンが猫のようにしおらしい仕草をしているような、「大きさ」への秘めた志向を見え隠れさせる。そんな潜在的スケール壮大な演奏の趣が面白かった。

     

     シューベルトの即興曲は、以前聴いた実演やCDよりも彫りが深くなり、特に左手で聴かせる雷鳴のようなトリルの恐ろしさが増していました。アルペジオの細かいところにまできちんと表情をつけ、特にディミヌエンドするときの着地を美しく響かせることに注力した繊細な表現は、まさにシューベルトの音楽にうってつけ。ほんの短い時間でしたが、至福のシューベルティアーデを楽しむことができました。

     

     リストは「愛の夢」のこなれた表現も良いのですが、偏愛する「コンソレーション」は優しさの極み。和声の動きに伴って彩りを変えていく歌の何と心に響くことでしょうか。

     

     アンコールとして、最近CDでも聴かせてくれたグリーグの「春に寄す」が演奏されました。季節柄ぴったりの選曲で、CD同様の硬質なリリシズムがただただ美しい。

     

     メジューエワは、藤田氏とのトークの時、「なぜ楽譜を見ながら弾くのか」という、きっともううんざりしているはずの質問に対して、「演奏家にとって楽譜はすべて。何よりも大事なもの。その一番大事なものを演奏会のときに使うのは、とても自然なことです」と答えていました。音楽の表現する内容を激しく追及しつつ、楽譜に書かれたことを忠実に再現する職人であることを片時も忘れない。そんな彼女の音楽家、芸術家としてのあり方を端的に表現した言葉、肚に落ちました。

     

     それから、今回、間近でメジューエワの姿を見ながら音楽を聴きましたが、彼女が弾きながら「声を出さずに歌っている」のがよく分かりました。声帯がいつも動いているのがはっきり確認できたからです。時折、実際に声が出ている場面もありました。ピアノという鍵盤打楽器から「歌」を引き出すためには、まず演奏家自身の内側から歌が溢れ出てこなければならない。彼女はそのことを身をもって示していたように思います。その歌への執念のようなものを感じて、胸を打たれました。

     

     次に彼女の演奏を聴けるのはいつになるか、まだ予定は立てられていませんが、さらに深化した彼女の音楽を是非実演で味わいたいと強く願っています。勿論、音盤のリリースも心待ちにしています。

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    2019.05.08 Wednesday

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