【演奏会 感想】J.S.バッハ/マタイ受難曲  鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン(2019.04.19 東京オペラシティ コンサートホール)

2019.04.21 Sunday

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    ・J.S.バッハ/マタイ受難曲

     鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン

     (2019.04.19 東京オペラシティ コンサートホール)

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    エヴァンゲリスト(テノール):櫻田 亮

    ソプラノ:キャロリン・サンプソン、松井 亜希

    アルト:ダミアン・ギヨン、クリント・ファン・デア・リンデ

    テノール:ザッカリー・ワイルダー

    バス:クリスティアン・イムラー、加耒 徹

    コンサートマスター:寺神戸亮(Vn)

    通奏低音:鈴木秀美(Vc)、鈴木優人(Org)

    ジェローム・アンタイ(Gamb)

     

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     やはり奇跡は起きなかった。

     

     東京オペラシティで鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏するJ.S.バッハの「マタイ受難曲」を聴き終わった瞬間、私はそう心の中で呟きました。

     

     いつも通りにユダは師を売り、ペテロはイエスを三回否認する。民衆はピラト提督の「イエスか?バラバか?」という問いに「バラバを!」と答えてイエスを十字架にかけ、彼に「本当に神の子なら早く自力で降りろ!」と罵声を投げかける。ついにイエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(主よ、なぜ私を見放したのか)」と叫んで息絶え、この受難劇の音楽の主体である「私」は、人類の罪を背負って死んだイエスに跪いて祈りを捧げる。

     

     今回は奇跡が起こって、弟子が師を守ってイエスは死なずにすみ、愛に満ちた永遠に平和な世界が実現しました。そんなドラマには当然ならない。聴き手である私も私のままで、立派な人間になったということもない。私がオペラシティで聴くことができたのは、長い年月語り継がれてきたイエス受難の物語を再体験させる、300年近く前に書かれた「古い」曲でした。

     

     しかし、だからこそ、奇跡が起きなかったからこそ、この演奏は尊く心に響くものでした。

     

     先日、井上陽水がテレビの歌番組で、名曲「傘がない」を何度も繰り返して歌ううちに、その言葉と音楽の意味に広がりを感じるようになったと答えているのを思い出しました。即物的に書いたつもりだったけれど、最近は、「ああ、ほんとに傘がないんだ」としみじみと思うようなある種の絶望をそこに見いだすようになったと。

     

     冒頭の合唱から最後まで、その井上陽水の言う「ああ、ほんとに〜なんだ」という深い感慨が、鈴木とBCJの演奏から感じられたのです。音楽学、修辞学、豊富な演奏経験などから複眼的、客観的に、すべての言葉と音のもつ意味を探求した上で、自分のものとして肉体化してきた人たちの音楽。

     

     遅めのテンポで、表情を抑え気味に歌われた冒頭のあの合唱曲からして、そうでした。引きずるような低弦のリズムは、十字架と人間の罪を背負って歩くイエスの歩調の表現というよりも、これから始まる受難劇、それも何度も何度も繰り返して語られてきた悲劇への深いため息であるかのように響いていました。

     

     全体を通して、その演奏が、音楽として優れたものだったのは間違いない。でも、それ以上に私が心を打たれたのは、すべての演奏者が、この受難曲が表現している人間の愚かさ、小ささ、情けなさを深く実感していると思わずにいられない、身を切るような切実さでした。

     

     特に、この曲で重要な位置を占めるコラールで、合唱が音を短く切り、一つ一つ楔を打ち付けるように語気強く発音するとき、その言葉はイエスの頭上に置かれた茨の冠のように私の胸に刺さる。救世主イエスへの人々の酷い仕打ちへの抑えられぬ憤り、いや、人間の負の部分に対する怒り、悔い、絶望のようなものを表出せずにいられない「私」の存在を、そこに感じてしまいます。だから、対比的にレガートで歌う敬虔な祈りのフレーズは、まさしく「ああ、〜なんだ」という絶望的な溜息へと変質してしまうのです。

     

     ソリストが歌う数々のアリアも、冒頭と終曲の合唱も、イエスの受難のドラマを時系列で再現するだけでなく、コラールで表現されていたものを深め、広げている。「私」という第一人称が、例えば「主よ、憐れんでください」「愛ゆえにイエスは死んでいこうとされています」と歌いながら、「ああ、〜なんだ」と深く嘆息している。

     

     そんな音楽を聴きながら、我が身を思わずにいられませんでした。21世紀を生きる私達は、やっぱり毎日のように「ああ、〜なんだ」と実感しながら生きています。一人のちっぽけな人間としても、もっと大きな単位、高いレベルでも。より良い将来への希望や展望を持ち、人間への愛と信頼を深めたいと渇望しつつ、疑心暗鬼や絶望からは逃れられないでいる。

     

     愛する人に会いに行かなくちゃならない、外では雨は降っている。なのに「傘がない」。どうすればいい?奇跡的に傘が手に入るのを願うのか?雨が止むまで待つのか?恋人との逢瀬を諦めるのか?その答えなんてそう簡単に見つからない。答えがあるかも分からない。傘がないと慌てふためき、ああ傘がないんだと嘆きながら、どこかにあるかもしれない答えを探すしかないのか。いや、探しにくいものを見つけようとするより、いっそ踊ってしまえと気が触れてしまうのか。

     

     結局、どんなに時代が変わり文明が発達しようとも、宗教や民族、国籍などは関係なく、人間が抱える悩みや苦しみなんてそんなに変わらない。今回、BCJのの「マタイ受難曲」の演奏を聴いていて、この曲が神々しい宗教音楽である以上に、現代でもいまだ解決されない普遍的な問題意識を孕んだ、アクティブな音楽であることを思い知りました。

     

     鈴木/BCJの「マタイ受難曲」のドラマは、聴くたびに(と言っても、私はまだ僅か4回目ですが)進化を遂げ、彫琢を極めつつあるようです。今回は、毎回楽しみにしているプログラムの鈴木の巻頭言にあるように、対位法では普通使わない完全空五度の響きや、音楽に隠された数学的なプロポーションを足がかりとして、音楽全体の有機的で劇的な構成の見事さに光を当てているようでした。今まで気づかなかったような場所で、別のナンバーと関連のあるモチーフが自然に浮かび上がったりもしていました。さらに、舞台奥中央に置いた特注のオルガンの独特の音色の魅力を助けに、音楽の響きの豊かさをさらに掘り下げたようにも感じました。

     

     そして、第二部、ソプラノが歌うアリア「愛ゆえに」を内的頂点として、イエスの死へと突き進む迫真のドラマの凄まじさはどうでしょう。曲と曲のインターバルの長さまで計算に入れ、事態が破局へと転がり落ちていくさまを、一筆書きのように一気呵成に描いていく。同様に、第一部のゲッセマネの祈りから捕縛の場面の切迫した表現も、息つく暇もないくらいの勢い。しかし、彼らの演奏は、そうした場面でも、折り目正しい厳しさを失わず、一点もゆるがせにしない。ただ感情に任せ、大向こうを狙って煽り立てるような安直さは皆無。これでこそ、バッハ、これでこそ「マタイ」です。

     

     音楽の性格上、当然のことと言えますが、最も印象に深く残ったのはコラールです。前述のような特徴的なスタッカートが以前よりもさらに強調されていたし、フレーズとフレーズの間を空けずにクレッシェンドでつなぐ手法は自然さと劇的効果を増していたように思います。受難のコラールや、追悼のコラールは、ドイツ語をほとんど解さない私でも、一つ一つの言葉の意味が心の奥深くにまで沁みこんでくるようでした。

     

     ソリストたちの歌も素晴らしかった。

     

     今回のエヴァンゲリストは櫻田亮でした。感情の表出を抑え、ナレーター的役割に徹した歌と言えますが、持ち前のリリカルさを失わず、美しい声で歌う優しい歌いくちが良かった。劇的な高まりの中でも音程、声のフォームが崩れることはなく、安心して聴けました。これでさらにクライマックスでの踏み込みがもう一歩あればとか、もう一つ突き抜けた個性的な表現があればと贅沢なことを言いたい場面もありましたが、それは彼の歌が期待した以上に素晴らしかったからです。これから演奏を重ね、進化していくに違いない彼のエヴァンゲリスト、また聴きたいと切実に思います。

     

     聖句コンビのもう一人、イエス役はクリスチャン・イムラー。柔らかな威厳をもって受難のドラマに耐え、淡々とくぐり抜けていく優しきイエスでした。櫻田の福音史家と並び、しみじみと絶望する「マタイ」の中心に、これ以上に相応しい歌があるでしょうか。バリトンのアリアも担当し、イエス自身と、ドラマの外からイエスに呼びかける複数の「私」を瞬時に行き来しながら、この受難劇の点と線を美しく繋げていました。彼の歌うイエスは、数年前に出たベルニウス盤(CARUS)で聴いていて、それも優れた歌唱でしたが、実演で聴いたという要素もあるかもしれませんが、今回はそれをはるかに凌駕するものだったと思います。ますます彼のファンになりました。

     

     ソプラノのキャロリン・サンプソンは、記憶が正しければ、CD録音と同時期にバッハのロ短調ミサを川崎で聴いた時以来久々に実演を聴きましたが、彼女の歌う「マタイ」のアリアは、事前の想像を遥かに超える素晴らしいものでした。純度の高い声、気品あふれる凛とした表現、どれをとっても一級のものではなかったでしょうか。特に「愛ゆえに」の、汚れのない純白の哀しみには胸を打たれない訳にはいきませんでした。それこそ、「ああ、イエスは死んでしまうのだ」としみじみとため息をつきながら。今回は彼女の歌聴きたさに足を運んだという側面もありますので、聴けて本当に良かった。

     

     もう一人の私の目当ては、最近お気に入りのカウンターテナーの一人、ダミアン・ギヨン。ヘレヴェッヘが指揮したいくつかのCDや「マタイ」の動画、そして彼自身が指揮も務めて録音したいくつかのディスクを通して、彼の歌には惹かれていました。私的には、サバドゥスやディヴィスらと並ぶ「三羽烏」の一人です(ヘソを曲げている訳ではないですが、世評の高いジャルスキーやファッジョーリよりも彼らの方が私は好きです)。

     

     そのギヨンの歌の実演を、他でもない「マタイ」で初めて聴けたのは、喜ばしい以外の何ものでもありません。特にあの「憐れんでください」。寺神戸亮の気高ささえ感じさせるヴァイオリンソロとともに、淡々とした抑えた運びの中で、激しい後悔に突き動かされた静かな慟哭を余すところなく表現していました。

     

     思わず、このあまりにも「エモい」音楽を書いているときのバッハは、一体どんな精神状態だったのだろうかと考えてしまいました。彼は、ロ短調の独特の響きと、嘆きや涙を象徴す音型を使い、音楽の数学的な構造を意識して建物の設計図を描くように、即物的に音符を楽譜に書きつけていただけなのかもしれません。でも、本当にそうだろうか。心の最も深いところで何かが動いていたのではないか、脳のどこかの部位が激しく活性化していたのではないかと思う。いや、そう思いたい。ギヨンと寺神戸の演奏は、そうした私の思いをより強めずにおかなかった。メーターが振り切れたような言葉は使いたくないのですが、絶唱と言いたいほどに心を揺さぶる音楽を聴きました。

     

     ギヨンの歌では、サンプソンとのデュエットでの美しいハモりも印象に残りました。ただ、開始直後の「懺悔と悔恨の情が」は、CDで聴く以上に声の癖を強く感じてしまい、耳が慣れるのに少し時間がかかりました。しかし、彼もまた世界の第一線で活躍する歌手の実力を、まざまざと実感させてくれました。

     

     テノールのワイルダーと、バスの加耒の二人は、将来の有力な聖句コンビ候補だと思います。声にも表現にものびやかさと強い説得力、そして確かな美感があって、いい。これから自分のスタイルを築いていくところでしょうけれど、現時点で既にかけがえのないものを持った有望な人たちだというのがよく分かります。これからも継続的に聴き続けて、彼らが一歩一歩階段を登っていくさまを目の当たりにしていきたいと思います。

     

     ソプラノの松井亜希のアリアは、歌詞に見てとれる母性のようなものよりも、少女のような清らかさに溢れていました。時にびっくりするような弱音を聴かせながら、澄み切った透徹した哀しみを感じさせてくれるあたり、とても良かった。

     

     ただ、以前も聴いたことのあるカウンターテナーのデア・リンデは、ギヨン以上に癖が強くて、私にはちょっと馴染めませんでした。特に、長い音符でクレッシェンドするときの発声。これはあくまで好みの問題であって、歌唱としての瑕疵がある訳ではありませんが・・・。

     

     そして、バッハ・コレギウム・ジャパンのオケと合唱の演奏の素晴らしさについては、今更何を言うことがありましょうか。通奏低音は鈴木秀美と山本徹のチェロと鈴木優人のオルガン、コンサートマスターは寺神戸亮と若松夏美、三宮正満のオーボエ、菅きよみ、前田りり子、鶴田洋子、新井道代のフラウト・トラヴェルソとリコーダー、ジェローム・アンタイのガンバ、世界で活躍する名手たちが優れたソロ演奏を聴かせてくれた。特に寺神戸、鈴木秀美、三宮、アンタイの雄弁な表現はいずれも深く印象に残ります。

     

     次のBCJを担う鈴木優人のオルガンも、腹にこたえる低音と、どの音域でも柔らかな音色をもった新しい楽器の性能を生かし切った闊達な演奏だったと思います。特に、イエスの「エリ、エリ・・・」での響きの美しさは今も耳に残っています。また、第一部の冒頭と終曲で、その脇で歌われる女声二人によるリピエーノに、あたたかく光彩に満ちた響きを付与していたのが良かった。この曲の初演時、ライプツィヒの聖トーマス教会で鳴り響いたという二台のオルガンの音を想像して胸を躍らせながら聴きました。

     

     BCJは、1月に聴いたベートーヴェンの「第9」では、楽器の限界突破を演奏者に要求する音楽の先進性とともに、古楽器であの曲を弾く困難に敢然と立ち向かう姿に感動しましたが、今回のバッハは、勿論、難しい曲ではありながらも、カンタータ演奏を通じて隅々まで身体化した音楽を演奏することの強みを感じました。やはり、彼らは、ホームグラウンドたるバッハの音楽あってこそのBCJです。

     

     とりとめのない感想をダラダラと書き連ねてしまいました。どんなに言葉を連ねようと、結局は、愛してやまない音楽で、素晴らしい演奏を聴くことができたということに尽きます。最近、私はスケジュール管理が以前よりも雑になっていて、この演奏会のチケットを取っていることを忘れ、同日に友人と会う約束をしてしまい後で慌てて予定を変更してもらいました。友人には申し訳ないことをしたのですが、忘れずに聴けて良かった。

     

     今回の「マタイ」演奏にあたり、鈴木/BCJとソリストの面々は、20年ぶりとなるCD録音を果たしたのだそうです。その旧録音の折、今回と同じくオペラシティで開かれた彼らの「マタイ」演奏会は、私も聴きました。テュルクとコーイという聖句コンビにアージェンタという名手、そして、カウンターテナーに当時はまだ無名だったブレイズを迎えた演奏は、私にとって初めて実演で聴く「マタイ」ということもあり、今も忘れることのできない大切な思い出になっています。

     

     当たり前ですが、私もまだ若かった。当時、私はいろいろと心配事や悩みが重なった時期で、音楽に過度に自分の内の何ものかを重ねて感情移入してしまい、とても冷静に聴くことができませんでした。それに比べると、今回は、当時のようなしんどい聴き方はしなくて済みました。それは私が歳をとった証拠でもありますが、それでも何度も何度もこみ上げてくる感慨を抑えることができなかったのは、やはりこの「マタイ受難曲」が私にもたらすものの大きさと重さゆえだろうと思います。

     

     あれから二十年。指揮の鈴木雅明は勿論のこと、寺神戸亮と鈴木秀美を始め、何人かは当時のメンバーは残っています。でも、明らかに世代交代は進み、BCJの演奏は洗練と強い表出力を備えるに至りました。そう思うと感慨深いものがあります。

     

     今回の演奏会場で手にしたパンフレットには、CD再録音プロジェクトへの支援の呼びかけが、金融機関への払い込み用紙とともに記載されていました。前回の録音やカンタータとは違い、BISレーベルのプロジェクトとしてではなく、自主制作盤なのでしょうか。録音会場がいつもの神戸の松蔭のチャペルではなく、彩の国さいたま芸術劇場であるというのもそうした事情と関連があるのかもしれません。

     

     このような呼びかけがあるのは、恐らく、録音だけはおこなったけれど、今はそれを商品化する力のあるレーベルがないということかと想像します。厳しい現実を垣間見る思いですが、「今こそ再録音を」と思い定めて曲に向き合った彼らの演奏、是非とも商品化してほしいものです。私も微力ながら、協力したいと思います。

     

     余談。演奏が終わった後の拍手について一言。この曲の実演では何度か経験したことですが、この曲の最後、倚音を思い切り引っ張った後に和音が解決し、響きが消えたと同時に間髪入れずに拍手が起こりました。しかし、指揮者が手を上げたまま不動の姿勢でいるので拍手は腰折れ、鈴木が手を下ろした瞬間にやっと会場全体から拍手に起こりました。ああ、そこで拍手するんだ、もうちょっと待てないのか・・・と残念に思いました。

     

     以前、BCJの「マタイ」では、第一部終了時の拍手を謹むように場内アナウンスまで入れていたように思う(今回は拍手可、答礼していました)ので、演奏者たちは受難曲を聖金曜日に演奏することの意味を誰よりも重く捉えているはず。もうちょっとだけ、あの響きの余韻に浸りたかった。いろんな考え方の方がおられるのは分かっているのですけれど・・・。

     

     

    【演奏会 感想】J.S.バッハ/マタイ受難曲 〜 鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパン (2012.4.6 東京オペラシティー コンサートホール)

    【演奏会 感想】J.S.バッハ/マタイ受難曲 〜 鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパンほか(2015.04.03 東京オペラシティ コンサートホール)

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    2019.12.04 Wednesday

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