【私の好きな歌・15】中島みゆき/ホームにて

2019.04.29 Monday

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    ・中島みゆき/ホームにて(1977)

     →詳細はコチラ(Tower/HMV)

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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     10連休の初日、TVニュースで帰省ラッシュの様子が報じられていました。地方の駅のホームで祖父母と孫が笑顔で再会する場面などをぼんやり見ながら、故郷の神戸には長く帰っていないことに改めて気づきました。もう10年以上になるでしょうか。実家は既に引き払ってしまっていて、私には居場所も、帰る理由もない。しかも、私はいま家人の実家の隣に住んでいるので、我が家の辞書には帰省という言葉もありません。かつては毎年GWの時期には新幹線に乗って帰省していたのが嘘のようです。

     

     遥か遠くなってしまった故郷に思いを馳せているうち、かつて住んでいた場所をまた見てみたい、六甲山と瀬戸内海に南北をはさまれた神戸の坂道をまた歩きたい、とノスタルジックな気持ちが抑えがたくこみ上げてきました。

     

     中島みゆきの「ホームにて」を無性に聴きたくなりました。

     

    「ホームにて」はヒット曲「わかれうた」のシングルB面として発売された曲で、1977年発表のアルバム「あ・り・が・と・う」の中の1曲として現在もCDで入手できます。これまでCMでも何度も使われるなど、発表から40年以上を経て今もなお歌い聴き継がれている名曲です。

     

     最近、何だかこの曲がやたら沁みるのです。歌詞も、音楽も。

     

     歌の主人公である「私」(実際にはこの人称代名詞は一度も出てこない)は、故郷を離れてどこか大都会に住んでいる。夢破れて心折れてしまったのか、「私」は故郷へ向かう最終の汽車に乗ろうと幾度となく夜の駅へと向かう。でも、いつも帰れない。走れば間に合うのに、気がつけば汽車のドアは閉まってしまう。帰りたいはずの故郷は、今夜もまたホームの果てへ遠ざかり、ただ一人取り残された「私」の手元には空色の乗車券が残る。故郷行きの乗車券は、涙とため息の数だけたまっていく・・・。

     

     そんな夜の駅の情景と主人公の心象風景が、穏やかで明るい曲調で、ギターを中心にしたアコースティックなバックのサウンドに乗せて、優しく歌われています。

     

     歌い出しからG→F#→E→C→B→Aと下向するベースの音型は、戦いに敗れて人生の階段を下りていく人の背中を見るかのように、どこか疲れていてさみしげです。ヨナ抜きの音律を使っている訳でもないのに、日本人である私のDNAに作用するような音の配列と起伏がそこにあるような気もするけれど、それは単に子供の頃の耳の記憶にある70年代のフォークの響きゆえの空耳かもしれない。

     

     中島みゆきは持ち前の潤いと愁いを含んだ声で、溢れる感情を努めて抑えてストレートに歌っています。その点、彼女の他のヒット曲での、演歌スレスレの恨み節の強烈な歌や、ちょっと斜に構えたブルースっぽい歌なんかとは毛色が違うのですが、そのしみじみ、淡々とした歌いくちが却って胸に迫ってくる。歌の主人公の心の昂ぶりが滲み出る言葉では、細かいヴィブラートをかけた声にほんの少しだけテンションを加えて、僅かに「泣き」を見せてもいて、そこがたまらない。

     

     二番の歌詞で、汽車が出発したあとの「ふるさとは 走り続けた ホームの果て 叩き続けた 窓ガラスの果て」というフレーズからは、ストリングスが加わります。

     

     甘美なソロヴァイオリンが歌の旋律を感傷で彩り、渦を巻くように細かく動くヴァイオリンの音型が心の揺れを表現する。遠くからは汽笛が聴こえてもくる。少ない言葉の羅列と、シンプルな旋律だけで、まるで映画やドラマの一シーンを見るようなイメージの広がりを生む。中島みゆきという稀代のシンガーソングライターの力と、アレンジの巧さの両方を実感します。

     

     曲の途中、何度かフェルマータで立ち止まるところがあります。「街に 街に 挨拶を」「ネオンライトでは燃やせない」という言葉の末尾です。伸びやかに歌い上げたのちに一瞬のポーズを経て、自分から遠ざかっていくもの、そして、手元を残るものをいちいち確かめるかのように、閉まる汽車のドアと手元に残った乗車券を描く。最後の一節を歌い終わると、特徴的なギターのカデンツ(終止形)が波立った思いを鎮め、慰めるかのように情景を閉じていきます。

     

     中島みゆきが書いた詞は至ってシンプルなもの。それゆえに聴く人それぞれで大きく解釈が異なるでしょうが、ごく素朴に考えて、この歌で描かれているのは、「故郷に帰りたいけれど帰れない人」の姿です。

     

     主人公の「私」は周囲の反対を押し切り、あるいは、苦しみや恥から逃げ出すように故郷を飛び出してきた。けれども、現実はそんなに甘くはない。夢中で飛び込んだ新天地で挫折を味わい、気がつけば駅のホームへと足が向いてしまう。

     

     でも、自分の心のプライドが汽車に乗ることを許さない。負け犬の姿を晒したくない、自分の間違いは認めたくない、誰にも頭を下げたくない。本当はもう現実には耐えられなくて、心は悲鳴を上げているのに。

     

     一方で、今いる場所、共に生きる人への愛着や感謝もある。何も告げずに去るのは忍び難い。故郷に帰る前にはちゃんと挨拶せねばとも思う。

     

     帰りたい、でも、帰れない。決して交わらない二つの思いに引き裂かれてまごまごしているうち、汽車は出発してしまう。ああ、今日もまた見送ってしまった。帰れなかった。未使用の切符がまた手元に一枚増えてしまった。乗車券を燃やして、故郷へ帰ろうとして帰れなかった失敗をなかったことにしてしまいたい。でも、今、目に入るネオンライトの灯りでは、燃やすことなんてできない。あたし一体何やってんだろう。なんで素直に帰れないんだろう・・・。

     

     ここで言うネオンライトとは、駅の周辺の街の灯りでしょうか。駅を出て、今住んでいる街に戻っても、故郷への思いは燃やせないという意味に解釈するのが正しいのかもしれません。

     

     ・・・と、そんなところでしょうか。

     

     でも、最近はちょっと違う感覚をもって聴くようになりました。

     

     これは、「故郷に帰りたいのに帰れずホームに佇んでいる人」の歌であるというよりも、「故郷に帰りたいけれど帰らないと心に決めた人」の歌なんじゃないかと。自分は決して故郷に帰らないことを最初からよく分かっていて、それでも敢えてホームへ向かい、ここに留まることしかできないことを確認している人の歌であるように思えるのです。

     

    「私」は故郷へ帰るか帰るまいかと悩みに悩み、最終の汽車が出発する時刻になってようやくホームに立った可能性はあります。でも、実際には、この汽車に乗り遅れたらもう次は来ないという事実を楯に、「今なら帰れるという状況に身を置いて、それでも帰らない自分」を確かめているのではないかと思うのです。最終便であるということが、むしろ「私」の安心感、防波堤になっているのかもしれない、と。


     何しろ汽車は「空色」なのです。電車じゃなくて汽車。夜の情景を描いた歌なので、「空色」とは「黒」とも考えられますが、黒い乗車券なんて存在しない。「空色」は昼間の青空を指していると考えるのが自然です。でも、青い汽車、青い乗車券なんてものは存在しない。「たそがれには 彷徨う街に」という詞から、「空色」を夕焼けの色、つまりオレンジと考えてうまくもイメージが結べない。

     

     だとすると、この詞で歌われている情景は、主人公の想像上のものかもしれないと思えてくる。まさに出発しようとする汽車のドアをたたき続けるのも、汽車を追いかけてホームの端まで走るのも、すべては空想。乗り遅れまいと振り捨てる飾り荷物なんてものも、実は持っていない。

     

     確かに、「私」は故郷行きの最終の汽車が発着する駅には確かにいるのでしょう。でも、実はそこはいつも「私」が使っている駅の別の番線にしか過ぎない。そもそも、故郷までの切符なんて買ってもいない。

     

    「飾り荷物」とは言いつつ、恐らく「私」は大きなボストンバッグか、スーツケースにいっぱいの荷物を詰めて持ってきたのでしょう。現実に帰ったとしても十分に暮らしていけるほどに。でも、もともと帰る気は元々ないから、あたかも「帰りびと」を演じるための飾りでしかないのです。

     

     いよいよ最終の汽車が出るというギリギリのタイミング、「私」の心は一瞬揺らぐ。ああ、やっぱり帰ってしまおうか、と。こんな荷物があるから間に合わない、無理だ、いや、この荷物を振り捨てて走れば間に合う、あの汽車に乗れる・・・。

     

     でも、いつも通り故郷行きの最終の汽車は私を置いて、ホームを出ていく。「私」はそれを遠くからただ茫然と見つめている。同時に、頭の中では「空色」の汽車も発車しようとしていて、そこでは歌の言葉のようにそれを未練がましく追いかける。

     

     そんな自分の姿を鳥瞰して思い描きつつも、リアルでは一歩も動かなかった私は、実は心の奥底では「ああ、私は衝動にかられて帰らずにすんだ」と安心している。幸せそうな「帰りびと」としての自分の想像上の姿、自分が選ばなかった可能性を生きるもう一人の自分の姿も、とりあえずは頭の中から消すことができた。

     

    「帰れない」ことを嘆くのではなく、故郷への思いは持ちつつも「帰らない」という自分と折り合いをつけるための慰めの歌。いつの頃からか、私にはこの歌はそういうふうに聴こえてくるようになりました。

     

     その妄想が、この文章を書いている私の心を激しく揺さぶる。

     

     なぜなら、それはまさしく私自身の姿にほかならないからです。

     

     私には故郷を捨てたという意識はまったくありません。ただ成り行きで上京しただけのこと。もちろん、何もかもうまくいかず、全てをリセットして故郷に帰ってしまいたいと思ったことも何度かあります。私は故郷の神戸という街を心の底から愛しているから。きっと私が認知症になったら、神戸で暮らした頃の記憶の中で、現在を生きていくことになるに違いない。それほどまでに神戸への思いは強いのです。

     

     でも、それでも、故郷へ帰るという選択肢も意志も、少なくとも今の自分にはありません。故郷に帰ること以上に、いろいろな成り行きがあって「ここ」にいて、「ここに留まる」理由の方が私には大切だからです。もしも故郷へのノスタルジーや感傷が胸にこみ上げてきたときは、ただ私は空色の汽車を追いかけ、空色の乗車券を手元に残すという「エア帰郷」を実践すれば良い。現在の自分から逃げ出さなかった自分を褒めてやればいい。

     

     想像上の帰郷の先に何があるのか、今より幸せな暮らしがあるのか、あるいはそのまったく逆なのかは分かりません。単なる想像に過ぎないから。でも、私は現実を生きる切実な理由がある。今、ここが私の本当の居場所だから。それでいい。

     

     そんなふうに考えると、この中島みゆきの歌の言葉、音、すべてが、今まで以上に自分の肚の奥深くに落ちてきます。詩の解釈として、合っているか間違っているかで言えば、きっと間違っているでしょう。でも、だからと言って、それを「正しい」とされる誰か別の人のものに変えるのは、もっと間違っている。私なりの理解がどんなものかを都度確かめながら、私にしかできない「ホームにて」の聴き方、付き合い方を探し続けていくことになると思います。

     

     この曲を書いた当時の中島みゆきはまだ20代。そんな「若者」が書いた音楽を、中年の男が涙しながら聴いているという図式は、不思議でも何でもありません。優れた音楽家は、年齢は関係なく、年代を超えた広い聴き手がそれぞれの年齢なりの受け止めができるような「普遍的な」曲を書き歌うことができる。そのことを実証する名曲だと思います。

     

     ネットで調べてみると、槇原敬之、高畑充希、手嶌葵ら多くの歌い手が、この「ホームにて」をカバーしています。そして、プロアマ問わずたくさんの人たちが、この曲を歌った動画をUPしています。

     

     中では、高畑充希の歌には胸を打つものがあります。この人、お芝居もいいし美しい女優さんですが、子供の頃からミュージカルをやっていたということもあり、歌は本業真っ青の巧さ。既にCDも何枚か出ている実力派でもあります。時折、アイドルチックな声の絞り方をするのがほんのちょっと気になりますが、それでも、彼女の歌はとても好きです。

     

     

     でも、やはり中島みゆき本人の歌が、絶対的に素晴らしい。オリジナルの音源には何度聴いても決して飽きることのない絶大な魅力がある。そして、2007年に収録されたライヴでの映像の歌もいい。ひな壇に腰かけ、紙の束を片手に歌っていますが、前述のフェルマータの部分では、遠くへ視線を飛ばして歌うなど、小さな身振りの中で「ホームにて」のドラマ性を明らかにしています。これはいつの日かライヴで見たい、聴きたいと思います。

     

     今、私が踏みとどまっているこの場所は、何年か後、子供たちが独り立ちして私たち夫婦のもとから巣立って行ったとき、彼女らにとっての「故郷」になります。それがどんなものになるのか、どんな思いで故郷に向き合うことになるのかは分かりません。親がどうしてほしい、どうしてくれというようなものでもない。ただ、そんな年齢に到達した娘たちが、中島みゆきの「ホームにて」を聴いてどんなことを感じるのか、聞いてみたい気がします。そして、微力ながら、この名曲を次の世代にも引き継いでいきたいと思います。

     

     

     以下、YouTubeで見つけた動画のうち、印象に残ったものを貼っておきます。皆さん知らない人たちですが、なかなかいい歌です。特に冨田さんの歌は、声の伸びやかさと力が気持ちいい。そして、しっかりした自己の表現を持った歌い手さんだと思います。The Grafityは、ちょっと低めの柔らかい声のヴォーカルと、優しい手つきのギターのコンビネーションがとてもいいなと思います。Yurinaさんの歌はとても安定したもので、丁寧に歌っているのが好感を持てます。特に高音が魅力的でいい。

     

     

     

     

    ※引用の動画、著作権上問題があるようでしたらご連絡ください。削除します。

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    2024.02.28 Wednesday

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      コメント
      サントリーのボスのCMで聴いてから
      「ホームにて」を検索して読ませていただきました。
      たまたま海外の動画でみゆきさんの歌ってる動画を見て印象が変わりました。
      まさにこちらに書かかれてる通りに。
      感銘を受けたのでコメントに残させて
      いただきます。
      拝読させて頂きありがとうございました。
      • by たま
      • 2020/02/19 9:00 AM
      この歌は私も長い間、よく分からない歌だったんですが。最初これはシンプルな望郷の歌だと思いました。でもそれだと、何故「私」が乗ろうとするといつも列車のドアは閉まるのか。よく分からない。「乗りたい」のに乗れない、というよりも置いて行かれる。「私」は結局故郷に拒絶されてるんじゃないか?そうだ。と。これは単純な望郷の歌ではない。そう思うようになりました。故郷に拒絶されてる証拠に、この曲の後のアルバム『生きていてもいいですか』の「異国」ではもっとあからさまに、故郷に拒絶され、うとまれている自分を歌っています。でも「私」は故郷に帰りたい・・・で、どういうことなのか。ずっと分からなかったのですが。或る時分かったのは。作者にとっては故郷とは「帰る」ものではない。「出会う」ものだということです。最初期の「時代」で既に作者はそう歌っていました。《旅を続ける人々はいつか故郷に出会う日を/たとえ今夜は倒れても/きっと信じてドアを出る》作者にとって、故郷とか「帰る」ものではなく「出会う」ものである。ここが特異なので、シンプルな望郷の歌として聴く場合にはリスナーは間違える。故郷って何だ?を作者は問いかけている。そう今は聴いています。だから同じ北海道出身の松山千春やその他、故郷を歌う歌手とは実は中島みゆきと言う人は一線を画している。ということだと思います。
      • by 人力飛行機
      • 2021/04/25 8:58 PM
      人力飛行機さま
      コメントありがとうございます。

      故郷とは帰るものではなく、出会うもの。
      なるほどそうなのかもしれないとしみじみ共感致しました。

      この曲の歌詞には具体的な事情が描かれていないがゆえに、受け手側で自由にイメージを広げられる余地があります。この歌詞に対する貴氏の理解と、私の理解とは同じであるはずもありませんが、奥底でどこかで響き合うものがあるのだろうとも感じます。純度の高い言葉と、心の琴線に響くメロディが結びついて、もはや普遍の地平に達した音楽だけがなせる業ということでしょうね。
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