マスダ名曲堂のこと
2010.01.18 Monday
ついさっきまで、震災15年記念ドラマ「その街のこども」(NHK)を見ていました。よくありがちな涙を誘うようなドキュメンタリータッチのものではなく、一種のロードムービーのようなテイストの新感覚にあふれた新鮮なドラマでした。最初は見るつもりはなかったのですが、ぐいぐいと引き込まれて全部夢中で見てしまいました。とても良かった。
見ていて、幼少期に被災した当時の「子供たち」にとって、あの震災は、私などには想像もつかないほどに、彼ら彼女らの人生にとって大きな意味を持つものだったのだと痛感しました。その「子供たち」は、今はや20代半ばの若者ですが、彼ら彼女らの記憶の中には、強烈な地震の揺れの感覚や、一瞬にして多くの尊い命が失われ、街中のあらゆるものが崩れてしまった恐怖や哀しみといった様々な感情が、まだ今でも傷跡として生々しく残っているのだろうと思います。
ところで、私も、勿論このドラマの主人公たちとは意味合いは違いますが、かつての「その街のこども」でした。ドラマの冒頭で出てきた三宮の駅前のロータリーやバス乗り場の涙が出るほど懐かしい映像を見ながら、私が「その街のこども」だった時代に、通い慣れたある風景を思い出さずにいられませんでした。
それは、JR三ノ宮駅の北側の向かい、グリーンシャポービルというビルの東側にあったレコード店『マスダ名曲堂』です。私が小学校2年生の頃、先日亡くなった私の師匠が連れて行ってくれて以来、LPは必ずそのマスダ名曲堂で買っていました。
マスダ名曲堂は、LP時代、神戸だけでなく全国的にも有名なお店でした。何度かレコード芸術でも紹介されたことがありますし、村上春樹氏の著作の中でも名前が出てきます。
<<ラフマニノフの三番のコンチェルト>>
ところでこの映画の重要なモチーフになるラフマニノフの三番のコンチェルトは、僕は昔から好きでした。というのは、十代の半ばにクラシック音楽に目覚めたころ、ウラジミール・アシュケナージのこの曲の素晴らしい演奏に触れたからです。今ではアシュケナージといえば押しも押されもせぬ大家だけれど、当時のアシュケナージは西欧デビューしたばかりで、ほんとうに新鮮で若々しかった。
マゼールと共演したチャイコフスキーのコンチェルトも見事だったけど、フィストラーリと共演したこのラフ3も良かったですよ。若者の見果てぬ夢が息吹となってそのまま結晶しているような、名演だった。僕は神戸のマスダ名曲堂でこのレコード(ロンドンの輸入盤)を買って、ほんとうに何度も何度も繰り返して聴きました。そのレコードは今でも大事に持っています。(村上朝日堂 夢のサーフシティ)
店内は猫の額というくらいに狭く、扱うのは国内盤でしたが、「マスダ名曲堂」が全国的に有名だったのは、何といってもお店の御主人、増田豊太郎氏のお人柄に魅かれて集う常連客が多かったからです。私も、御主人のことを「増田のおじさん」と呼んで慕っていました。普段は温和でおもしろい関西の"おっちゃん"でしたが、明治生まれの頑固親父風の雰囲気も持った方で、時折他のお客さんがおじさんから叱られて説教されている場面を見たこともありました。でも、それでも、皆、結局はおじさんの大ファンで、レコードを買う時はマスダ名曲堂で、という方が多かったようです。
・増田豊太郎氏(1911~82)
店の中は、レコードが棚に陳列されているスタイルではなく、かなり独特のものでした。客は、椅子(店に3つしかなかった)に座り、おじさん作成の手書きの目録カードをめくりながら欲しいレコードを選びます。購入するディスクが決まったら、おじさんにカードを渡します。すると、おじさんが奥の倉庫から該当するレコードを持ってきてくれるのです。つまり、店内にレコードの陳列スペースをなくして、多くのレコードをストックできるようにという工夫だった訳です。そして、レコードは全部一枚一枚、増田のおじさんが傷やほこり、反りがないか検盤してくれて、最後にレコードを茶色いハトロン紙できれいに包装し、「マスダ名曲堂」のハンコを押して手渡してくれます。購入枚数が多い時は、レコード会社の紙袋に入れてくれました(それが当時私の好きだったカール・ベームの写真が使われたものだととても嬉しかった)。
客がレコードを選んでいるその目の前には、おじさんが腰かけて、カードを書いたりいろいろと仕事をしている。狭い喫茶店のカウンターで、マスターと面と向かいながら珈琲を飲んでいるようなシチュエーションに近い。そうなると、ずっと黙っている訳にもいかず、自然とおじさんと客との会話が始まります。それは音楽のことだったりもするし、客それぞれの身の上話だったり、時には人生相談みたいな話だったりする。こんな関係性は、今のCDショップではほぼあり得ませんが、おじさんは、きっとほとんどのお客さんの職業や住んでいるところなどを把握しておられたのではないかというくらいに、お客さんとのつながりを大事にしていました。当時子供だった私でさえ、おじさんとはいろいろと学校であった話を聞いてもらったり、あるいは時にはおじさんから昔話を聞いたり、時には「人生訓」のようなものを聞いたりもしました(店ではクラシックが流れることはなく、いつもラジオがかかっていて、おじさんはよく浪曲を聴かれてましたが)。
おじさんとした会話、いくつも覚えている場面があります。
ある時、私が発売されたばかりのカール・ベーム指揮の「新世界」(DG)を買おうとした時のこと。おじさんは「なあ、あんたなぁ、ベームやったら何でもエエっちゅうもんちゃうで。やめとき」と言うのです!今、もし私がそんなことを言われたら、「そんなことは分かってて買うんやからほっといて」と言い返すでしょうが、その時はおじさんに叱られたような気がしてベームのレコードは買いませんでした。しかし、自分で何かを判断するものさしを作り始める時期に、偏った音楽の聴き方をしてしまったら、音楽が面白くなくなるで!というおじさんの警告だったのだろうと今は理解していますし。感謝もしています。
あるいは、私がバーンスタインの「幻想交響曲」(EMI再録音)を買った時のこと。「なんや、『幻想』やのにミュンシュにせえへんのか?何でや?」と聞かれました。私が、「ミュンシュ盤は第3楽章が途中で切れるから裏返さなあかん。バーンスタインのは第3楽章切れ目なく聴けるから、こっちがええんです」と言うと、おじさんは驚いたような顔をして「おお、そうか、分かった。よっしゃ、あんたよう勉強しとるな。ほなバーンスタインにし」と言われました。心底音楽が好きでレコードが好き、というところを認めてもらえたような気分がしました。
またある時、私が中学生の頃、クライバー/スカラの’81年の来日公演と、1959年のイタリア歌劇団のデル・モナコのライヴをFMで聴いてノックアウトされ、デル・モナコとカラヤンの「オテロ」を買おうとカードをおじさんに差し出した時のこと。おじさんは、満面の笑みを浮かべて、「おお!あんた、もうこんなん聴くようになったんか!素晴らしい!モナコはええぞっ!!」と大喜びしてくれました。これもとても忘れられない思い出です。私を子供だからと言ってガキ扱いすることは一度もありませんでしたが、でも、いつでも私の成長をあたたかく見守ってくれていたような気がします。
そして、一番よく覚えているのは、「将来は存在価値のある大人にならなあかんで」と言われたこと。どういうシチュエーションで言われたかはさっぱり覚 えていませんが、今でも時々思い出しては「ああ、おじさん、すんません、存在価値のある大人にまだなれてません」と平謝りしたくなるような気持ちになってしまいます。
このように、きっと当時の常連客だった方々は、皆、私と同じように、それぞれに増田のおじさんとの濃密な思い出があるのだろうと思います。増田のおじさんは、それこそ多くの常連客にとって「存在価値のある」人だったと言えると思います。まさに有言実行。だからこそ、何十年も神戸の地で老舗として愛され、転勤してもLPは必ず名曲堂で注文するという人も多かったのでしょう。
増田のおじさんは、1982年6月1日、店の中でレコードに囲まれて、脳溢血で亡くなられました。当時、私はマスダ名曲堂のすぐ裏手にある塾に通っていて、その日も授業を受けに行くところでした。店の前で、警察の人たちと野次馬が人だかりを作っていましたので何があったか聞くと、「名曲堂のおっちゃん、亡くならはったみたいやで」と言われました。警察は事件性がないか捜査していたのです。私はもう気が動転してしまってどうして良いか分かりませんでしたが、授業が始まるので仕方なく塾へと向かいました。そして、帰宅してから、私を小学二年生の頃に名曲堂に連れて行って下さった「師匠」から、増田のおじさんが亡くなったこと、お通夜とお葬式の日取りが決まったことを聞きました。
次の日、おじさんのお通夜に行きました。安らかな顔をされていました。「ワシはこの仕事、道楽でやってんねん」というのが口癖だったおじさんのことですから、大好きな自分の店で、たくさんのレコードに囲まれて天に召されたのであれば、きっと本望だっただろうと思いました。
その数ヵ月後、在庫のLPをセールでほぼすべて売りつくし、神戸の老舗として名を知られたマスダ名曲堂は姿を消しました。
同じ年、世の中にはコンパクトディスクが初めて登場し、デジタル時代の到来を告げたのですが、増田のおじさんはSP、LPというアナログディスクだけを商売道具としてレコード屋さんの主人としての役目を終えました。
おじさんが亡くなった13年後、あの神戸大震災が起き、マスダ名曲堂のあった場所も甚大な被害を受けました。もう今は跡形もありません。そんなことになるなんて、生前のおじさんはきっと想像もつかなかっただろうと思います。もちろん、私だけでなく、多くの常連客の方々も。
時の流れということもあって仕方のないことですが、神戸の震災前の文化の一翼を担っていた懐かしい風景は残念ながらもう消えてしまっています。だからこそ、一市民、かつての「その街のこども」の記憶に残る風景として、マスダ名曲堂のことを書いておきたいと思い立ち、このような拙いエントリーを記した次第です。
昨年、私が神戸の実家に帰った時、マスダ名曲堂が紹介されたレコード芸術の記事を持って帰ってきました。全国のレコード店めぐり特集の1981年7月「特集:保存版!レコードピア'81−レコードコレクターへの道。」の一部で、おじさんが亡くなる前年の記事です。あの懐かしい増田のおじさんの柔和な笑顔が素敵な写真が載っていますし、懐かしいお店の写真もあります。(当時開催されていたポートピアに引っかけた特集のネーミングのセンスも懐かしい・・・)
(レコード芸術1981年7月号「特集:保存版!レコードピア'81−レコードコレクターへの道。」より)
そして、下が、マスダ名曲堂で実際に使われていたおじさんお手製の注文カード。おじさんが亡くなられた後、在庫処分でLPを買った際、御遺族から「形見」として頂いたものです。
几帳面な美しい字で、丁寧に心をこめて作られたものです。まさに手作りの仕事。もう今では成り立たない商売の形態に違いなく、今から比較すれば非効率な作業なのだろうと思いますが、その分、おじさんの手仕事を通じて、音楽とディスクを愛する売り手と買い手のあたたかいつながりが生まれたことは間違いないと思います。例えば、あの村上春樹氏と、おじさんはどんな会話をしたのでしょうか。
今日は、増田のおじさんの思い出に浸るために、カール・ベーム指揮の「新世界」のディスクを聴いてから眠ることにします。
・ドヴォルザーク/交響曲第9番「新世界から」
カール・ベーム指揮ウィーン・フィル(DG)
→詳細はコチラ(HMV)