珠玉の小品 その29 〜 フット/エア

2010.01.19 Tuesday

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    ・フット/エア
     ジェラルド・シュウォーツ指揮シアトル響(Naxos)
     →詳細はコチラ(HMV/Tower)




     私の大好きな作曲家ディーリアスのことを評して「誰からも影響を受けず、誰にも影響を与えなかった作曲家」と書いた人がいるそうです。(記憶違いでなければグローブ音楽事典?)

     そんなアホな、と思います。特に「誰からも影響を受けず」という点に関して私は異議があります。一体、この世の中に誰からも何の影響を受けないでいられる人など、いる訳がないではないか!と思うのです。(まあ、上記のディーリアス評は、いかに彼がユニークな存在であるかを強調するためのレトリックなのだろうと思いますが)

     音楽に限らず、何らかの作品、もっと抽象化して言えばあるアウトプットが生まれる時には、当然作者がそのアウトプットを「作る」というプロセスを経る訳ですが、無から有は決して生まれてきません。「作る」プロセスを実行するに当たって、何らかの「インプット」が存在するはずです。そのインプットは、例えば、そのアウトプットのコンセプトであったり、アウトプットを規定するスコープや要求であったりしますが、ことに芸術作品の場合は、作者の内的な思考や感情、あるいはインスピレーションがインプットになることも多いはずです。であるならば、そのインスピレーションの源が、例えば、昔聴いた音楽だったり、読んだ文章だったりと、何らかの「記憶」となることは往々にしてあり得る話です。

     例えば、今私はこうやって拙く下らない文章を書いて、ネットという世界にちっちゃなゴミを吐きだしているわけですが、その文章は、いろいろなインプットがまずあって、それらが私の脳内の変換関数を通過した結果出てきたアウトプットです。余りに文章が稚拙で原型はとどめていないのですが、例えば、私の文章を遠心分離器にかけてみれば、その中には私がよく読んでいる本の作家や音楽評論家の文章の中味や文体の「記憶」がインプットとして検出できるのかもしれません。いや、そんな手間も必要なくて、私の文章を一目で見て、「ああ、こいつは誰それの読者だな」ということがバレバレな、質の悪い「劣化コピー」でしかないのかもしれません。

     そう考えていくと、きっと私自身、ごく日常的に、無意識のうちに「パクリ」「盗作」をやってしまっているのだろうなあと思います。自分が何に影響を受けているのか、自分の無意識領域の記憶の中に何が残っているのかなんて把握できるはずもありませんから、記憶の奥底にあったものを、あたかも自分の創作であるかのように書いてしまうことだってあるでしょう。

     ならば、例えばですが、このブログのタイトル"Langamer Satz"は、もしかしたら誰かのブログのタイトルと同じかもしれません(一応、ググッた限りでは同名のブログは見つからないようなのですが)。あるいは、nailsweetというハンドルネームだって、以前見たことのある他人のものを「盗用」してしまっているのかもしれません。今まで書いてきたエントリーにも、きっと無意識のうちに誰かの文章や言葉を「借用」してしまっているかもしれません。私自身のポリシーとして、本文中で他人の文章をコピペする時は、一応、引用であることを明示しているつもりですけれども・・・。

     と、またこうして下らない前書きを長々と書いたのは、最近私が気に入って聴いているアメリカの作曲家アーサー・フット(1853〜1937)の書いた弦楽合奏のための「エア」という曲を聴いて、「あれ?これどっかで聴いたことあるなあ。何かのパクリじゃないか?」と思ったからです。明らかに何か、私たちがよく知っている過去の作品がインプットとなって、それがあまり複雑な変換プロセスを経ずに、結構ナマな形で作品として出力されたものではないかと思えてしまうのです。

     そう思ってライナーノートを読んでみると、そこには「バッハのエア(G線上のアリア)を意識して書かれた作品」とありました。なるほど、確かにヴァイオリンが2声に別れて美しく絡み合うところなど似ているかもしれません。でも、私は、それ以上に、グリーグの「ホルベアの時代から」のエアに酷似した雰囲気を感じました。グリーグが短調で書かれているのに対し、フットは長調で平明な響きでかかれているという差異はありますが、中低弦のゆったりと刻まれる同音反復の伴奏に乗って、ヴァイオリンがのびのびと息の長い歌謡的な旋律を歌うというスタイルがよく似ていますし、繊細な弱音を多用してナイーヴな心のうつろいを表現したような佇まいに、互いに共通するものを感じます。

     であるならば、フットの音楽は、甚だしくオリジナリティを欠く「パクリ」の音楽であって、それゆえに価値のないものだと「ぶった斬り」してしまうべきものなのでしょうか?

     そうなのかもしれません。そして、この曲が長い間録音されずに音楽史の波間にうずもれていたのも、きっとそれが大きな理由だったのでしょう。

     でも、私はこのフットの「エア」を聴いて、心が動かされずにいられません。

     その理由は簡単。この曲が、ただひたすら「美しい」からです。そして、音楽の中に、作曲家の「真実の声」がこめられているような気がするからです。

     私は、音楽的に「優れたもの」を求めて聴いているのでなくて、自分の心のどこかが共鳴するものを求めて音楽を聴いているつもりです。作曲者自身の心の動きが美しく表現されているように感じて共鳴したのであれば、それが常套的な外見をした音楽だからといってせっかく私の心の中に生まれた「共鳴」を理性で止めてしまうのは、私にはとてももったいないことに思えるのです。

     それともう一つ。フットという作曲家の生きた時代と地域を考えた場合、アメリカのクラシック音楽の黎明期にあって、まだ多くの作曲家がヨーロッパの音楽を模倣するので精一杯だった頃なのですから、彼には情状酌量の余地もある。むしろ、ヨーロッパの音楽のスタイルを借りて、これだけの内容をもった音楽を書けた人なのだから、フットはとても技量の高い作曲家だったとさえ言えるのではないかと思います。

     このあたたかで優しいまなざしに溢れた小品、私にとってはこれからも折に触れて聴いていきたい「珠玉の小品」です。取り上げたディスクのシュウォーツ指揮シアトル響の演奏も、心のこもったもので実に美しい。何度聴いても飽きません。

     私は、例によって、ネットラジオOttavaでこの曲を知りました。昨年秋、林田直樹さんの番組での新譜紹介で聴いて印象に残り、CDを買ったのです。このアルバム、「エア」の他に、ブラームスの影響ぷんぷんの「フランチェスカ・ダ・リミニ」や、あんまりエキゾチックではない「ルバイヤートによる4つの性格的小品」など美しい曲が多くて愉しみました。とても素晴らしいディスクを番組で紹介して下さった林田さんに感謝したいです。

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    2019.05.08 Wednesday

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