バレンボイム/ベルリン国立歌劇場 「トリスタンとイゾルデ」

2007.10.18 Thursday

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     男女間の愛には、時として「痛み」が伴うことがあります。それが「道ならぬ愛」であるなら尚のこと、強烈な「痛み」が生じるはず。では、その「痛み」もやはり「癒し得るもの」なのだろうか?しかも「死」ではなくて「生」の中にあっても・・・。

     今日のバレンボイム/ベルリン国立歌劇場の「トリスタン」の公演を見ながら、私はそんなことを考えていました。

     私は、このオペラの中のあちこちに「痛み」を感じます。

     「道ならぬ愛」の袋小路にはまってしまったトリスタンとイゾルデの「痛み」、娶ったイゾルデと忠臣トリスタンの情事の現場を見てしまったマルケ王の「痛み」。彼らの痛みは、トリスタンが死に、イゾルデが死に導かれることで漸く解放される。

     今まで聴いてきたディスクや、以前見たアバド/BPOの来日公演でのナマでも、その「痛み」を、まさに痛切に感じながらこのオペラに接してきました。

     しかし、今日の公演では、その「痛み」は十分に感じるものの、私が今まで感じていたものとは、何か質が違うように思いました。

     その「痛み」が、既に「癒し」を内包したもののように感じたのです。優しい表情をした「痛み」とでもいうのでしょうか。

     既に愛し合っていたトリスタンとイゾルデは、媚薬をきっかけに互いの「愛」を意識し、「闇」の世界へと迷い込み、愛の官能に溺れると同時に「痛み」に悶え苦しみはするものの、いずれは「死」によって二人の「道ならぬ愛」が成就することを知っていた。死を恐れない彼らにあっては、「痛み」はそもそも癒し得るものという意識なのだから、殊更「痛み」そのものを生々しく表現する必要もないのということなのでしょうか。クプファーの演出が、簡素な舞台装置で余り激しい動きをつけない演出だったので、「痛み」を生々しく感じる場面が少なかったこともそう感じた一因だと思います。

     こじつけかもしれませんが、クプファーのインタビュー記事にあったとおり、登場人物の誰もが「痛み」の原因となるもの、自分たちを抑圧するものに抗うことなく、自分たちの運命を受け容れてしまっていたことが表現されていたのかという気がしています。

     私は、もう少し「痛み」を深く味わった上で最後の「愛の死」を聴きたかったですが、こういう「トリスタン」は初めてだったので、貴重な体験でした。

     演奏そのものは、「超一流の平凡」といいたいところでした。

     バレンボイムがオケから引き出した響きは、繊細でありながら、しかも、いつも豊かさを失わなわない上質なもので、ワーグナーの書いた魔法のような音の「綾」をたっぷり聴かせてくれました。特に、第3幕の前奏曲のヴァイオリンの透き通った美しい音色は絶品。管楽器の響きも美しく、しかもパワーも十分で、本当に素晴らしいオケだと思いました。バレンボイムも、第3幕のトリスタンとイゾルデの再会の場面に圧倒的なクライマックスを置き、全体のドラマの輪郭をはっきりと見せてくれたのもまさに名匠の技だと思います。

     歌手では、主役の二人、マイヤーのイゾルデ、トリスタンのフランツも悪くなかったですが、パペのマルケ王は本当に素晴らしかったです。トレケルのクルヴェナールも良かった。

     しかし、まったく贅沢なことを言わせてもらうならば、10年前に彼らが「ヴォツェック」で聴かせてくれたような、「一期一会」とも言うべき入魂の演奏とは少し距離があったのが残念です。勿論、ルーティン・ワークとは一線を画する超一流の演奏だったのですが、「お望みならアンコールでもやりましょうか?」とでも言いたげな、余裕綽々のバレンボイムのカーテンコールでの姿を見ながら、ああ、この人たちは、これくらいの質の公演をいつもやってるんだなあと思いました。これだけの公演を見せてもらって罰が当たりそうですが、「モーゼとアロン」にしとけば良かったかな?なんて思ったりして。

     メイド・イン・ジャパンのオペラで、これレベルの上演を「平凡」と呼べるような、そんな日はいつ頃になったら来るでしょうか・・・・。

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