デュポン/ピアノのための作品全集 〜 エミール・ナウモフ(P)

2010.04.29 Thursday

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     ・デュポン/ピアノのための作品全集
     エミール・ナウモフ(P) (Saphir)
     →詳細はコチラ(HMV/Tower)




      サナトリウム文学というカテゴリーに分類される文学作品があります。例えば、トーマス・マンの「魔の山」を代表例として、我が国の堀辰雄の「風立ちぬ」や福永武彦の「草の花」といった小説が該当することから分かるように、肺結核など「不治の病」に倒れた病弱な男を主人公としたものです。病院、ではなくて、サナトリウムつまり療養所で、病に冒された体と心を休めながら、恋愛などの人生模様を経験するさまが描かれていてるのですが、彼らの繊細で傷つきやすい心の揺れや、死と向き合う不安を色濃く反映した筆致を見せるものが多い気がします。特に、自らをアウトローとして世間から(必要以上に)引き剥がし、己の内へ内へと沈潜する中で、異性への愛や、名声や成功といった世俗的な欲望を諦めていく過程が描かれるに至って、そこに何がしかの共感を覚える読者が多かったからこそ生まれた「分類」なのではないかと思います。

     では、目を転じて、クラシック音楽の世界で、「サナトリム音楽」みたいな曲はないかと探してみると、例えば、若くしてこの世を去ったフランスの作曲家ガブリエル・デュポンの書いたピアノ曲集「療養のとき」(1905年作)は、作曲家自身が肺炎にかかって療養している間に書かれた曲であり、まさに不治の病によっていつ死が訪れてもおかしくないという状況での彼の心象風景が描かれた曲ですから、もうそれだけで既に「サナトリウム音楽」たる資格を持った曲ということもできると思います。

     デュポンは、1878年に北フランスのカーンという町で生まれた作曲家で、パリ音楽院でマスネやヴィドールに学んで頭角を現し、1901年のローマ大賞2位獲得によって一躍有名になり、オペラや声楽作品などを次々発表して時代の寵児となった人。ドビュッシーやロマン・ロランといった人たちにもその作品が高く評価されていたそうです。特に、ロランは一時期デュポンの住んでいたアパルトマンの隣人だったこともあって、「療養のとき」の作曲過程をつぶさに聴き、素晴らしい曲だと絶賛したのだというエピソードも残っています。

     しかし好事魔が多し、彼は1901年頃から肺炎を患い、パリを離れてプロヴァンス地方で療養をすることが多かったようで、さほど多くの作品を残したとは言えない状況で、1914年にパリ近郊のイヴリーヌのヴェジネ荘で36歳の若さで亡くなりました。そして不幸にして、ドビュッシーやラヴェルといった西洋音楽史の歴史を変えてしまった大作曲家の影に隠れて、長く忘れられた存在となってしまいました。

     そのデュポンの残したピアノ作品はこれまでもいくつかディスクが出ていたようですが、私が最近聴いたのは、フランスの名手エミール・ナウモフが演奏した2枚組の「全集」のディスクです。全集とはいっても、その「療養のとき」と「砂丘にある家」の2曲だけなのですが、前者は14曲からなる1時間近い大作、後者も10曲からなる45分ほどの曲ですから、全体の音楽のボリュームとしてはさほど小さくはありません。

     さて、そのデュポンのピアノ作品ですが、まず聴いてみて明らかなのは、フォーレの音楽からの影響の大きさでしょうか。音楽を、形のあるものから空気のようなものへと昇華させてしまったかのような印象派の作品よりは、和声的にもそれまで使われていたものから大きく逸脱するような特殊なものを用いたりせず、調性やフォルムといった「重力」を若干感じさせるところに共通点を見出すことができる気がします。楽譜を見ていないので何とも言えませんが、デュポンの曲の楽譜には、例えばドビュッシーやラヴェルの曲の楽譜と比べると、随分シンプルで保守的な風景が広がっているのではないかと思います。

     また、どんなに感情表現が強まっても、音楽が過度に甘美なロマンに走ることなく、常に凛とした清冽な抒情を失わない「品格」を備えているところも、フォーレの音楽との大きな共通点ではないかと思います。だから、フォーレのあの美しい夜想曲集の中に、このデュポンの作品をそっと紛れ込ませて演奏をしても違和感がないのではないかと思います。

     しかし、当然のことながら、デュポンはデュポン。決してフォーレの亜流の音楽などではなく、独特の味わいをもった音楽でもあります。何が彼の音楽をユニークなものたらしめているのかは、素人の私は的確な指摘をすることはできませんが、私の中に今ある仮説は、デュポンの音楽から感じられる「日差し」が他の作曲家のそれと異なっているのではないかと思えるのです。

     例えば、病と死に向き合いながら書かれた「療養のとき」は、暗くて厭世的・絶望的な音楽にはなっておらず、どんなに短調の哀しげな曲であっても、そのどこかに聴く私の心を照らしあたためる日の光を孕んでいるような気がするのです。それが例えばフォーレの音楽ならばもう少しどんよりと薄暗い雲を感じさせる音楽であって、ドビュッシーやラヴェルならば日差しの存在はもっと茫洋とした曖昧なイメージに昇華され、日光に晒された対象の色彩の変化や、空気の流動を感じさせる音楽という私の脳内イメージからすると、このデュポンの音楽にはどこか青空の中にある太陽の存在を感じさせる何ものかがあるような気がするのです。

     ですから、デュポンの「療養のとき」を聴いていると、迫りくる死に怯え、若さの絶頂で手折られる無念さや怒りに震える作曲家の姿ではなくて、まさにサナトリウムで心と体の不調を癒しながら、かえって研ぎ澄まされる己の感覚をより尖らせ、自己と、そして太陽との対話を通して「快癒」へと向かっていこうとする力を感じさせる人間の姿を思い起こさせます。そして、亡くなる4年前、1910年に書かれた「砂丘にある家」では、繊細な心象風景の移ろいを克明に表現したものであるのは前作と共通したところでありながら、澄んだ乾いた空気と、あたたかい日光、そして高い青空をより強く感じさせる音楽になっています。その点では、この曲は、フォーレ、ドビュッシーやラヴェルの音楽よりもむしろ、セヴラックの音楽に近い特質をもった音楽として私には聴こえてきます。

     そうしたデュポンの音楽の持つ特質が、元来、フランス音楽への感度がずっと低かった私にとって、彼の作品楽が、とても親しみやすく、敷居の低いものとして聴こえてきた理由なのではないだろうかと考えています。その音楽へ共感が、私の弱い心に何がしかの力を与え、疲れに干からびてしまった感覚に水や養分を与えてくれたのでしょう。

     ファッツィオーリを弾いたナウモフの演奏は、デュポンの曲の他の演奏を聴いていないこともあって、何がしかの客観的尺度で測った場合、どういった「評価」が下されるべきかは知りませんが、しかし、デュポンの音楽にある特徴をきっちりと抽出し、それを歪ませることなく私たち聴き手に伝えてくれる、とても好ましい演奏であるように思います。ただ感覚を麻痺させるような表面的な耽美を追及することよりも、それより作曲家と同じ感情の「場」に入って、音楽の内部へ入り込もうとするその姿勢が私には好ましいのです。深い響きを持ったファッツィオーリという楽器の選択も、そんなナウモフの音楽への肉迫のためには必要なことだっただろうというのは想像に難くありません。とても素晴らしい演奏だし、素晴らしいピアニストだと思います。

     最近私は、音楽鑑賞に関して言えば、金銭的な制約や、心身の疲れに起因する好奇心の減退のせいもあり、慣れ親しんだ少数の作曲家の音楽に集中していました。でも、このデュポンの音楽のように、音楽史の隙間で目立たなくなってしまったマイナー曲で、心を動かす音楽に出会ってしまうと嬉しくて、ああもっといろんな曲を聴きたいという欲求が高まってきます。私の限られた人生、あとどれくらいの音楽を聴けるのか分かりませんが、とにかく出会ったことで人生が豊かになったと思えるような音楽に、一曲でも多く触れていきたいと思います。

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    2018.11.10 Saturday

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      コメント
      はじめまして。

      もう随分昔からデュポンの2つのピアノ組曲を愛聴しています。とりわけナウモフのこの演奏はマリー=カトリーヌ・ジローと双璧をなす名演と思っています。

      そしてここでのデュポンの音楽自体に対する考察は、僕の中で漠然としていたイメージに納得し得るカタチを与えてくれるもので愛すべきものです。ありがとうございます。

      ところで、4月に抜粋ではありますが「療養の時」を含むプログラムのピアノコンサートが東京であります。僕もお手伝いしているのですが、よろしければご案内いたしたいと思っています。奏者であるパリ在住のピアニスト、木野真美さんもこちらの文章に深く感じ入られて、ぜひお聴きいただきたいと願っています。

      ついては一旦メールにて連絡先を教えていただけないでしょうか?折り返しコンサートの詳細をお知られしたいと思います。

      よろしくお願いします!
      • by みのりの眼
      • 2018/02/20 2:10 PM
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