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【ディスク 感想】皇紀二千六百年奉祝楽曲集、玉音放送

・皇紀二千六百年奉祝楽曲集、玉音放送
 紀元二千六百年奉祝交響楽団他(Altus)
 →詳細はコチラ(HMV/Tower)




1. R.シュトラウス(1864-1949):皇紀2600年奉祝音楽
 ヘルムート・フェルマー(指揮)、紀元二千六百年奉祝交響楽団
2. ピツェッティ(1880-1968):交響曲 イ調
 ガエタノ・コメリ(指揮)、紀元二千六百年奉祝交響楽団
3. イベール(1890-1962):祝典序曲
 山田耕筰(指揮)、紀元二千六百年奉祝交響楽団
4. ヴェレシュ(1907-1992):交響曲「日本の皇紀2600年へのハンガリーからの贈り物」
 橋本國彦(指揮)、紀元二千六百年奉祝交響楽団
5. 近衛秀麿(1898-1973):大礼奉祝交声曲より 第2〜4楽章 *第1章は未録音
 近衛秀麿(指揮)、新交響楽団、ヴォーカルフォア合唱団、
 内田榮一(バリトン)、松平里子(ソプラノ)、佐藤美子(メゾソプラノ)
6. 『終戦の詔書』(玉音放送全編)


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 Altusレーベルがこのたび復刻した「皇紀二千六百年奉祝楽曲」を聴きました。1940年、神武天皇即位紀元2600年を記念して海外の作曲家に委嘱された4つの作品の、歌舞伎座での初演に続く4回の演奏会と、大阪での演奏会の間に、演奏会と同じ陣容によって東京の放送局スタジオで収録されたレコード録音の久々の市販化です。LPではキングから出た記憶があり、CDもロームがリリースしたと思いますが、一般には入手困難でした。今回は、復刻にあたって、ライナーノートを片山杜秀氏が担当、SPからのリマスターもOpus蔵の安原氏と相原氏が担当。収録曲も、4つの奉祝曲以外に、昭和天皇の即位の礼(1928)を記念して作曲・演奏された近衛秀麿の「大礼奉祝交声曲」と、1945年8月15日に放送された「終戦の詔書」、いわゆる玉音放送が追加されていて、我が国の歴史の中における「昭和」という「皇紀」の始まりと終わり、そしてその頂点を、音楽を通じて体感することができるわけです。

 録音後70年を過ぎた時代を生きる日本人の聴き手としての私の感想を、いつも通りの思考や語彙の範疇で、端的に言ってしまえば、「収録された曲はどれもあんまり面白くないし、演奏は超下手くそ、録音は貧弱(復刻は素晴らしい)。音楽的な感動はほとんど受けなかった」というところだと思います。正直、これが「紀元2600年奉祝楽曲」でなければ、恐らくまっすぐ中古ショップ送り決定、というところ。 

 しかし、私は決してこのCDを中古ショップに売ることはない、どころか、私が持っているCDの中でも特に大切に持っておきたいものになると思います。

 なぜか。私にとって「価値のあるもの」だからです。

 では、このディスクの「私にとっての価値」とは何なのか。前述の通り、純粋に音楽的な意味から言えば、ほとんど私には価値がありません。確かに、シュトラウス、イベールやピツェッティ、ヴェレシュの曲は、ライナーで片山氏が書かれているようにもっと再評価されて然るべきというのも納得できるくらい、よくできた曲とは思いますが、いかんせん、演奏に問題がありすぎて繰り返し聴くに耐えるクオリティにはありません。

 それでも、このディスクは、私にとって「価値のあるもの」なのです。このディスクを持っていて実際に聴いた、そのこと自体が「私が私である」ということの証であり、そこから何を聴き取り、何を感じたかが、私という人間を形作るのだと思っています。

 どうしてかというと、日中戦争から第二次世界大戦へと突き進みつつあった、日本という国の姿の一端を見せたディスクが、私に対して余りにも多くのことを問いかけてくるからです。

 聴き始めた最初の頃は、「紀元2600年」という行事は、当時の日本にとって一体何だったのか?という客観的な問いから考え始めたのですが、4曲の奉祝曲と、近衛の書いたカンタータ、そして玉音放送と聴き進むにつれ、最終的には、全部自分自身の内面へと思考が跳ね返ってきました。

 この「紀元2600年」という行事は、私にとってどんな意味があるのか。戦争のこと、戦後から現在の日本の歩んだ道、そして、天皇、特に昭和天皇について、「お前はどう思うか。他人がどう言うか、歴史の評価を抜きにして、お前という裸の人間がどう思うのか。」と問いへとどんどん広がっていって、収拾がつかないところまで拡散してしまった。

 この演奏会についてだけに考えを絞って、「問い」を端的に限定してしまえば、「紀元2600年」を祝う音楽会を、これまでの私たちのスタンス通り、戦争へひた走る軍国主義日本のプロパガンダ行事として「負の歴史」として捉えるべきなのか?というのが最も大きな問いです。もしかして、当時のコンテキストから分離して、ただ純粋に音楽的な観点から「再評価」することは可能か、あるいはするべきか?あるいは、もっと積極的に、今の私たちが歴史の中に忘れてきてしまった「善きもの」として見直すこともできるのでしょうか?

 正直言うと、その問いについて答えは、まだ全然出ていません。今でもずっと考えています。これからも答えが出ないまま生きていくしかないかもしれない。出たと思っても、何度も答えが変わっていくのかもしれません。

 ただ、私自身の中では、この「紀元2600年」の奉祝行事は、やはり日本の「負の歴史」として捉えるべきだろうという従来の私のスタンスは、ディスクを聴き終わった今でも変わってはいません。(あくまで今、ということですけれど)

 当時の日本政府は、列強に伍して戦える列強の一員であることをアピールし、国民の国威発揚を図ろうとしていた。そのため、そもそも出典の怪しい「神武天皇即位紀元」などという歴史を持ち出して、紀元2600年などという行事をでっち上げた。煎じつめてしまえば、民意を味方につけた状態で着々と戦争への道を歩み始めるための、非常に不純な動機をもった行事だったに違いない。ナチスの行事で演奏された「第9」やワーグナー、ソ連共産党の行事で演奏された「森の歌」などのように、音楽が為政者に利用され、国家の都合を背負わされてしまった悲惨な歴史であり、この行事に曲を書いた作曲家も、世界の「負の歴史」の当事者である国家の、自画自賛の行事に加担してしまったという点で、やはりあまり褒められた経歴ではない。(実際、ヴェレシュはこの経歴を気にして、ハンガリーからスイスに亡命したらしい。)

 そういう観点からこのディスクを聴いていましたから、当然、批判的な立場で聴かざるを得ない訳です。誤ったイデオロギーに基づいて、誤った戦争へと駆り立てられていた日本に対して、そして、もしかして、その日本の最高責任者であった「あの人」に対しても、です。

 ですが、実際にこうして「負の歴史」を記録したディスクを聴いても、この「負の歴史」を「なかったこと」にしようとはまったく思いませんでした。むしろ、冷静に、じっくり向き合って、自分なりの「立ち位置」を見つめたいと思いました。聴けて良かったと思いました。

 何と言っても、これら4曲の奉祝曲は、いずれも初めて聴くものだったから。これまで「負の歴史」として忌み嫌って来た音楽たちではありますが、避けて聴かずに批判しても仕方がなくて、何より聴いてみなくては意味がないのです。

 そして、聴いてみて、この演奏会をもう少しナマナマしく「追体験」したいと思いました。当時の日本という「文脈」の中で、私という人間がこれを聴いたら、何を思うのか、何を考えるのか、たとえ難しくとも「想像力」を働かせて考えてみたいと。

 ・・・ここから少し、妄想の小部屋へ入ります。

 もし、今の私が、このままの状態で70年前にタイムスリップして、演奏会がおこなわれた歌舞伎座に行ったとする。この5年後の無残な敗戦も、その後の苦難と繁栄の歴史も知っている私は、周囲の華やかな雰囲気の中で何をするだろうか。「皆さん、目を覚まして下さい。このまま行けば日本はひどいことになる。今からでも遅くはないから、日中戦争は終わらせ、三国同盟も破棄して連合軍側について下さい」と言うのか。いや、きっとできないでしょう。あるいは、もし私という人間が、当時を生きている人だったらどうだろうか。やはり、当時の世論を支持し、やれ行けそれ行けと「主戦論」をぶっているのでしょうか。残念だけれど、きっとそうだろう・・・。

 ・・・「そんな妄想ばっかりして、アンタ、やっぱり音楽なんて聴いてないじゃないか!」と言われるかもしれません。でも、これらの曲を、ただ純粋に音楽的に聴くなんて絶対にできないですし、もしできたところで、私には何の意味もありません。前述の通り、音楽的には余りにも不備の多い音源であり、音楽的な評価だけで捉えてしまうと即座に切り捨てざるを得ないもの。私は学者でも評論家でもないので、客観的に聴く必要はなく、「主観的に」、いや、「主体的に」聴くことにこそ価値がある。

 と自らを正当化(論拠ははなはだ弱いですが)した上で、今、私が強く思っているのは、この演奏会をリアルタイムで聴いた人たちの感想を知りたい、ということです。もし、あの時代、パソコンや携帯があって、これらの曲を聴いた人たちがツイッターで呟くとしたらどんな内容になるんだろう?R.シュトラウス、ピツェッティ、イベール、ヴェレシュの4人の作曲した曲は、当時の人たちにどう聴こえたのか、何を感じ、何を想い、何を考えたのか、そこが、このディスクからは分からないのです。

 確かに、片山氏が執筆されたライナーは、いつも以上に力瘤の入った素晴らしい力作で、当時の報道などを参照しながら、制作する側の事情をナマナマしくレポートして下さっていて、これはとても価値のあるものです。しかし、これはどちらかと言えば「作り手」の方の観点から書かれたものであって、1940年12月の初演時の聴衆の反応、新聞の評など「受け手」側の視点からのレポートはありません。恐らく、ライナーで言及できるほどの質と量の資料が残っていないからなのでしょうけれど、この音楽会を追体験してみるためにも、この時代の真っ只中で生きていた人たちにどのように受け容れられたのか知りたいと熱烈に思います。

 この奉祝演奏会に参加した聴衆は、一体どんな気持ちで、海外の大作曲家の書いた「奉祝曲」を聴いたのでしょうか。例えば、もし当時、当時パソコンが普及していて、ツイッターができる状況だったら、私たちの親から上の世代の人たちはどんなことを呟いていたのでしょうか?当然まったくの想像に過ぎないのですが、恐らくは、この演奏会と録音に対しては熱狂的な受容がなされ、ほぼ例外なく賛辞の嵐となるのではないでしょうか。。R.シュトラウスのような大御所を初め、欧米の著名な作曲家が、日本の輝かしい伝統(西暦より古い)を讃えるために曲を書いたというところから、最終的には「わが日本国は素晴らしい!日本大帝国万歳!天皇陛下万歳!」というようなパトリオティックなツイートで溢れかえっていたのでしょう。多分、「イギリスのブリテンとかいう奴は、このめでたい時に「鎮魂交響曲」などという不謹慎極まりない曲を書いて送って来た。しかもギャラはしっかりもらっていった。断じて許せん。」みたいな意見も出るでしょう。また、今日の耳で聴くと貧相なオケの音ですが、当時にしてはケタはずれに巧かったに違いない特別編成のオケも称賛を浴びていたに違いありません。

 1940年と言えば、開催が予定されていた東京オリンピックも、実現寸前まで計画が進んでいたフルトヴェングラー/BPOの来日公演も、日中戦争のあおりで中止となったことで、自信を失い、卑屈になりかけていた人たちも、この行事の盛り上がりを心から喜んでいたに違いありません。そして、日本が立派な強い国であることを、恐らくは無邪気に、素直に誇りに思っていたのだろうと思います。

 もし、私が当時の人たちの感想を見ることができたたとしても、ほとんど共感できないでしょう。当時の人たちに対して「誤った考え方を持った人たち」「音楽的な素養もないレベルの低い人たち」として、冷笑的な立場からそれらを読むことになるでしょう。

 でも、その感想には、今を生きる私たちの方が「正しい」、「優れている」という前提が背後にあるのではないでしょうか。もしそうした前提が、「不変の真実」として存在することが許されるためには、少なくとも私たちが、彼ら彼女ら日本人と「同じ過ちは犯していない、今後も犯さない」という担保がなくてはなりませんが、果たして、胸を張って、自分たちの優位を主張することができるでしょうか?

 多分、できないのだろうと思います。当時の人たちに比べ、確かに生活水準も上がり、裕福にもなった。もっと優れた音楽をたくさん聴くことができるようになった。いろいろ問題はあるとしても一応、日本は表面上は戦争では人を殺してはいない。ですが、昭和の暗黒の時代と、私たちはまだきちんと向き合っていないと思います。先日、精神科医の香山リカさんがコラムで書かれていたように、戦争のことをまるで「なかったこと」のようにして振舞う「解離」という行為が日本全体を覆っていて、敗戦を起点とした数々の矛盾点について、自分たちのアタマで考えず、自分たちの言葉で語っていないのではないか。アメリカからの外圧を盾に、自分たちで「オトシマエ」をつけることをずっと避けてしまって来たのではないか。国旗だって君が代だって、何だかうやむやのままに来て、今になって起立を強制とかいう話が出てきている。天皇自身が「強制はよくない」と言っているのに・・・・。

 ディスクの最後に収められた昭和天皇の玉音放送を聞いていると、ますます私の心は乱れてしまい、もう私の容量の小さな脳はすっかりスタックオーバーフローしてアサートしまい、思考が停止してしまいます。ここから、「今、私は何をすべきか」へと思考をブレークダウンしていかないといけません。道はまだまだ遠いですが、この問いは死ぬまで続けていきたいし、考えている間は、このディスクはかならず私の傍に常になければならないと思っています。

  リリースまでには幾多の困難があったかと思いますが、よくぞこのディスクを市販して下さったと、まずはアルトゥスの斎藤啓介氏には心から感謝したいと思います。また、これだけでも「文化遺産」とも呼べそうな素晴らしいライナーを執筆された片山杜秀氏、極力フィルタやリミッタをかけずに音楽の重要な周波数成分を残しながら復刻されたオーパス蔵の安原氏と相原氏の業績は、いつまでも讃えられるべきものだと思います。 

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追記1:
 音楽的には価値は少ないと言いつつ、収録された曲は、どれも優れた内容を持った音楽だと思います。

 特にイベールは素晴らしいとさえ思いました。冒頭、ベートーヴェンの「運命」第3楽章の低弦から始まるフーガの引用と思しきパッセージから非常に力にみちた音楽が展開されていきますが、途中から、ワーグナーの「マイスタージンガー」の前奏曲の中間で演奏されるフーガの木管や低弦からの引用も交錯し、「ドイツ芸術へのオマージュ」を通して日本への祝意を思わせるあたり、ナチス・ドイツによる占領下のフランス人がこんな曲を書いたのだとなかなかに感慨深いものもあります。

 ピツェッティは抒情的な場面での美しい歌が印象的だし、ヴェレシュはハンガリーの民族音楽の要素を感じさせる生き生きとしたパルスは胸を打ちました。

 それに比べると、R.シュトラウスは、予定調和的というか「らしいねえ」という感想しか抱きませんでしたが、片山氏のライナーで言及されていた映画「新しい土」を見てからならば違う感慨を抱くことになるかもしれません。

 一方、昭和天皇即位の際の近衛秀麿のカンタータですが、これは聴いていてムズムズしました。R.シュトラウスの「ばらの騎士」のテノール歌手の歌や最後の三重唱と、マーラーの8番と、「フィデリオ」のフィナーレの最後をごっちゃにしてしまったような「ドイツかぶれ」音楽で、私にはとても居心地が悪かったし、オケは今のアマチュア以下に下手だし、古い発声による歌手たちの歌も聴きづらい。西洋音楽の真っ只中で自分の音楽を書いていた作曲家たちに比べると、「西洋に追い付きたい」と焦っている日本人の音楽だと思いました。しかし、これが1928年の日本のクラシック音楽の姿だと思えば、それはそれなりに凄い成果なのかもしれないですが。

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追記2:
 この記念すべきディスクの発売を機に、私は、紀元2600年奉祝音楽会を、是非再現する演奏会があっていいと思います。ただし、条件があって、最後には必ずブリテンの「シンフォニア・ダ・レクイエム」を演奏すること。そして、アンコールとして、「負の歴史」の中で命を落とした人たちへの追悼として信時潔の「海ゆかば」を演奏すること。演奏会場は歌舞伎座、プレトークは片山杜秀氏。皇室の方々も招待。無理でしょうか。

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  • 2017.03.01 Wednesday
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  • 00:19
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コメント
こんにちは
かなり以前、TVでシュトラウスのこの曲を聴楽したことがあります
冒頭に出てくる鐘を探す苦労とかもリポートされていましたね
曲の大詰めの盛り上がりが、西洋っぽくないというか
やや不思議な感じで強く印象に残っています
新しい録音で誰か出さないかなぁ

皇紀2600年記念祝典ですが
当時千葉県船橋市にいた私の母親(1932-1999)から
夕方頃から家族で提灯行列に出た話を聞いています
暗がりの中で、彼方まで続く灯の印象だけが強く残ってる
と言ってましたね
  • quietplace
  • 2011/06/28 1:11 PM
はじめまして
こちらのペイジにリンクをさせていただきました。
・・・日中戦争のあおりで中止となったことで、自信を失い、卑屈になりかけていた人たちも、この行事の盛り上がりを心から喜んでいたに違いありません。そして、日本が立派な強い国であることを、恐らくは無邪気に、素直に誇りに思っていたのだろうと思います・・・
私もそう思います。再現する演奏会は大賛成です。誰の意見に左右されることなく、自分の頭と想像力で歴史をいろんな角度から振り返ってみる必要があると思います。ただ日本人は歴史のタブーを勝手にでっち上げて、ヒステリックになっているので、この演奏会の再演はおそらく現状では無理でしょうね。悲しいかな今だったら、このような催しはそれ自体発想もできない、考えてみれば窮屈な国に成り果てています。
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