【ディスク 感想】J.S.バッハ/オーボエ協奏曲集、シンフォニア集 ハインツ・ホリガー(Ob)、カメラータ・ベルン

2011.07.07 Thursday

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    ・J.S.バッハ/オーボエ協奏曲集、シンフォニア集
     ハインツ・ホリガー(Ob)、カメラータ・ベルン(ECM)

     →詳細はコチラ(HMV/Tower)





    1. J.S.バッハ:カンタータ 第21番《わが心には憂い多かりき》BWV.21
    2. 同:協奏曲 ハ短調 BWV.1060
    3. 同:協奏曲 イ長調 BWV.1055
    4. マルチェッロ(J.S.バッハ編):協奏曲 ニ短調
    5. J.S.バッハ:カンタータ 第12番《泣き、歎き、憂い、怯え》BWV.21〜シンフォニア
    6. 同:協奏曲 ニ短調 BWV.1059


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     先日の朝日新聞に、「はじめてのバッハ」という記事が載りました。朝日新聞の音楽担当の記者、吉田純子氏によってまとめられたもので、趣旨としては、「震災後、バッハを聴く機会が増えている。その理由として考えれられるのは、バッハの音楽が人々の心を平常心に戻す作用があること、バッハの音楽の本質が連帯にあること、そして、バッハの音楽には身近さと崇高さが同居していること。」ということでした。鈴木雅明氏、樋口隆一氏という、日本のバッハの演奏・研究の第一人者の意見も織り交ぜて書かれていて、なるほどと首肯するところの多い興味深い記事でした。

     しかし、記事に異を唱える訳ではありませんが、私自身、さほど「震災後にバッハの音楽を聴く機会が増えた」という実感はありません。特に、演奏会では追悼で演奏されることの多い「G線上のアリア」に遭遇したこともありません。また、ディスクの方では、私はバッハの音楽は日常的に聴き続けているので、震災後に購入する枚数が増えたという風にも認識していません。例えば、このブログで書いたアラールのチェンバロ作品集以外にも、いくつもバッハのCDは聴いています。

     もし朝日の記事が、「震災後、バッハの音楽がより沁みるようになった」という論旨であるならば、私は諸手を挙げて賛成です。往年の巨匠による演奏であれ、活躍中の古楽奏者たちの演奏であれ、どんな演奏を聴いても、「ああ、バッハはいいなあ」「バッハの音楽が私のそばにあるとは何という幸せだろう」と、素晴らしい音楽を残してくれたバッハと、バッハという作曲家を世に送ってくれたカミサマに感謝の気持ちを抱かずにいられません。

     例えば、先日聴いたハインツ・ホリガーの吹くバッハのオーボエ協奏曲集の最新CDなどは、私にとっては、まさにその「沁みる」バッハの代表格のディスクです。

     沁みる。心の奥底まで、じわじわと沁みるのです。最近聴いたいくつものバッハの演奏の中でも一際沁みるのです。他の演奏とは、沁みる度合いがまるで違うのです。

     どうしてこれほどまでにホリガーのバッハが沁みるのか。

     それは勿論、80歳近くなってもなお第一人者であり続けるホリガーの「至芸」「名人芸」ゆえなのでしょう。プロの音楽家や評論家、あるいは管楽器を演奏する人ならば、その「芸」の凄さを明確に語ってくれるだろうと思います。

     でも、ホリガーのバッハが沁みるのはそれだけが理由なのではなく、ホリガーの演奏がバッハの音楽にある「無名性」を明らかにしているからだと思います。

     どういうことか。このCD、聴いていると、ホリガーとカメラータ・ベルンという演奏家の姿も、オーボエという楽器も、そして最後にはバッハという作曲家の姿さえもが私の眼前から消滅してしまうのです。私の前にはただ「音楽」だけがある。もはや誰が書いたか、誰が演奏しているか、どんな風にどれくらい巧く演奏しているかなどは「どうでも良い」と思えるくらい、「名前を持った個人」の姿は消えてしまい、私の前ではただひたすら「音楽」が響いているだけなのです。

     そんなふうに地上的なやかましさから解放されて無名性を帯び、凛とした佇まいを見せて「自立する」音楽を前にすると、私という人間は何と些細な俗事に煩わされ、クヨクヨしたり、腹を立てたりしているのだろうと否応なく思い知らされます。考えることはいつも自分のことばかり、いかに自分が得をするかばかりを考え、ただ私欲にまみれて生きている。震災や原発事故に対しても、まずは自分の身を守ることだけで精一杯。あとは、自分とは異なる考えや行動に対して、文句言ったり、非難したり、そんなことばかりで、何事も「私」、「私」、「私」。そして、私は「私」に固執するあまり、結局、他の人のことは見えなくなり、他人への寛容さもかなり失ってしまっている。(都知事の言う「我欲」というのとは違う意味あいの言葉だと思っていますが)

     ホリガーの演奏には、そんな「剥き出しの私」の姿が、まったくと言って良いほどにありません。あらゆる執着やこだわりから解放された、自由で無名の音楽だけが鳴り響いている。

     そのことの高貴さ、ありがたさが私の心に沁みてくるのです。

     人間は、あの恐ろしい自然の猛威の前に無名で無力な存在である。人間は、無名のまま生れて来て、無名になって死んでいく存在なのだから、生きている間も私たちの本質は「無名」なのだ。「私」を、「我」を、捨てるのではなく、「無名性」に思いを馳せることが大事なのではないか。

     ホリガーのバッハは、そんなことを、あたかも自身が神にでもなったかのように、はるかな高みから私たちに宣告するようなものではありません。まさに演奏者自身こそ、自然や宇宙(や神)の前では自らが無名な存在であることを強く意識していて、結局、私も演奏者もバッハも皆、等しく無名な存在であるということを、私たち聴き手と同じ目線で訴えかけてくる。

     だから、この演奏のあたたかさが沁みるのだろうと思います。「ああ、このままじゃいかん、がんばろ」と思えるあたたかさ。

     恐らく、ホリガーのオーボエ奏者としての長いキャリアの総決算とも言って良いほどの素晴らしい演奏を聴けたと思います。バックのカメラータ・ベルンも、一見、何の変哲もない演奏ながら、ホリガーの奇跡のようなオーボエにぴったりと寄り添い、とても美しい演奏を聴かせてくれています。

     ここまで達観したような境地に達するのは容易なことではないでしょう。でも、少しでもこの「無名性」へと近づいていけるように努力することが、良く生き、良く死んでいくための唯一の手だてなのではないかと思います。

     沁みる。ああ、やっぱり、バッハの音楽は沁みる。そして、素晴らしい!

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    2018.05.25 Friday

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