【ディスク 感想】マーラー/交響曲第7番 〜 エリアフ・インバル指揮チェコ・フィル

2011.12.24 Saturday

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    ・マーラー/交響曲第7番
     エリアフ・インバル指揮チェコ・フィル(Exton)
     →詳細はコチラ(HMV/Tower)




     エリアフ・インバル指揮チェコ・フィルの演奏によるマーラーの交響曲第7番の最新盤を聴きました。エクストン・レーベルからのリリースで、2011年2月にプラハのルドルフィヌムでのライヴとセッションによるハイブリッドSACD盤。完全非圧縮DSD信号によるマスターとのことです。

     インバルがマーラーの7番を再録音したというと、私にはとても感慨深いものがあります。

     1987年のこと、インバルがフランクフルトと録音した7番(DENON)は当時各方面で絶賛の嵐となり、私もCDを買って聴きました。それがとても良かったので、同じ年の秋に彼がフランクフルトを率いて来日した時の演奏会を聴きに行き、それこそ脳天をかち割られるくらいのショックを受け、彼の大ファンになってしまったので、そのマーラーの7番は私にとってインバルとの出会いの曲でもあります。また、彼が89年にベルリン放響を引き連れて「東京の夏」音楽祭で演奏したマーラーの7番の演奏は、今でも忘れられないくらいに鮮烈な演奏でした。

     そのDENONの名盤である旧録音は、私の記憶が正しければ、オビにあったコピーは「ひび割れた狂気」だったと思います。あの頃、こういう言葉が流行っていたというのもありますが、当時はとにかく、マーラーの音楽の中に狂気を見出し、グロテスクなまでに過激なデフォルメを施したような演奏がもてはやされていました。当時、まだ存命で最後のチクルスの録音をしていたバーンスタインは別格として、アバドやテンシュテット、レヴァインらが起こしたブームの次に、インバルやベルティーニ、シノーポリといった人たちがそうしたエキセントリックな狂気を孕んだマーラー演奏で高い人気を得ていました。(実際はインバルはCDではそのエキセントリックさはあまり感じられなかったのですが)

     その彼が24年ぶりに再録音するというのですから、これは聴かずにはいられません。オケはついこの間もライヴで素晴らしい演奏を聴かせてくれた都響ではなく、既に今シーズンでの退任が決まっているもう一つの手兵チェコ・フィル。この交響曲第7番を初演したオケということでも注目です。

     今回のインバルの再録音は、フランクフルト盤のオビの文句「ひび割れた狂気」とはかなり遠い位置にある演奏でした。

     旧盤や80年代での来日公演で彼が聴かせてくれたマーラーには、確かに「狂気」としか言いようのない異様な空気が間違いなくあり、それが若い頃の私にはたまらない魅力で、彼の振るマーラーを聴いて、ああ、これぞマーラーだ!とばかりに大感激していました。例えば、強烈な弦のグリッサンドや、楽器間の異様なバランスのとり方など、インバルからしか聴けない激烈なデフォルメがあり、当時としては最先端をいく精密、かつ、大胆、斬新な楽譜の読みで私たちを仰天させてくれた。その一方で、ユダヤ的とも言うべき熱いカンタービレで私たちの心を酔わせてくれたり、オケの能力を最大限にまで駆使して強烈なクライマックスを聴かせてくれたり、まさにオケを聴く醍醐味を味わわせてくれたのも私には嬉しかった。

     そして、当時は、私はこんな風に感じながらインバルのマーラーに心を動かされていました。

     清く正しく美しく、とか、真善美だなどというようなもの、あるいは教条主義的なものなんてのはクソくらえ。マーラーの音楽は人間の無意識下にあるドロドロした情念やらの暗部を明らかにする。人間のうちにある不条理、不整合、不調和といった「不」のつくものをこれでもかこれでも私たちに見せつけてくれる。これこそが尊い真実の音楽なのだ。

     ・・・あれから四半世紀近くが過ぎました。マーラーの7番をチェコ・フィルと再録音したインバルの指揮ぶりを聴いていると、当然ながら、私も、そしてインバルの側も随分と変わったなあと思いました。

     全体に、フランクフルト盤やベルリンのライヴで聴かせてくれていたような頻繁なテンポの変化やダイナミクスの強調などディテールへの拘りはもちろん健在なのですが、あの頃ほどに神経質ではなく、それよりももっと線の太い豊かな音楽の流れと、スケールの大きな音楽の気宇を表現することに重点が置かれているようです。

     恐らく、チェコ・フィルの明るく豊かな響きが、インバル本来の過激な表現への傾斜の緩衝材となっているからでもあるでしょうが、そこに私はインバルという指揮者の作り出す音楽の深化を見ます。

     細かいところを気にしながら微視的に音楽を聴き、そこに作曲家の特異な「個」を見出すよりも、音楽をより高いところから俯瞰して聴き、音の向こう側にはもっと大きな「普遍」があるのではないかと考えを巡らせることの方が愉しく、有意義と思える演奏。そんな風に音楽への「視野」を広げるためには、やはり相当な努力と経験が必要なはずで、インバルが指揮者として、人間として歩んできた豊かな時間があってこそ獲得できたのだろうと思わずにいられません。

     しかし、変化は私の側にもあって、そういう風に音楽をもっと広い視野でとらえたいと考えているから、そういう演奏に聴こえるという側面のあるのでしょう。血気盛んな20代の若者にはそんな聴き方などできるわけもないし、やはり中年にしかできない聴き方へと私自身もシフトしてきたということなのでしょう。

     そうやって聴いていると、この雑多な要素がゴッタ煮のように詰め込まれた異形の交響曲に、「ひび割れ」だとか「屈折」だとかいったアンビバレントな要素を見出すよりも、それらを調和のとれた一つの有機体として統合する何か大きな力の存在を感じるようになるから不思議です。

     「狂気」などではなく、「正気」の音楽としてこのマーラーの7番を聴いたのは、初めてのことかもしれません。もはやポストモダンなどというコンテクストから音楽を読み解くことさえも無意味で、私は普遍的な古典音楽を聴いているに過ぎないのだと。その意味で、私にはこのインバルとチェコ・フィルの7番は、画期的なアルバムと言えると思います。その完成度の高さから言っても、彼がこれまで残してきた全ディスクの中でも特に印象深いものになるでしょう。

     考えてみると、80年代末期にマーラーをさかんに聴いていた頃の私は、やっぱりバブルの頃の浮かれた空気の中で生きていたのでしょう。マーラーの音楽に半ばオカルト的な「死」や「滅び」への憧れや、黙示録的な「予言」を見出し、そこに溺れて快感を得られたのは、それらがまったく現実味のないものだったから。右肩上がりの社会を何となく「前提」として受け止め、繁栄は永遠に続くとさえ思っていたから。だから、その反作用として、「明るい未来」を信じるよりは、マーラーの音楽にコミットして深刻な顔をする方が高尚でカッコいいことだった。

     ところが今は、世紀末から新世紀に移り、マーラーの音楽にある「死」や「滅び」といったカタストロフを、私たちは経験してしまいました。戦争や災害、テロが原因で大量の死があり、「死」は私たちにはあまりにも身近で現実的なものになってしまった。そうなると、当然、音楽の捉え方、聴き方は否応なしにかわってしまう。
     
     その結果として、マーラーの音楽に「普遍」を見るようになったのです。それは、余りにも厳しい現実に直面してしまった私たちの心の、これもまた反作用なのかもしれません。この音の向こう側に、希望の光があり、私たちが生きていくために必要な力の源がある。そう信じたい、いや、そう信じなければ生きていけない。世界は残酷すぎ、人生は過酷過ぎるから。それが良いことなのか悪いことなのか、成長なのか退化なのかは分からないけれど、そうなったのは間違いない。

     インバルの最近のマーラーは、音楽に「普遍」を見たいという私の欲求に見事に応えてくれるものだったという訳で、もしかしたら、インバルももしかしたら私の同時代人として、同じようにマーラーの音楽の中に「普遍」を見ようとしているのかもしれません。そんな共感のあたたかさをも感じさせてくれ、何度聴いても飽きのこない味わい深い演奏だと思います。素晴らしい。

     先日の都響の定期の会場でこのCDを買ったのですが、おまけでインバルの直筆サイン色紙をもらいました。素晴らしいショスタコの演奏会の思い出と、このディスクへの感銘を記憶にとどめておくために、大事にしたいと思います。そして、来年スタートする都響とのマーラー・チクルス、全部聴きたいと思います。

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    2018.10.21 Sunday

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      コメント
      マーラーはようわからんのですが、インバルってそんなにエライ指揮者でっしたっけ。例えばテンシュテットとかケーゲルとか比べて、ピンとこないんですが。
      • by gkrsnama
      • 2014/05/24 7:28 PM
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