【ディスク 感想】ショスタコーヴィチ/交響曲第11番「1905年」 〜 ヤコフ・クライツベルク指揮モンテカルロ・フィル

2012.02.28 Tuesday

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    ・ショスタコーヴィチ/交響曲第11番「1905年」
     ヤコフ・クライツベルク指揮モンテカルロ・フィル(OPMC)
     →詳細はコチラ(HMV/Tower)




     「本棚を見ればその人がわかる」というのはよく言われることですが、「本棚」を「CD棚」という言葉で置き換えても同じことが言えるはずだと思います。

     例えば、私のCD棚には、ショスタコーヴィチの交響曲第11番のディスクが39種類あります。それが他の人と比べて多いか少ないかはこの際どうでもよいのですが、同曲異演のCDの数ではこの曲は上位に入りますから、少なくとも、私がこの曲に小さからぬ関心を持っていることは、棚を見ただけで一目瞭然です。だからと言って、この曲を聴けば私という人間が分かるかというとそればまったく違いますし、私の性格が「ショスタコの11番みたい(一体どんな性格?!)」とは到底言えないのは当然ですが、ショスタコの11番を偏愛しているという事実が、私のアイデンティティを表現していることはほぼ間違いありません。

     その私の偏愛するショスタコの11番の最新盤、私にとっての39種類目のCDを聴きました。演奏は、先年、若くして癌のために亡くなったヤコフ・クライツベルク指揮モンテカルロ・フィル。クライツベルクの死の前年、2010年1月、モナコのレーニエ・オーディトリアムで収録されたもの(ディストリビューターの広告ではライヴ録音との表記がありますが、ライナーでは見当たらない)で、OPMCという同オケのCDをリリースし始めたレーベルからのリリース。奇しくもクライツベルクの追悼盤となってしまったのですが、ライナーには、このオケの総裁を務めるモナコ公国のカロリーヌ公女のフランス語による追悼の辞が掲載されています。

     セミヨン・ビシュコフの実弟クライツベルクは、このショスタコの11番の指揮を得意にしていて、世界各国のオーケストラを指揮して演奏していました。(私自身も以前、シュトゥットガルトだったかどこか西ドイツの放送オケを振ったライヴをFMで聴いた記憶があります。)そんな彼が、生前、演奏の出来に満足してCDリリースを強く望んだという演奏ですが、確かに彼が自画自賛しただけのことはある優れた演奏だと思いました。

     何が優れているかというと、細部にまでわたり、ものすごく丁寧な演奏をしている点です。大音響のスペクタクルを演出して、標題音楽としての性格を強調するような場面は一切ない。例えば、第2楽章の「血の日曜日」の大量殺戮の描写とされる場面でさえも、金管や打楽器の大音響は節度を保って抑制されていた、几帳面なまでにアンサンブルの整えられた弦楽器のフガートを主体とした「純音楽」となっています。また、全曲を通じて随所で引用される革命歌のフレーズも、器楽的な発想から来たと思われる表情付けがなされているのがとてもユニークだし、第3楽章の慟哭も、一部のロシア系指揮者が聴かせるような号泣などではなく、もっと内省的で抑えた表現がなされています。さらに、第4楽章も、第2楽章同様に、ガッチリしたフォームをもった堂々たるシンフォニックな音楽です。最後は、ロストロ以来の伝統に倣い、オケのトゥッティが鳴り終わっても、打ち鳴らされた鐘の音の余韻が残っています。

     高度な職人技を最大限に生かし、一つ一つの音を積み上げるように丁寧に鳴らしながら、決して感情に溺れず、ストイックなまでに交響曲としての偉容を追求したクライツベルクの演奏、正直言ってしまうと、臨界点を超えてしまうような激烈なものを欲する気持ちが満たされないことへの不満があるのは事実ですが、しかし、この演奏のもつ強靭な意志の力は並大抵のものではなく、その真摯さゆえに私は心を動かされました。

     そしてこんなことを考えました。

     もしかしたら、この曲は、確かにロシア第一次革命に取材した音楽でありながら、革命賛美の音楽などではないばかりか、もはや革命の犠牲者の追悼の音楽でさえもない、と考えるべきなのかもしれない。ショスタコーヴィチ自身は、音楽は何か具体的なものを表現する手段だとは考えていなくて、音楽は「何も表現しない」と考えていた。ただひたすら、「音」が自律的に延伸していくさまを描きたかったのではないか。だからこそソ連政府からの「具象画」を描けという要請は、「抽象画」を志向していた彼にとっては実に迷惑なものだった。何も表現しないツールによって「具象画」など描けるはずがない。だから、ショスタコはあたかも「何かを表現した」交響曲を書いたようなふりをしながら、実は「何も表現なんてしてないよ」とケツをまくっていたのではないか?
     
     ならば、この交響曲のように、たとえ史実をテーマにした音楽であっても、文学的なものを持ち込んですべてを言葉で理解しようとすると、かえって音楽から遠ざかってしまう。もっと抽象的な「悲劇」として虚心になってこの曲を聴くべきであり、それによってこの曲には実はギリシャ悲劇のようなカタルシスが隠されていることが実感できるのだ・・・。

     というようなことでしょうか。勿論これは、クライツベルクの指揮する演奏から連想した思いなのであって、他の演奏を聴けば、180度違うことを感じるかもしれません。でも、そうしたまったく違う解釈が共存できるのならば、それはショスタコの音楽にとっても、私にとっても、ものすごく有意義なことだと思います。こうしてこれまで経験したことのないような「思考」を導き出してくれた演奏の出現に私は心から歓迎の意を表したいと思います。

     そして、余りにも突然で、早すぎたクライツベルクの死を残念に思います。首席就任から数年を経て、ジャケットやライナーの団員全員の写真の中で、得意げな笑みを浮かべている彼の姿が哀しい。彼の指揮するショスタコをもっと聴きたかったです。モンテカルロとの演奏、フランスものやロシアものがいくつか出ていますが、今後ともリリースを続けてほしいです。

     結論。私という人間は、聴いた後で、何かいろいろ考えるのがきっと好きなのであり、そこで何を考えるかが私という人間のアイデンティティである。ショスタコの交響曲第11番は、今も、そして多分これからも、私の脳を活性化してくれる音楽である。以上。

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    2018.05.25 Friday

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