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アンドラーシュ・シフ リサイタルを聴いて



 9年ぶりに来日したアンドラーシュ・シフのピアノ・リサイタルを聴いてきました。(於:東京オペラシティ・コンサートホール)

 まず、彼の弾くJ.S.バッハのフランス組曲第5番を聴きながら、私は不覚にも落涙してしまいました。それは、「ああ、生きてて良かった」という喜びに満ち溢れた涙でした。今まさに産声を上げたような生命の息吹を感じさせる瑞々しい音たちが、私の心の中に溜まった「澱」をきれいに洗い流してくれた気がしたのです。こんなに素晴らしい音楽に出会えてよかった、嬉しいと心から思いました。
 次に演奏されたシューベルトの「ハンガリー風メロディ」では、一変して、それこそ「愛を歌えば哀しみになり、哀しみを歌えば愛になる」というシューベルトの言葉をそのまま音にしたような演奏にまた涙しました。いや、号泣したと言った方が良いかもしれません。とにかく今、私の心が激しくシューベルトの音楽を求めているということもあって、「これが聴きたかったんだ」という感動を覚えたせいもあるでしょう。ハンガリーのジプシー音楽に由来する跳ね上げるようなギャロップの伴奏の独特のリズム感に、シフがハンガリー出身者であることを思わずにいられませんでした。本当にいい演奏でした。
 そして、次はまたバッハに戻ってイタリア協奏曲。これも徹頭徹尾、生きる喜びに満ち溢れた演奏で、フランス組曲の時同様、まさに「至福の一時」を過ごしました。第2楽章の決してベタつかない深々とした抒情に心打たれました。
 最後に演奏されたのはシューマンのアラベスク。優しくてちょっとノスタルジックな音色を楽しみながら上気して興奮した心をい時間をかけて沈静させてくれました。とても印象的な演奏会の締めくくり方でした。

 ・・・と書いてきましたが、実を言うと、以上はすべてアンコールの曲目で、何とバッハのフランス組曲もイタリア協奏曲も抜粋ではなく全曲が弾かれたのです。全部で40分以上のアンコールで、終演を迎えたのはもう22時少し前でした。

 コンサート本体の曲目は以下のようなものでした。

===========================================================================
 ・シューマン/蝶々
 ・ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第17番「テンペスト」
 ・シューマン/幻想曲
  − 休憩(20分) −
 ・ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」
===========================================================================


 これらの曲では、アンコールの時とは若干違う感想を持ちました。

 シフの演奏は、まず一つ一つの音を綿密に分析してそれらに相応しい音色をイメージして、その音色の変化やダイナミズムでもって音楽を構築するような特徴があると思います。たとえて言うなら、楽曲全体がジグゾーパズルで、その構成要素である音符がパズルのピース、そして各ピースそれぞれに精密な色づけと造形をおこなって、それらをぴったりとあるべき形に仕上げてパズルを完成させていく、そんなイメージでしょうか。
 特にベートーヴェンのソナタで、どんなに激しい部分でも一つ一つの音がしっかりとした質量とベクトルを持って明晰に鳴らされているのが印象的でした。しかも、それらの音が何と多彩で豊かな音色で奏でられていたか、それは驚異的としか言いようがありません。ペダルを踏みっぱなしにして敢えて音をぶつけるあたりの音の響かせ方などもとても印象深いものがありました。
 そんなシフの演奏によって、ベートーヴェンの音楽においては最初に提示された「主題」が発展する過程で、自らの中に生まれた「主題」へのアンチテーゼに耳を傾け、完全に足を止めて思索するような場面が、意外に大きなウェイトを占めているのだということがわかりました。暗中模索のまま進む「テンペスト」の第1楽章や、果てしなく自問自答が繰り広げられる「ワルトシュタイン」の第2楽章などでそれは顕著でした。これはそのままシューベルトの音楽の「逡巡」やシューマンの音楽の「狂気」の要素を孕んでいるだけでなく、十二音技法以降の現代音楽さえも予告する音楽だとさえ思いました。それは私にはとても大きな発見で、大いに感動したところです。
 ただ、細部にまで十全の心配りをした緻密な音楽の設計と演奏に感心しながらも、奔放で型破りなベートーヴェンの音楽のはかりしれない強烈なパワー、破壊力、前進力といったものが少し背後へと隠れてしまっているのが私にはほんの少し不満でした。それは物理的な音量の問題ではまったくない(とても豪壮なフォルテでした!!)ですし、とても些細な不満ではありますが。

 一方、シューマンの2曲は、私がシューマンのピアノ曲には不慣れで、自分なりの聴き方を持てていないので、正直言うと「曲自体を理解し切れていない」というのを痛感しました。が、その前提の上で演奏の感想を書くとするなら、やはりここでもシフの演奏のスタンスの基本は上記で述べたことと共通していて、「音色で構築された音楽」を聴いたということでしょうか。それぞれの音、モチーフ、フレーズ、楽章、すべてにおいてどんな音色で弾くのが良いのか、帰納と演繹を厳しく繰り返しながら丹念に構築した音楽。そして並外れた集中力を持って、饒舌なまでにシューマンの音楽からたくさんの切れ切れの言葉を導き出した演奏。私の今時点の感覚では、シューマンの音楽は「あらかじめピースの失われたジグゾーパズル」のようなものであって、その「喪失感」ゆえに美しさがあると感じているのですが、音楽に対して厳しく論理的あるいは倫理的であろうとするシフのアプローチが、シューマンの音楽の「失われたもの」の存在を明らかにしていて秀逸だったと思います。

 そして、これらの非常に理知的な演奏を聴いた後に、最初に書いたような音楽の喜びに満ちたアンコールの曲たちを聴いたわけです。正直言うと、本体の曲だけで演奏会が終わったら、「いい演奏だったけど疲れたなあ」と思いながら帰路に着いたと思いますが、あのバッハやシューベルトを聴いて、些細な不満がすべて消え去ってしまったのです。「終わり良ければ」ではないですが、本当に素晴らしい演奏会だったと思います。

 もう一つ、書いておきたいことは彼の弾いた楽器についてです。シフの音色感を重視した音楽観を体現するには、楽器の選択は大変重要な要素になっていたように思いました。彼は、ピアノの「グローバル化」の象徴であるスタインウェイではなくてベーゼンドルファーを弾いたのですが、そのまろやかで柔和な音色を駆使して、まったく独自の音世界を作り上げていたと思います。そのへんは、以前このブログで書いたシューベルト全集のディスクでの印象と重なるところです。

 ・・・と、書きたいことを書きなぐるばかりで全然言葉を整理できていませんが、いい演奏会を聴けたという大きな満足感に包まれていることは確かです。きっと一生忘れられない演奏会になると思います。私にこんな機会が与えられたのはとても幸運だったと感謝せずにはいられません。シフの大ファンになってしまいました。これからも彼の演奏を聴いていきたいと思います。

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  • 2017.03.01 Wednesday
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  • 02:29
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コメント
nailsweet さん,はじめまして。
私も同日,アンドラーシュ・シフのコンサートに行ってました。
そして,同じ感想を持っている!と思って,思わずカキコミをさせていただきました。
私もアンコールの方が10000倍よかったと感じました。自由で,大きくて。

「いい演奏だったけど疲れたなあ」に笑ってしまいました。
腰痛持ちの私は,帰り際,腰が痛いなあ,と思ってしまいましたヾ(@^▽^@)ノ
あもるさま、コメントありがとうございます。

> 「いい演奏だったけど疲れたなあ」に笑ってしまいました。
> 腰痛持ちの私は,帰り際,腰が痛いなあ,と思ってしまいましたヾ(@^▽^@)ノ

私も腰痛持ち、思わぬ長丁場で腰が痛かったですし、3階R席でいつも横向きで舞台を見ていたので首も痛かったです。

でも、ほんとに素晴らしいアンコールでしたね。あのバッハやシューベルトのことはずっと忘れられないと思います。
はじめまして。昨夜、NHK教育の藝術劇場でアンドラーシュ・シフのピアノ演奏を聴きました。こういう演奏もあるんだなと興味津々で観ていました。nailsweetさんのブログにリンクを貼らせていただきました。またいろいろ教えてくださいね。
whiteredさま、コメントとトラックバックありがとうございます。

4/18のTV放送を御覧になったのですね。
私も改めてTVで見て、やはりアンコールで泣きました。
とても良いバッハとシューベルトでした。
勿論、メインのシューマンとベートーヴェンも良かったです。
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NHK教育 藝術劇場
アンドラーシュ・シフの演奏        写真は記事と関係ありません。あしからず。  4月18日土曜日の午後10時半からでした。ちょっとだけ観てみようと思って点けたNHKの藝術劇場。アンドラーシュ・シフという方の東京オペラシティのコンサートの録画放送
  • そぞろ
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