【演奏会 感想】J.S.バッハ/マタイ受難曲 〜 鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパン (2012.4.6 東京オペラシティー コンサートホール)

2012.04.07 Saturday

0
    ・J.S.バッハ/マタイ受難曲(2012年受難節コンサート)
     鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパン
      (2012.4.6 東京オペラシティー コンサートホール)

     
    <<出演者>>
    ハナ・ブラシコヴァ、藤崎美苗(S) 
    クリント・ファン・デア・リンデ、青木洋也(C-T)

    ゲルト・テュルク、水越 啓(T)

    ピーター・ハーヴェイ、浦野智行(Bs)


    ---

     バッハ・コレギウム・ジャパンの受難節コンサート、J.S.バッハのマタイ受難曲を聴いて来ました。指揮は当然、鈴木雅明で、場所はいつもの東京オペラシティのコンサート・ホール。ソリストは、エヴァンゲリストにお馴染みのゲルト・テュルク、ソプラノには最近の常連ハナ・ブラシコヴァ、カウンターテナーにはクリント・ファン・デア・リンデが登場、そしてイエスには多くの古楽系名指揮者との共演で知られるピーター・ハーヴェイがBCJ初登場しました。(そのほかのパートはBCJのメンバーが担当)

     私はこれまで何度かマタイのナマは体験してきましたが、こんなに「あっという間に終わった」という感覚を味わったのは、かつてのBCJの演奏を含めて、いまだかつてなかったことのように思います。

     とてもありきたりの言葉になってしまいますが、凄い演奏でした。聴く前の予想をはるかに凌ぐ凄さ。もうそう言うしかない。何が凄かったといって、演奏者の音楽への強靭な集中力。ナンバー間のインターバルも極力短くし、時には間髪入れずに次の局面へと移行することにより、預言の通りに一直線に悲劇が進行していくさまが、ほとんど一筆書きのような一貫性をもって表現される。私たち聴き手はぐいぐいとキリスト受難のドラマに引き込まれていくしかありません。

     正味2時間40分余り、どの場面でも、ほんとうに胸を打つ音楽が繰り広げられていたのですが、特に印象に強く刻み込まれたのはコラールでした。一つ一つの言葉に込められた恐るべきエネルギーの高さはいかほどだったことでしょうか。時に怒りを吐き出すように強いアクセントを伴い、時に一つ一つ音を切って、はっきりと、そして押しこむように念を押して発音し、歌詞に込められた思いがストレートに聴き手に伝わってくるような演奏。ドイツ語をほとんど解しない私にさえ、強烈な表現の隈取りを与えられた言葉たちが、何と雄弁に語りかけてくることでしょうか。特にペテロの否認の後、「憐れんで下さい」のアリアの後に歌われる懺悔のコラール、そして、イエスの死の直後に歌われる追悼のコラールでは、本当に一つ一つの言葉が、まるで楔のように私の心に打ちつけられるのを感じずにはいられませんでした。

     そんな風に演奏された「マタイ」は、私にとっては、とても主情的な音楽、もっと言うと、ある意味ロマンティックな音楽でもあるようにさえ思えました。

     古楽器を用い、古楽アプローチで演奏しているのに主情的?ロマンティック?そう。音楽の方法論は確かにオーセンティックなものに依拠していて、バッハがどのような音楽をイメージして作曲したかを学究的・綿密に考察した上で導き出されたアプローチなのですが、彼らがそのアプローチを突きつめていけばいくほど、演奏者(特に指揮者である鈴木雅明氏)の、音楽、人生、宗教への姿勢、あり方のようなものがより露わになっているように思えたからです。

     その結果として生れた音楽は、どこまでも人間的な、人間臭いものでした。実際、会場で販売されていたパンフレットに、鈴木雅明氏のこんな文章が掲載されていました。 
     本来、イエスの十字架の死が、私たちにとって意味を持つのは、イエスが陰府(よみ)に降り、3日後に甦ってからのはずですから、この時点(イエスの死)では、まだそのことが全うされた、とは言えません。しかし、マタイ受難曲におけるイエスの死は、ヨハネ受難曲と大きき違って、あくまで「人間イエス」としての死でした。だからこそ、イエスは最期に、「わが神、わが神、何故、わたしをお見捨てになったのですか」と叫び、一方、ヨハネ受難曲においては、すべてについて神の摂理が個人に優先するので、イエスは「すべては成し遂げられた」と言って、息を引き取るのです。ヨハネ受難曲を既に完成していたJ.S.バッハは、マタイ受難曲においては、もはや神の摂理を語るのではなく、私たちひとりひとりに寄り添い、私たちが例外なく味わうはずの死の恐怖が、実はイエス自身も味わわれたものであり、しかもそれが、イエスによって打ち砕かれたものであること。だからこそ、イエスのみが、死に際して、私たちに寄り添い、本当の慰めを与えて下さることを、このコラール(第62曲、追悼のコラール)によって示したのでしょう。
     まさにこの文章をそのまま実感できるような演奏を聴くことができたと思います。同じ文章の中で、先日亡くなったグスタフ・レオンハルトの思い出に触れながら、「無私的に音楽に奉仕する」ことによって「かえって誰にも真似できないほど強烈な主張が生まれる」ということをレオンハルトから学んだと書いていますが、まったくその言葉通り、狂気じみていると言いたくなるほどに表現を切り詰めて余分なものを殺いでいった末に、かえってそこにこそ演奏者の意図が色濃く反映され、より人間臭いドラマが出来上がったとでも言うのでしょうか。キリスト教にもドイツ語にも縁遠い私が、「マタイ」をそんな風に聴き、感じるのはなかなか奇妙なことですが、それこそがBCJの2012年のマタイの一つの狙いだったのだろうと思うので、この感想はBCJの勝利を意味するのだと思います。

     ソリストは、まず私の最近の女神さま、ハナ・ブラシコヴァがやはり素晴らしかった。特に「愛ゆえに」の余りにも透明な哀しみには胸をかきむしられる思いでした。キリキリと痛むような激しいドラマの表現の谷間で歌われるだけに、その清純な美しさが響いてきました。ああ、この人の歌、もっとずーっと聴いていたいです。もしこの人に直接会うことがあったら、プロポーズしたいくらい。プロポーズの言葉は「毎晩、私の耳元で歌を歌ってくれ」とでも。本当に素晴らしい。

     そしてBCJ初登場というピーター・ハーヴェイ。若々しく、激しいパッションを胸に抱えた、血気盛んだが根は優しい心を持った青年とでも言うような新鮮なイエス像を提示してくれました。特に弱音の美しさ、伸びのある高音は第一級のもの。イエスの死の後、アリアや重唱を歌っているのは、まるでイエスが「復活」したみたいで面白かったです。

     テュルクのエヴァンゲリストも、まさにBCJの「マタイ」の中核。人間臭い「マタイ」のコアな部分のドラマを、彼が歌い演じるエヴァンゲリストがまさに中心になって場面を作っていく。この人あってのBCJのバッハだと思います。

     カウンターテナーのリンデは声も歌い回しも独特のクセのある歌手で、悪くはないんですが、ちょっと私の好みとは違いました。むしろ第2カウンターテナーを務めた青木洋也の歌で「憐れんで下さい」を聴けたらと思うくらい。青木さんは私は相当な実力の持ち主だと思います。

     その他も、皆、健闘していました。特にソプラノの藤崎美苗の清純な歌が気に入りました。

     結局のところ、私は今日のBCJの演奏を通じて、「マタイ受難曲」の高らかな人間宣言を聴いたのかもしれません。ただ、その人間宣言は、必ずしも肯定的なものばかりではなく、むしろ我々自身への怒りや不満を表明するものでもある。どうして私たちは、「より明るく」「より良く」生きられないのかという怒り、そして焦り、哀しみ。例えば、私たちは地震から一年たって何一つ良くなっていないではないか!

     聴後、そんな風に考えることができるというのは、とりもなおさず、バッハの音楽が今でも私たちの生活においてはアクティヴであり続けるということに他ならない。そして、今日聴いた演奏が素晴らしかったということに他ならない。

     その意味で、人間宣言した「マタイ」を聴くことができて本当に幸せでした。BCJはいよいよ来年でJ.S.バッハの教会カンタータのチクルスを終了しますが、あと2回、何とかして聴きに行きたいと画策中です。

    スポンサーサイト

    2019.05.08 Wednesday

    0
      コメント
      良かったですねえ、4月6日(2012年です、お間違えなく)のBCJのマタイは。私も大いに堪能しました。ソロ歌手で参ったのはゲルト・テュルク、恐れ入るしかありませんでした。次いでピーター・ハーヴェイ、何と身体に響く声でしょう。そしてハナ・ブラシコヴァと藤崎美苗のお二人。私はソプラノではIngrid Kertesiの大ファンなんですが、この二人のソプラノも本当に素敵だと思いました。たまたまこちらのブログを見付け、コンサートの余韻に浸ることができました。
      • by 観音庵
      • 2012/04/08 10:17 PM
      コメントする
      トラックバック
      この記事のトラックバックURL